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序章「悪夢」

 女が倒れていた。かち割られた頭から流れ出る濃厚な鮮血が、フローリングの床に血だまりをつくり、ゆっくりと広がっている。

 九十九(つくも)黎人(れいと)は、金槌を持って立っていた。その先端は血に塗れてポタポタと滴っている。

 すぐ隣では泣きそうな顔をした妹の七海(ななみ)が左腕の流血を押さえていた。

停電して冷房の効かなくなった居間の中は真夏の熱気にじりじりと蒸している。そう、つい一時間前まではいきなり停電したことに暢気に文句を言っていた。

なのに……。

 黎人はとめどなく流れる汗を拭うことも忘れて考えている。

 ―――どうしてこんなことに……。

 突然のことだ。

 恐ろしい伝染病が全国を襲っていることは知っていたが、東京から始まったその脅威が自分達に及ぶなど想像できなかった。買い物から帰ってきた母親は、男に噛まれたと言って、首元の傷をおさえていた。それから、ものの十分も経たずに母親は豹変―――いや、母親ではなくなった。

 バタンッ! と、勢いよく玄関を開ける音がした。

母親の帰宅後、すぐに連絡を取った太一がやってきたのだろう。

未曾有の大惨事で急遽、陸海空を越えて編成された自衛隊の特殊災害鎮圧部隊。黎人の親友で自衛隊員の風間太一は部隊員だった。希望が通り地元に配属された。七海のために。

兵装姿の太一が居間に入ってくると、予想を上回る惨状に顔を歪めた。平素なら、長身痩躯で糸目の太一は、飄々とした印象を与える男だ。しかし、この状況だけは受け入れ難く、いつもの冷静さを保てていない。

太一は既に死んでいる母親を一瞥すると、七海の左腕の傷を確かめた。くっきりとついた歯形から血が流れている。

「噛まれたの?」

「うん……」

 太一が傷口から目をそらした。あまりに痛ましくて直視出来ないのだろう。本来なら、恋人同士であるこの二人は抱き合って無事を喜びたかったはずだ。これではあまりに残酷すぎる。

 太一は戸惑いながらも意を決した。

「逃げろ!」

 そう言うと、黎人と七海に視線を送った。

 部隊員としては失格。しかし、彼氏としては止むを得ないだろう。

「太一さん」

 泣きそうな七海に、太一は泣き笑いのような複雑な表情を返した。

「れーちゃん。隊員達が来るから裏から出た方が良い!」

 太一は切迫した声で黎人を促す。

 黎人は頷いた。

 そして、逃げようと七海の手を取った瞬間―――家に流れ込む大勢の足音が響いた。

 半長靴が床を揺らしながら、隊員達が居間に入ってくる。

逃げる間もなかった。

「風間3曹! 勝手に動くな!」

 太一が隊長らしき男に殴られ、後ろに倒れた。

黎人と七海は、部隊員に050式小銃を向けられて、身動き出来ない。

太一は、慌てて隊長に縋り、叫んだ。

「隊長っ! 見逃してください!」

「おい、抑えてろ」

 隊長は一顧だにせず、他の隊員に指示して太一を抑えさせる。

 黎人が七海と握った手に力を込めた。

 無理やり飛び出すしかない。

 じんわりと汗で濡れている七海の手。守らなきゃいけない。

 しかし。

隊員の一人が黎人を後ろから羽交い絞めにした。察したのだろう。引っ張られて、七海の手が離れた。

―――ダメだ! 絶対にダメだ!

 黎人は暴れるが隊員も全力で抑えこむ。身動きが出来ない!

「隊長、やめて下さい! やめて下さい!……」

 懇願している太一の声には答えず、隊長は七海にきいた。

「噛まれましたか?」

 七海は俯いた。無言の肯定。左腕の流血と黎人達の様子を見れば誰でも分かるだろう。

「……風間、許せ」

そう言うと隊長は、黎人にも向き直り一礼する。その所作には手慣れた様子があり、事務的にも感じた。

 ―――ダメだ! やめろ!

 隊員の一人が七海の前に進み出る。

「やめろー!!」

太一は大声を張り上げたが何の力もない。

「ひざまずいてもらえますか?」

 隊員の声が冷たく響いた。

「……はい」

 既に諦めた様子の七海は素直にひざまずくと、不自然に体が震えだした。母親と同じ兆候が始まっている。

 ―――逃げろ!

叫びたいのになぜ声が出ないんだろう?

「リーチ病感染防止特例法は知っていますか?」

 七海は力なく頷く。

 知らない者などいない。感染拡大防止のため、苦肉の策として作られた前代未聞の特例法。

 隊員が050式小銃のマズルを七海の頭にポイントした。

「リーチ病感染防止特例法、第三条に従い執行します」

 七海は脅えた目で太一と黎人を見た。

 ―――こんなに怖がってるじゃないか。やめろよ!

「太一さん……お兄ちゃん……さよなら」

絞り出した弱々しい声。最後にビクンと大きく震え、目を閉じた。

「やめろー!」

 やっと声が出た―――同時に乾いた銃声が響く。

 

 



 終わった。広がっていく空白が視界を埋め尽くした―――。


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