35章
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明るい扉が閉められると、テミスはヘルメスを壇上へ招いた。
中央に小さな机が置いてあり、ぶどう酒が注がれていた。テミスが銀の杯を勧めながら、対座に案内した。
「まずは……。先ほどの非礼を詫びなくてはなりません」
「別にかまわないさ」
ヘルメスは大したことじゃない、とかぶりを振った。
「いいえ。私はヘルメス様にあのような口をきく身分ではありません。刻の事を告げていないのか、などと。私の考えが浅はかでした」
テミスは立って丁寧に頭を下げた。
「身分なんて。そんなものないさ。だいたい、俺があいつに半端な説明しかしてなかったのが悪いのさ」
「いいえ。そのような。ヘルメス様は、あの娘がはじめから時を止める選択をしないと、わかってらっしゃったのですね」
「ああいう性格は読みやすいからな」
テミスは、ヘルメスの読みの深さ、早さに舌をまくばかりだった。
娘たちに、アポロンが来ると告げているのもそういう能力の一つだろう。あまりにも的中するので、アポロンから予言の能力でも授かったのではないかと思うくらいだ。
「ときにヘルメス様。初めてこの《言葉》をお聞きになられた時から、顔色がすぐれないようにお見受けいたしますが……」
「あぁ。人間のお守りを、そこそこ長くってのはな。面倒だ」
「何十年ごとき、私たちが過ごす時からしてみれば、瞬きしてるのと変わらないくらいではありませんか」
テミスは暖かいパンをすすめた。
「まあ、刻くらいなんてことないな。ずっとついて廻るわけじゃないし。だけど何か引っかかるんだ」
具体的に、何とは指摘できない。
「何かとは。気が進まぬだけですか?」
「いや。そうじゃないんだが」
ゆっくりパンをちぎりながら、ヘルメスはテミスの瞳をみた。
テミスは、一瞬視線をあわせたが、すぐに酒を追加するため、そちらに手をのばした。
「しかし、お受けされたからには……」
「あぁ。ガイア様の言葉となれば、断るなんてできないさ」
神々の存在そのものを支配する、大地が紡ぐ《言葉》は、全てが必然。従うのが当然。もし断れば、神界、人間界の均衡が崩れるだろう。
仮に代理をたてても、最初に指名された者は反逆者として消されるだろう。たとえ、どんな神であっても。
「残念ですが、私にはこれ以上お伝えすることもできませんし、ヘルメス様の機嫌を直して差し上げるようなおもてなしもできません。申し訳ありません。ご案内をお願いいたしますとしかいいようがありません」
「あぁ……」
ヘルメスがテミスのとび色の瞳を覗き見た。
視線を感じたテミスは目を伏せて立ち上がり、一礼して、ごゆっくりと声を残して立ち去った。
ヘルメスは、遠ざかるその背を、杯を傾けながら凝視した。
何か隠しているな。
ヘルメスは全ての嘘を見抜く。例え嘘をついていないとしても、隠し事の有無くらいはわかるのだ。
それを、ヘルメスはあえて追及しなかった。
多分、時期ではないのだ。
だが、隠し事はいつか明るみにでる。特にヘルメスが相手の場合は、ぼろを出すのが早いのだ。




