変身
今朝、目覚めると私はキリンだった。
嗚呼、如何したものか、と思う。お気に入りのパジャマの襟元がぐにゃりと歪な形に伸びてしまっている。去年の結婚記念日に、妻が私の為に買ってくれた物だったのに。私は溜め息を吐いた。つもりだったが、それは生温い鼻息として四散した。自分の体が、まるで自分の体ではないように感じる。それはそうだろう、私は昨日迄は確かに人間だったのだから。
慣れない視界の高さで隣を確認すると、横で眠っていた妻は私より先に起きたようだ。朝御飯の支度をしているのだろう、キッチンの方からは香ばしい匂いが漂っている。この匂いはきっと目玉焼きとベーコンだ、妻と私の大好物である。しかしキリンである私は、それらを食べることが出来るのだろうか。キリンは確か草食だったように思うが。腹の虫はそんな私の悩みを馬鹿にするかのようにぐう、と鳴いた。私は確かに嗅ぎ慣れたその匂いに食欲をそそられているのだ。
ベッドを潰してしまわないように、そろりと床に足を下ろした。人間の皮膚では決して奏でる事は出来ないであろう硬質な音を鼓膜が拾う。目の前の全身鏡に映る自分の姿を見て、嗚呼本当に自分はもう人間ではなくなってしまったのだと実感した。人間ではないキリンの私でも、妻は変わらず愛を囁いてくれるだろうか。それだけが不安だ。私は恐る恐るリビングへと向かう。
こつこつ。廊下を歩く音がやけに大きい。どくどく。心臓の音が騒がしくそれに同調して、まるで奇妙なオーケストラのようであった。プロポーズの時だって、きっとこんなにも緊張はしていなかった筈だ。私はゆっくりと扉を開く。
しかしそこには妻の姿はなかった。綺麗に皿に盛り付けられた料理だけが私を出迎える。
いや、違う。確かに妻はそこに居た。
にょろりと細長い体、てらてらと赤く滑る細い舌、ぬるぬると電球の光を反射する皮膚。
妻は、蛇であった。
人間だった時の声帯はもう私達には無い。私も妻も必死に何かを話そうとするが、到底人間とは思えないような鳴き声に近い音が溢れるばかりである。そうしてやはりもう私達は人間ではないのだなあと、また改めて実感する。
キリンになった私を妻は愛してくれるかと心配だったが、それは如何やら杞憂のようだった。私の長い首を妻はするすると器用に這い、その小さな口でキスをしたのだ。尾の先端には結婚指輪が光っていた。
(嗚呼、私も変わらずにこの蛇の妻のことを愛している!)
堪らなくなって、私よりも随分と小さな体にキスを送る。何度も、何度も、何度も、
気付くと妻はそこには居なかった。
嗚呼、ああ、あぁ、何ということだろう。知らない間に私は妻を、蛇になった妻を食べてしまっていたようなのだ。大きな口で、ぺろりと丸呑みにしていたようなのだ。
私は泣いた。泣いたつもりだったが涙は一滴も零れなかった。やはり私はもう人間ではないのだ。妻が最期に作ってくれた二人分の朝御飯を食べた、やはりそれも美味しくは感じられなかった。
変わらないのは私の妻への想いだけだ。そうだ、それだけだ。それだけは変わらない。
私の胃袋の中で妻がにょろりと動いた気がした。私にはそれが妻が喜んでいるようにも思えたのだ。