6章
「……」
恐怖のあまり声がでず、思わず両手を口にやって後ずさってしまった。
「そんなに怖がらなくても、俺の姿、普通だとおもうけど」
そう言うと、青年は軽く笑いかけてきた。
確かに、怖い姿ではないが、見知らぬ者がいきなり家に押し入ってきて、驚かないはずはない。
「なあ、何も襲いにきてるんじゃないんだから、少し落ち着けよ……」
青年は軽やかな口調で両手を開いた。
さらさらと揺れる衣に目がとまる。
市場の人も優雅な衣をまとっていたが、それに似ている。お金もちそうな人は、皆このような衣をまとうのだろうか。
市場の人と顔は全く違う。あちらは銀の巻き毛。今目の前にいる人は、金の長い豊かな髪。
筋が通っていて、形のいい鼻。深緑の双眸。描き手をそそる造りだ。
「何だ、そんなに観察されるなんて光栄だな」
「あ、いえ……」
しまった。うっかり観察眼になっていたようだ。
「あ、あの、外の方たちと知り合いなんですか?」
「そう見えるか?」
「いいえ……」
「よかった。あれと一緒にしないでくれ。俺は、絵を買いにきた、客だ」
「え。ちょっと何いって……」
青年がそういいながら、沢山立てかけている方へ歩きだしたからだ。クリスは慌てて先周りした。
「ちょっと、勝手に入ってきてずいぶん失礼な……こんな時間に来たりして、私、あなたのこと全然しらないんですけど」
「そうだな、夜にきたのが悪かった」
と謝っているのは言葉だけで、態度にはその欠片もない。それどころか、笑みを浮かべている。
その深緑の目が、クリスを見下ろした。
「絵をみせてほしいんだが」
「嫌です。まず、名乗るなり……じゃなくて、勝手に入ってくる人に聞くこともありません。市場に出ますから、そこで改めて来てください」
「せっかく来たのにな。それに、明日は市場には出られないんだ」
「え……」
ふいに、あの青年を思い出した。同じことを言ってなかっただろうか。
気になって、目の前の青年を見るが、やはり違う。
もしかして。
「あの、夕方に絵を買いに来た人の、知り合いですか?」
「俺のような奴がきたかな?」
「話し方と服装は似てますが……。顔や髪型が違います」
「そうか」
いいながら、青年は楽しそうに笑っている。
「そいつは俺の知り合いだ。絵を買いに来ただろう? あいつも、俺も代理だ。本当に欲しがっているのは、その絵の中の本人だ」
「え、この女性って……?」
クリスは訂正された絵をじっと見た。
「アテナさ」
「はあ? それって女神さまじゃないですか……」
「そうだな。まだ完成してないようだが、その顔と服装はアテナだ」
「女神様を、ご覧になったことあるんですか?」
「俺の姉だからな。何度でも」
「何を……。あ、貴方の名前は?」
「ヘルメスさ」
「また、そんな名前使って……。まさか、本物?」
「そうさ」
ヘルメスと名乗る青年は軽やかに笑っている。
「あの。ヘルメス神って、双子だったんですか?」
「いいや。市場にいたのは、俺の本当の姿。で、これが仮の顔。どちらがいい?」
「どちらがいいって言うんじゃなくて……貴方が神様ってのがちょっと」
クリスは脱力して、少し笑えてきた。
「信じてないよな……。その絵、少し修正したの俺だけど」
「え?……あ!」
そういえば、つけてしまった線が綺麗に消されている。
「ん……でも、どうもそうは見えないんですけど……」
「刀を錆びさせたのも俺だ。その綺麗な髪を切ってしまうのはもったいない」
「刀……あ!」
そうだ。そんなこともあった。だけどそれよりも。
クリスは慌てて近くの黒紐をつかんで、髪をまとめあげた。それから、髪を覆う布のところへ行こうとして、右腕をつかまれた。
「あ、あの……」
「髪を隠そうとしてるのか」
「そう……だから離して……ください」
「必要ない」
「え? でも」
「さっき、表の奴らも話してたが、黒髪が神が嫌う色だって?」
「ええ、そう。だから……」
「それは大間違いだ。ここでは間違った話が出廻っているようだな」
「本当に……?」
まだ神様なのかはっきりわからないこの青年に言われても、手放しでは喜べない。
クリスはつかまれた手を振りほどいた。
「信じてないだろう?」
「ええ……」
よっぽど不審な目を向けていたらしい。すぐに言い当てられた。
「その事はまた後で説明してやる。俺の用事は、絵を買いにきたのが名目。だが本当はお前を連れていくために来た」
「どこへ……?」
「神界さ」
「どうして……?」
「どうしてだかな。お前の絵の腕が必要だそうだ」
「誰がそんなことを……」
「俺よりもずっと大きな存在の神さ」
「神様に、目上とか目下みたいな違いがあるの?」
「まあな。いろんなことは後で説明してやるよ。とりあえず、お前は人間界に居るべきじゃない」
「そんなこと言われても、私はここで生活してるんだし……」
「少なくとも、外の奴らには二度と会わなくて住むし、生活の心配もなくなる。好きな絵だけを描いて過ごすことができるんだ」
「そんな夢みたいなこと……」
あるわけがない。
「確かに、あんな人たちと会わなくて済むなら本当に嬉しいけど……あ! 外!」
「どうした?」
「外の人たちが探してるのは、≪神の落し物≫なんです。貴方が本物なら、ここにいては駄目です」
「本物ならって……」
ヘルメスが豪快に笑い出した。
「駄目ですって。声をだしちゃ」
「ああ、面白いな、鉢合わせたらどうなるかな」
「だから、駄目ですって……」
「まあ、どちらにしてもあの事態はどうにかしたいだろ」
ヘルメスが外を親指で差す。まだ掘り起こす音が聞こえる。
「それはそうですけど、私は外に出たくありませんし、貴方に出られても困ります」
「解ってる。明日には決着つけてやるよ。今晩のところはこれで」
「えっ? どういう……」
訳をききかえす言葉が終わらないうちに、ヘルメスは消えていた。
立ち尽くすクリスの耳には、虫たちの声が聞こえるのみだった。外での物音も、すぐに止んでいた。
外の者たちは、神の落し物とかいうのを探し当てたのかどうかはわからないが、明日の市場に差し支えがでるから、帰ったのだろうか。
そうしてクリスはいつもより睡眠時間を削られた上に、すぐ最悪な朝を迎えることになるのだった。