31章
壇上では、アポロンが弦を止めた。
「会おうと思えば、会えるから。私の声が聞きたくなったら想ってくれ。すぐにこれを持って貴方のところへ行くから」
琴をみせながら、やはり別れのような言葉を口にする。
「あ、あの……」
戸惑うクリスの声をさえぎったのは、ヘルメスだった。
「アポロン、誓約を忘れるなよ」
振り返って飛んできた声は、空気が震える
ように怒りがこもっている。それは、驚くクリスを通り越して、アポロンの表情を歪めさせた。
「わかってるさ」
「お前が口にすると、すぐ実力行使にでるからな」
「言ってくれるな」
お互いの間には階段が阻んでいて、直接顔は合わせていない。なのに、障害がないかのように激しくにらみ合う二神。
緊迫する空気。
喧嘩の理由はわからないが、ともかくこの間合いから外れようと、クリスは階段の端へ移動する。
脇にいたアテナが、あきれたように梟をなでながら、アポロンに向けて冷静に審判を下した。
「アポロン。この状況に軽口はふさわしくないわ。さっきの私たちの誓約、忘れてないわよね」
「わかったよ。悪かった」
アポロンは、弦を強く弾いた。
やけに低い、大きな一音を残して、アポロンは消えた。
アテナは、端でおびえるクリスに優しく声をかけてきた。
「今度会ったら、この子だけを描いてくれるかしら?」
ふくよかで暖かそうな梟が、きゅうと鳴いて、セピアの羽をばたつかせた。
「はい……」
「ありがとう。じゃぁ、行ってらっしゃい」
アテナは言葉で送り出した。
クリスはちょこっと頭を下げ、進んでいくヘルメスを追って、階段を駆け下りた。
◇
「貴方本当に情けないわね。さっき誓ったばかりじゃないの。なのに、あの子に手を出そ
うとするなんて」
アテナはぶどう酒の入った透明容器を相手に渡しながら、詰った。
「そんなつもりはなかったさ。だけどな、綺麗だったんだ……あの髪が。描いてる途中で、ちょっと触らせてもらおうと思ったが、ヘルメスが邪魔をした」
ヘルメスは、演奏しているアポロンの背で、己の姿を隠しながら、アポロンが動けないようにしていたのだ。
アポロンは杯を口にした。
甘いはずのお酒は、アポロンの口の中で苦々しく変化した。
「当たり前じゃない。あなたもその節操のなさを慎んでもらいたいものだわ。あちこちに手をだすのはお父様の血筋かもしれないけど、つまみ食いはいずれ痛い目に遭うわよ」
「つまみ食い、か。そんなつもりはないんだぞ。まだ会ったばかりだったし」
「そうね。旅ははじまったばかりだものね。だからこそ、ヘルメスは怒ったのよ。わかるでしょう?」
「あぁ。あいつだって俺のことはよくわかってるはずだ。だから、あれくらいの冗談はわかって欲しかったな」
「何言ってるのよ。貴方の目、誘ってたじゃない。幸い、あの子は気づいてなかったけど」
アテナの揶揄に、アポロンは軽く笑みを浮かべ、杯を傾けると、飲み干してから天井を見上げた。
ここは、アテナ神殿の壇上の裏。さきほどの玉座の後ろの壁の隠し部屋のようなところだ。
青い霧に包まれて、広さも、上下さえもわからない。宙に浮いたような空間は、上級の神しか入れない、特別な神域だ。
クリスがアテナを描いている時、三神がそれぞれ誓約を交わした場所でもある。
先ほど交わした誓約とは、こうだ。
ヘルメスは《クリスに対して、騙すことはならない》
アポロンは《クリスを誘惑しないこと》
アテナは《必要に応じて、クリスに知恵のみ貸すこと》
提示した後、それぞれは己の髪を一本、ぶどう酒に溶かしこんで、飲み干した。
破れば、それぞれが報復にでる。
たとえ兄弟であっても、容赦はしない。
こうして、同じ父をもち、違う母をもつ三神は、堅い誓約を交わしたのだった。
「私はこれ以上相手をしないわ。不満なら、精霊と遊んでなさい」
「あぁ……」
アポロンは気のない返事をし、そこから消えた。
アテナは厳しい目で、青い霧の向こうを見つめた。




