32章
8
神殿から出ると、ヘルメスはクリスの背に手をまわして、右肩に手を置いた。
その手は暖かいが、見下ろしてくる紺碧の瞳はなぜか冷たい感じがする。
「歩いていきたいところだが、時間を食ってしまった。移動するから、目を閉じろ」
思ったことを口にする間もなく、クリスは強制的に移動させられた。
空気の流れが収まったので、すぐに目を開けると、クリスは思わずヘルメスの腰の辺りの布をつかんでしまった。
「や……」
周りに風景というものがない。
いや。暗いだけなのか。足元さえも、細く続く茶色の道以外、闇だった。
上下のない、浮かんでいるような空間。
虚無が押し寄せているかのような圧迫感は、クリスの手を震えさせる。
ヘルメスが、しがみついているクリスの手をそっと覆った。
クリスが思わず見上げると、ヘルメスが小声で告げた。
「大丈夫だ。落ちることはない。ここの主は、俺たちみたいにそんなに光を必要としていないだけだ」
「じゃぁ、死んだ人がいくっていう、冥界?」
ホルクスじいさんの語りの中に、冥界は暗いというのがあったのだ。それを思い出したのだ。
「違うさ。刻の神殿の中さ」
ヘルメスは、クリスの怯えを感じとったのか、表情を和らげ、指先を軽く鳴らすと、自らを光らせた。
金色より控えめの、ほどよい明るさでヘルメスが輝いている。
「これで少しはいいだろう。あまりつかまれていても、歩きづらいからな。それとも、このまま主のところへ行くか?」
「え……いいわっ」
頬を赤らめて、すぐ手を離した。幸い、クリスは光ってないので、動揺した顔は見られないで済んだようだ。
茶色い道筋だけが灯されてるような、細長いところを、クリスはヘルメスの光を逃さないように必死でついていった。
そして、ようやく一つの扉に着いた。
部屋は薄暗かったが、闇ではない。広さはアテナ神殿くらいありそうなので、その点はほっとした。
辺りを見回す間もなく、クリスに声がかけられた。
「人間のクリスですね。待っていましたよ」
「え?」
前方には、壇上らしきものは目につくが、姿は見えない。
「どこで……」
「見えないか。もう少し前に行こう」
ヘルメスが歩きだした。
壇上の近くまで来て、クリスはようやく姿を確認できた。
玉座の横に立つ、質素な白い衣の女。
その横で同じような衣をまとっている、似た髪型の三人の女性。
クリスはそっと膝まづいた。
「はじめまして。私がここの主の、テミスです」
威厳に満ちた声で、刻の神が名乗った。
続いて、横の三女を紹介してゆく。
「この子たちは、私の娘です。名は後から伝えてもらいます。早速ですが、あなたにはやってもらわないといけないことがあります。ヘルメス様からは、どこまで聞かされてますか?」
「どこまでって……。おおまかに、絵を描くとしか……」
クリスは緊張した声で返した。
「そうですね。そういうことなんですが。では、ガイア様からの言葉を正確に伝えましょう。貴方にも、わかるように」
テミスは立ったまま、暗い天に向けて両手とあごを上げた。なにか受け取るような姿勢だ。わずかな時をおいて、地鳴りのような、それでいて優しい声が響いた。
悪しき血により、我と交わりを絶たれる時がくる
(間違った人間によって、神の存在が忘れ去られる時が来てしまう)
我らを手に捕らえ、残せる者よ
(私たちを描き残すことのできる人間よ)
我らの証を地へ描き映せ
(神の存在を人間界へ描き残せ)
一粒の血よ、翼とともに翔るならば
(一人の人間が、ヘルメスとともに旅するならば)
我は血を守るであろう
(神は人間を護るだろう)
声はそこで途切れるように止んだ。
「解りましたか、クリス」
テミスは両手を下げた。
「はい……何となくは」
そういうことだったのか。だが、疑問も生まれた。質問などしてもいいのかどうかわからないが、聞いておかないと後で悶々とするのは嫌だ。ヘルメスにも聞いたが、もう一度ちゃんときいておきたい。
「テミス様。あの、それで、質問があるのですが」
「何ぞと、申してみよ」




