36章
◇
クリスは透き通るような空が見える、屋外へ案内された。
木漏れ日が差す森は、自分が住んでいる森よりも清々しい。三女神たちに鏡のように輝いている地面に案内された。
いや、それは地面ではなく、水が反射しているのだと、クリスは遅れて気づいた。
青い湖面からは、もやのようなものが立ち昇っている。
「まあ、綺麗……」
白いもやの間から木々を映し出すその静かな風景は、クリスの腕をうずかせる。
池ほどの広さの水面に、しばし見とれた。
「綺麗でしょう。ここは、私たちだけが使っているの。他の人を連れてくるのは、本当に久しぶりよ」
「そうなんですか。久しぶりって、前の方はいつごろ訪れたんでしょうか?」
一番近くにいた女神に、クリスは聞いた。
「えっと。どのくらいだったかしら。二百年くらい前だったかしら……」
答えた女神は、他に同意を求めた。
「ええ、多分それくらいね」
三女神とも、朗らかに笑っている。神殿ではみられなかった笑顔だ。
あの威厳の備わったような母とは、風貌まで違ってみえる。
クリスも、その笑顔で和み、同時に神の生きている刻の長さについて、思い知らされていた。
「さあ、ここに座って」
一神がクリスの手をとり、池のほとりの平たい岩に座らせた。
「どうしたんですか?」
「あら。貴方を洗うのよ」
「えっ?」
「男の方にはお酒を。女の方には、お清めをというのが、ここでの歓迎の仕方よ」
そういうと女神たちは微笑み合い、緑の瞳の神がクリスの肩に手をかけた。
「あっ!」
クリスは驚きと羞恥で、咄嗟に自分の肩を抱いていた。
クリスの衣装は、瞬時に消されてしまっていたのだ。
「あらぁ。そんなに怖がらないで。清めるだけって言ったでしょう。それに、ここで覗く男の方なんていないんだから、安心して」
「いえ……」
そういうことではないと反論したいのだが、それぞれの全く悪気のない瞳を見ていたら、気がうせた。
それでもやっぱり恥ずかしくて、女神たちに背を向けたまま、動けないでいる。
「駄目よ。私たちの役目なんだから。洗わせてくれないと、服を返さないわよ」
「えっ、そんな!」
クリスの悲痛な声をきいて、女神たちはくすくすと笑い声をたてた。
「まあ、お姉さま。意地悪」
「そんなこと言わないでよ。でないと、この子洗わせてくれないじゃない」
「それとも、私たちも一緒の姿になればよろしいかしら?」
「あ。いいえ。とんでもないです」
クリスがうっかりそう答えてしまったので、娘たちは遠慮なく背にお湯を流し始めた。
そして、目前のもやが、湯気なのだと気づいた。
何度かお湯が流され、背を泡立てる女神が声をかけた。
「ねえ、せっかくだから、下の様子を教えてくれないかしら? ねえ」
足を洗う姉妹にも、同意を求めた。
「そうそう。私も知りたいわ」
「下って、人間のことですか?」
「そうよ。私たちも、こちらのこと教えるわ。特に、ヘルメス様のこと知りたいでしょう?」
「おねえさま、それは……」
茶色の瞳の女神が、足を洗う手を止めた。
「あら。私だって詳しくないわよ。だから、これから同伴するための予備知識くらいなものよ」
「あぁ、それなら……」
「それで、貴方クリスだったわね。歳は?」
「十七です」
「まあ、若いのね。赤ん坊みたい」
他の二神も、声をたてて笑った。
「いえ。十七でももう子供がいる人もいますから……」
「そうなの。……そうよね。長くても七十とか八十くらいまでしか生きられないものね」
「えぇ……」
「私たちなんて、年を数えたりしないから、わからないわ。人間の刻にあわせて数えて、わからないことはないんだけどね」
「そうなんですね……」
「そう。それに、ここには男なんて迷ってこないから、間違っても嫁ぐ、なんてことにならないしね」
「そうよね。もし迷ってきても、お母様がすぐに追い返しちゃうでしょうね。つまらないわ」
女神たちはため息を漏らした。
洗う手が、背から頭へ移動した。クリスは目を閉じた。
「それで、どうやって暮らしていたの?」
「絵を描いて、売っています。あとは自分の家の畑で野菜を育てて食べています」
「そうなの……誰と暮らしているの?」
「一人です。母はずっと前に亡くなりましたし、父は生まれた時からもう母のところにはいなかったようです」
「あら。それなら、お母様は、こちらのどこかにいるってことね」
「そうなんですか?」
クリスは思わず顔を拭って、振り返った。
「あ。えぇ。ここではなく、黄泉だけど。全部廻るんでしょう?」
「あの、全部ってのがよくわからないんですが……」
「あ、あのね。神の場所でもいろいろあるのよ。オリンポスだけでなく、冥界とか、海の世界とか。そこも行くことになるんでしょうね。……いいわねぇ。私たち、ここから離れられないの。護るものがあるから」
「何をですか?」
「あら。私たちのこと、そういえば紹介してなかったわね」
「はい……」
三女神たちは、それぞれの名前と、守護するものとを教えてくれた。




