2章
「あ……ちょっと言い過ぎたみたいだな。すまない。謝るからさ、絵はとっておいてくれないかな?」
青年は、申し訳程度に片手を挙げた。
「いいですけど……今度は暗くならないうちに、来てください」
「わかった」
青年は短く答えると、もう歩きはじめていた。
そして、そのまま去っていくかのように見えたが、ふいに足をとめ、クリスに向きなおった。
「そういえば、名前を教えてくれないかな?」
「あ……」
ほんの少し戸惑ったが、まあ、答えても大丈夫だろうと、判断した。
「クリスです」
「そうか。きれいな名前だな。俺はヘルメスだ。覚えておいてくれ」
「えっ?」
クリスは耳を疑った。だって、その名は……。
「覚えやすいだろう?」
ヘルメスと名乗る青年は、いたずらっぽい視線を向けた。
クリスは少し青ざめた。
本名を教えたくないにしても、それは名乗ってはならない。
ヘルメスとは、今回の《旅人の祭り》の崇拝神、ヘルメスの名であるからだ。
クリスは慌てて辺りを見回した。
とりあえず、誰もきいてなかったようだ。よかった。
それから、すぐに青年に説明をする。
「あの、ここでは神と同じ名を名乗ることは冒涜とされていて、神罰が下るんです。せめて、この地域だけでも、違う名にされたほうが無難ですよ……」
「へえ。そんなしきたりがあるのか。俺は神の名にあやかった方が、いいことがあるような気がするけどなぁ」
「駄目です。冗談でも許されません」
「冗談でも、って手厳しいな。そんなに恐れなくてもいいんじゃないか? それとも、本当に何かあったのかな?」
「えぇ。私が直接見たわけではありませんが、神罰を下された人はいるようです」
「そう、そうかい。そりゃよっぽどそいつが悪いことでもしたんだろうなぁ。でなきゃ、神を恐れたりしないだろう? ここの人たち、神を敬うってよりは、怒らせないための牽制の祭りをやってるようにみえるな」
「あぁ……」
それは、言うとおりかもしれない。
「そちらの地域では、恐れてはいないようですね?」
「もちろんさ、そんな悪い奴はいないよ。で、ここでは、ヘルメスは何の守護をしているといわれてるんだい?」
「え……旅人、ですけど……」
「他には?」
「あとは、商売の守護とか、伝令神とか」
そこでクリスは口ごもった。
「他にもあるんだろう?」
青年は微笑んで先を促した。
「知ってるなら、聞かなくてもいいじゃないですか」
クリスは険しい目を向けた。
「そんなに怖がらなくていいだろう? 嘘と泥棒の神ってのは、こっちでも通用してるのかな?」
「はい、まあ……」
肯定はしてみるが、本当はこんな会話してるだけでも恐ろしい。
クリスが幼いころ、今は亡き母から語り伝えられたことがある。
《神様はね、人間が悪いことをしたり、神様のことを悪く言ったら、いつでも聞いていて、すぐ罰が下るのよ》
聞いた当初は、おとぎ話のようだと思っていたのだが、それから二年、クリスが九歳の時、現実に起こった。
不正を働いた男の元に、人間の姿で現れたのは、正義を司るアテナだった。
アテナはその男をねずみに変え、周りで見ていた者たちに、人間としてのあらざる行いを諭したという。
デロス神殿の近くの大広間で、年四回、十二神を順に崇めて、祭りや市場を開くのも、親しみをこめてというより、さっき指摘された通り、牽制の意味が強い。
「俺は、そんなに神が怖いものとは思えないけどな、特にヘルメス神なら、笑ってるんじゃないかな?」
「そんなこと……」
これ以上何を言っても聞き入れてもらえないようなので、クリスは再び片付けにかかった。
先ほどまであった人影は全くない。
二人きり。
満月の下で、青年もその状況に気づいたようだ。
「ずいぶん、遅くまで引きとめてしまったな。悪かった……じゃぁ」
青年が軽く手を振り、町の方へ歩きだした。
完全に一人になると、クリスは思い商売道具を抱えた。これから、森の道を歩かなくてはならない。
いつもなら帰りがけに買い物をするのに、今日はもう無理だ。
残りものって何があったっけ、と家の中を思い浮かべると、急に空腹を覚えだした。
こんなことなら、さっさと売りつけてしまえばよかったのかも知れない。
でも、あの時、クリスの心が反射的に拒否した。
結構直感で動くので、今回もそうしたまでだった。
「……かえろ」
これでよかったのだ。きっと。