23章
6
ヘルメスがクリスを神界へ迎えるために連れていったのは、クリスがいつも行く市場の奥の山の上の、現在は語り部がいない、デロスの神殿だった。
ヘルメスは、クリスにとってなつかしいものが神殿にあるからと言った。
クリスはそんな言葉なんか信じなかったが、神殿には昔よく登ったからと、とりあえず行くことを了承した。
神殿は長年風雨にさらされて、大理石の柱も床も、白茶色に日焼けして朽ち果てている。
しかし、それがまた風格をあげている。
この神殿はクリスが住むデロス島に唯一あるもので、司祭は年四回ここへ上がり、神祭りの始まりに
挨拶をする。それから十日間、神殿下の市場は普段より数倍の出店数で盛り上がりを見せる。その神祭りも、明日で終わりだ。
すると、この神殿は三ヵ月用なしになり、子供たちの遊び場になる。毎年その繰り返しだった。
クリスたちは奥へ進んだ。歩いているう床を見て疑問を持った。
ここは吹きさらしの山頂だ。毎日、砂や埃が溜まるはず。小さいころ、ここの床に積も
ったさらさらの砂で遊んだ記憶がある。
それなのに、今はきれいに掃かれ、年季の入った床があらわとなっている。
祭りの時期だから、誰かが掃除しているのだろうか。それとも、遊びにきている子供たちがやっているのか。
まるで誰かが生活しているような雰囲気さえ感じる。
本当に誰かいるのではないかと思って辺りを見るが、ヘルメス以外見当たらない。
ぼろぼろの柱をいくつも過ぎた時、ヘルメスが足をとめた。
ヘルメスの視線を、クリスも追う。奥に行くにしたがって、薄暗くなる柱の影に、人の足先がみえた。
ぎょっとするクリスと同時にヘルメスが声をかけた。
「ご苦労だな」
一体誰だろうか。
クリスからは柱が邪魔で見えない。
「おお、もったいない……」
老いた男の声がした。
声の主は、柱からヘルメスの方へ這って出てきた。
白いあごひげを長く生やし、頭皮が焼けているおじいさんだった。擦り切れた茶色の麻衣から、所々ひ弱そうな肌がのぞいている。
老人は、額も手を足も床に擦り付け、恐れているかのように震えている。
「ホルクスだったかな。そうしてないで、顔を上げてくれ」
「い、いいえ。そのような」
ヘルメスに名を呼ばれた老人は、頑なに頭を振る。
「紹介したい奴がいるんだ」
「そうですか」
その言葉に、老人はやっと上半身を起こした。
そして、ようやくクリスに気づいたようだ。
「こ、こちらも神で……?」
「いや。人間さ。よく見ろよ、知ってるだろう?」
ヘルメスがふっと、笑みを漏らした。
「えっ?」
クリスも老人も、驚いて互いを見た。
「あっ!」
「おお……」
二人は同時に歓喜の声をあげた。
「お前さん、クリスという名ではなかったかの?」
「ええ、そうよ。語り部のおじいさんでしょう?」
「あぁ。昔はそうじゃったよ。いやしかし、綺麗になったもんじゃのう……」
そう、しみじみと呟くので、クリスは照れてしまった。
「そんな。全然綺麗じゃないわ。それにしても、本当に久しぶりです。ここにお住まいですか?」
「おお、そうじゃよ。神聖な場所だがな、ここに居させてもらっておる。そういえば、今もあの森にいるのかの?」
足が弱まっているようでホルクスが座ったままなので、クリスはしゃがんで床に膝をついた。
「ええ。絵を描いてます」
「おお、そうか」
二人とも、過去に思いを馳せた。




