22章
「やっと行ったか……」
ヘルメスはその男の背をみながら、さも邪魔だったかのようにつぶやいた。
クリスは、眉を顰めてヘルメスを見上げた。
「ん? 俺にあえてうれしいのか?」
「そんな風に見えます?」
「見える」
クリスはますます不機嫌な顔になって、不毛な会話の返事はやめた。
「泣き顔をみた時はそうかと思ったんだけどな。でも、あれだけで泣けるなんてな」
「悪かったわね」
あ。思わず返事をかえしてしまった。
いちいち、癇に障るようなことを言ってくれるものだ。
「俺も確か、あいつと同じこと言ったはずだけどなぁ。ひょっとして、ああいうのが好みなのか?」
「は?」
その突飛もない発想に、クリスは頭を抱えた。
この男。黙っていたら勝手に当て推量しまくって、果てはとんでもないところへ話をもっていきそうだ。
では、どう説明すればいいのだ。言葉をさがして、再び黙ってしまうクリスに、ヘルメスは更に追い討ちをかけてきた。
「図星だったか? そりゃ大変だ」
ヘルメスは陽気に笑い声をたてる。
「違うわよ! もう、ばかっ」
「馬鹿とは言ってくれるな。これでの一応神様と呼ばれてるんだぞ?」
「あぁ、もう、わかったから」
「笑えないか? つまらないな、お前」
「つまらないのはどっちよ。話を変な方へばっかり持っていくくせして」
「会話にだって潤いがなきゃつまらないだろ」
果てしなく流転していく会話は、ここで止めなくては。
「もういいわ。で、何の用なの?」
「明日来るって言っただろ。だから来てるのさ」
「それで?」
「それで。連れてゆくのさ」
「でも私、行くとは返事してないわよ」
「そうだったな。だが、行かないともったいないぞ。お前が会いたがってる奴が、待っているかも知れん」
「あーっ、やっぱり!」
あの母は、ヘルメスがみせたものだと、改めて確信する。
ヘルメスはそんなクリスを見つめた。
「会いたくないか?」
「それは……会いたいけど、強制されていくのは嫌」
「そうだろうなぁ」
断っているのに、ヘルメスはなぜか余裕だ。
何かまた画策してるのだろうか。それに気になることもある。
「ねえ、さっきから思ってるんだけど、私にはいろいろ話してはいけなかったんじゃないの?」
「何がさ」
ヘルメスは不思議そうな目でクリスを見る。
「行けばお母さんに会えるとか、その気にさせるようなこといろいろ……」
「行く気になってたのか」
ヘルメスの突っ込みには間がない。
「あ……たとえよ、たとえ」
「ふぅん、そうか。まあ、信頼関係を築く上でも、騙すようなことはよそうと思ってるよ」
「思ってるだけね」
「言うな、お前も」
「なんか、鍛えられてきたのかも」
ふ。とヘルメスが笑みを漏らした。
なんとなく、勝った気がした。
「まあ、隠してることは星の数ほどあるけどな、それは大したことじゃないから、行ってから聞いても問題ない。一つだけ言っておくと、これから先の生活は今までとは全く違ってくるはずだし、行く場所によっては血を見ることもあるだろう」
「えっ? 危ないの?」
「あぁ。のん気な場面ばかり描いてもらうわけじゃないんだ。だけど、お前に怪我はさせないようにはする」
「そうなの……」
どんな世界なのか、更に詳しくききたいが、聞いたら最後、すぐにでも連れていかれそうだ。
ちらり、と見上げたクリスの瞳をヘルメスが微笑んで見下ろした。
「信じてくれるか?」
「えっ?」
クリスは息を呑んだ。視線を動かせないくらい、驚いた。
自分に向かって、信じてくれと。
「どうしてそんな……」
やっとそれだけ声にできた。
「お前が描きたい絵を、描くだけでいい」
優しい声。
それと同時に、ヘルメスは金の豊かな髪から、銀の巻き毛で、すっきりした衣に戻っていた。
その本来の姿に、クリスはなぜかほっとした。
暗示をかけられたかのように、素直に首を縦にふった。
そしてまた、自然と涙が頬を伝わった。
なぜ涙がでてくるのかわからずに、自分で戸惑ってしまう。
「またかよ」
ヘルメスが、クリスの頬を指先で優しくなでた。
「嫌かの? 悲しいのか? うれしいのか?」
ぶっきらぼうに、矢継ぎ早に質問してくる。
「わからないの……。でも、悲しいのかも」
「お前なぁ。自分の感情くらい、わかれよな」
「うん。でも、もう帰ることができないのかな、って思ったらなんか急に……」
「俺、そんなこと言ってないぞ」
「あれ?」
「あぁ。その辺り、説明不足だったかな。お前の生が終わる年数くらいは描くことになるかも知れないが、時間をとめるはずだ」
「前に言ってたような……どういうこと?」
「そのままの年で、ずっと描くのさ。だが、永遠ではなくて、人間の生の年月の期限つき。ここに帰ってきたら、もう一度その年から暮らせる」
「それって、人間二回分生きる感じ?」
「そうなるな」
「それは嫌だわ。普通に年をとっていってかまわないわ」
「そうか。いい特典だと思うけどな」
「そんなこと、ないわ」
中には、そうやって長生きしたいっていう人間もいるだろうけど、なんかそれは違うという気がする。
何が違うのか、説明はできないが……。
「よく考えてみろよ。戻ったころには、もうお前を知ってる奴なんていないんだぞ」
「そうね。そうだけど……。じゃ、早く帰ってくることはできるの?」
「あいつらがいる時に、帰ってきたいのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「お前が嫌だと言えば、すぐ返してやれると思うぞ。俺は道先案内をするから、その辺りにいると思うし」
ずっとそこら辺にいる。
「じゃぁ、行かない」
「おい……。お前、俺が案内しないと、のたれ死ぬぞ」
「時をとめるって言ったくせに」
「時をとめても、何も食べなければ、死ぬぞ。俺だってお守りは嫌だけどな……。まあ、あっちで俺の替わりの奴でもつかまえるか」
「お守りですって?」
クリスは思わず、ヘルメスの腕をつかもうとして、かわされた。
「俺を殴ろうなんて、一生かかっても無理だ」
「ふんっ!」
クリスはそっぽを向いた。
ヘルメスは、そんなクリスを置いて、岩場を下りだした。
「あ、待って……」
ヘルメスに声をかけて、追いかけようとしたが、道具が置き去りになると気づいて、振り返った。
だが、あるはずの道具は一切ない。
「絵は?」
辺りを見回しながら、ヘルメスの背を追った。
「道具、消したの?」
クリスは息を弾ませながら、ヘルメスの右にまわった。
「あぁ。先にやった」
「え?」
「今にわかる。気にするな」
そういいながら、ヘルメスは横道から市場へと入っていく。
「どこへ行くの?」
「神殿だ」
ヘルメスは歩調をゆるめた。
神殿は市場を抜けて、その先に見える赤茶色の岩肌の山の頂に建っている。 人がいっぱいの市場を抜け進むうちに、クリスは周りが自分を避けているような気がして、足を止めかけた。
気のせいではない。クリスとすれ違う人は、ことごとく頭に蔑みの目向けている。
クリスの遅れに気づいたのか、ヘルメスは数歩引き返してきて、荒々しくクリスの右手首をつかんだ。
強引に先導する。赤面する間もない。
おかげで早く市場を抜けられたが、その代償も大きい。
クリスは物悲しさを覚えずにはいられなかった。




