3章
ここではクリスの普段の生活、生い立ちが書かれています。
2
クリスの家は、大きな葉の生い茂る木々の間にあった。
昼間なら適度に日が差して、木の壁はいい色を魅せるのだが、今は月光に照らされて青黒い。
手探りで扉を開けると、入ってすぐに全ての荷物を降ろした。とたん、肩から羽が生えたかのように軽くなる。
火を起こして明かりを灯し、小さな台所で、昨日の残りのスープを飲んで、すぐに身体を洗った。
それからが、クリスの楽しい時間だ。
いつものように作業着である前掛けをつける。木炭や染料で汚れてしまっているそれは、元々の黄色の生地を面影さえないようなものに変えていた。
クリスは木炭を軽く持った。
今晩も昨日の続きを描いている。これに取り掛かってもう五日目だが、なかなか思うように描けず、クリスは何度か席を離れる。
なかなか進まないのも当然だった。
クリスの目の前には、モデルがない。
夢で見た人を、思い出しながら、描きだそうとしているからだ。
その女性は、肩から足元まで綺麗なひだの入った柔らかそうな白い衣をまとい、腰と額に銀の飾りをつけていた。
その女性がいた場所もすばらしかった。
柱の形からして、神殿だろうと想像はつくが、クリスが普段みているデロスの神殿とは比べものにならないほど大きく、柱の彫り物も一つ一つが豪華だった。
そんな立派な神殿の奥で立つ女性。背が高く、くっきりした顔立ちで理知的な目。
人間とは思えない。
女神か。
そうとしか思えない。
自分で想像して作り出した姿なのだろうが、本当に美しい人だった。
だから、描いてみようと思ったのだった。
クリスは度々そういうことをしていた。
夢で見る風景や人物がやけにリアルで、目を閉じると、結構はっきり思い出せる。
毎日森の絵ばかり描いていて、そろそろ飽きていたクリスには新鮮な材料だった。
そうして描いた絵は、もう二十にもなる。
そのうち、いくつかは幸いにも気に入ってもらえたようで、人の手に渡っている。
今日、お客が目をつけてくれたのも、夢でみた山の絵だった。
クリスは一息ついて、再び木炭をのせはじめる。
少し描いては小麦の練り物で消し、また炭を載せて…。
それを繰り返しているうちに、早くも眠気が襲ってきた。こうなると、続けては描けない。
「うーん……」
伸びをして一度絵から離れ、まだ乾ききってない髪を拭きながら絵を眺める。
納得いく絵にならない。
立っただけでは眠気が覚めないようなので、窓を開けて、外の空気を入れてみる。
昼間の熱風とはかけ離れたような涼しい風がほんの少し入ってきた。月明かりで浮かび上がってみえる近くの木の葉のにおいも、更に暑さをやわらげているのかも知れない。
森の奥にあるこの家は、母が知り合いのきこりから譲りうけたものだった。
クリスが三歳の時にここに来たらしい。
優しかった母は、クリスが十一の時に病死してしまった。
きこりは経済的理由から、クリスの引き取りを拒否し、この家を提供することで縁を切った。以来、一人のまま六年目の夏を迎えている。
木々の間から見える星を仰いだ。
誰が言ったのか。
あの星々を線で結びつければ、神が浮かびあがると。
そして、その姿一つ一つに言い伝えがあると。
小さいころ、クリスも神殿守の語り部に聞いたことがあった。が、幼すぎて記憶にないのが悔しい。
もう一度誰か話してきかせてくれればと、想いを馳せてはため息をついた。が、その想いを邪魔するように、虫が入ってきてしまったので、慌てて戸板を引いて部屋に戻った。
それからもう一度絵を見直してみる。
森の香りがクリスを癒したのか。
今度は、木炭を握ったとたんに、すんなり進む。
空腹だった自分の腹を満たすように、渇きを潤すように。
画面上で、知的な目をした女神がはっきり姿を現そうとしている。
何だか調子がでてきたので、ひょっとしたら今晩中に仕上げに近いところまで進むかもしれない。
更に夢中になりはじめた時、水を差すように扉が叩かれた。
「いやっ!」
クリスの心臓がはね、冷や汗が一瞬にして脇を下っていった。
しかも、驚いた拍子に木炭を画面に押し付けて、折ってしまっていた。
女性の腰の横辺りに、とても違和感のある黒い線がついてしまった。
「だれっ?」
こんな夜に、森の奥の家に訪ね人があったことなど、一度もない。
だから、思わず鋭い声で誰何した。
 




