17章
ヘルメスは陽気な声でクリスの髪をいじりはじめた。だが、不思議なことに、クリスにはいじられている感覚がない。ただ、座っているだけのようだ。
ヘルメスなりの配慮だろうか。
しばらくすると圧迫感が抜け、身体の自由がきくようになった。
この時を逃すまいと、クリスが立ち上がろうとした鼻先に、いきなり手鏡が差し出された。
顔の大きさほどのそれは、丸い縁の青い飾りが豪華で、普通の暮らしをしている人がもてる代物ではない。
そこに、クリスの顔がうつった。
瞬間、反射的ともいえる速さで、それをなぎ払ってしまった。
「おっと……」
落ちかけた鏡を、ヘルメスが受け止めた。
「おい、立派なものだからな。そんな扱いをされると困るな」
「あ……ごめんなさい……」
「化け物がうつってるんじゃないんだからな。せっかく整えたんだから、自分の姿くらい確かめたらどうだ?」
ヘルメスは再び鏡をさしだした。
クリスは、そうっとのぞきこんで、目を見張った。
クリスの髪には、綺麗に櫛が通され、毛先もそろえられ、下方が少し波がかっていた。
前髪も、気づかないうちに長さがそろっていて、印象が変わっている。
「いじったのは、もちろん髪だけさ。でも、それだけでもここまで変わる。元々筋が通ったいい髪だから、波のくせはそのうちとれるだろうけどな」
ヘルメスは満足そうだ。
「でも、こうしてもらっても、やっぱり……隠したくなるわ……」
「まだ言うのか。それで似合ってるのに。へラにも負けないくらいにしたのに。……っと、聞かれてたらまずいな」
「ヘラ……?」
「ゼウスの伴侶さ。あいつは黒髪なんだ。お前よりも、長い髪をしているぞ」
「まぁ……」
黒髪の神がいるなんて、思わなかった。
「いずれ会うことになるさ」
「そう……」
うなづいて、はたと気づいた。
「ちょっと、いつから私が行くことになってるのよ」
「最初からさ」
「よくいうわ……」
本当に、うっかりしていると、いつの間にか了承したことになっていて、寝ている間にでも到着してしまっているに違いない。
「行かないんだから……」
自分に言い聞かせるようにして、つぶやく。
「ひねくれた奴だな。いじめられてるよりよっぽどいいと思うけどな……。まあでも、海は行くだろ?」
ヘルメスは、クリスの首筋から髪を一房すくいあげた。
「でも、人が……」
「そんなこと、すぐに忘れさせてやるよ。とっとと目をつぶれ」
クリスの肩に、ヘルメスの手が置かれた。
「あ、ちょっと……」
心の準備を整える暇もない。
「大丈夫さ。海は久しぶりだろう?」
「そうだけど……」
本当に海へ連れていくだけだろうか。目を閉じて、そして開けたときには、いきなり神界にいたりしないだろうか。
「海へ行くだけだ」
信用していない目は、すぐにヘルメスに見破られたようだ。
ヘルメスは視線を外さずに、クリスの髪をまだもて遊んでいる。
「ええ……」
嘘ではない。
クリスはヘルメスの紺碧の瞳を信じることにした。
◇
「もういいぞ」
背にヘルメスの手の暖かさを感じながら、クリスはゆっくり目を開けた。
「あ……」
視界に広がる青。
何年ぶりかの、近くて遠い存在だった海。
まぎれもなく、幼い日に母と遊んだ海だ。自然とクリスの顔がほころぶ。
市場からここは近いものの、いつも遊ぶ人が多すぎて、近寄れなかった。
昼間の陽射しは強く、時折吹いてくる潮風が熱い。光と風を避けるように、クリスは手をかざして、目元に影をつくった。
「いい匂い……」
水平線のかなたに見える小さな島も、昔の記憶のままだ。
潮風が右から左に流れ、クリスの頬に髪がかかった。そこで、突如我にかえった。
何も覆ってない髪に手をやって、せわしなく辺りを見回した。
いる。人がいる。
海水浴をする子供や、それを見守る親。沢山いる。
何が、大丈夫なの。
そんなクリスに、ヘルメスが耳元で囁いた。
「帰りたいか? それでもいいが、お前は一生、あいつらにおびえる生活をすることになるぞ」
「……」
「どうする?」
「帰らない……。けど、場所をかえられないしら……」
言いながら、クリスは人気のない海岸の端の方へ歩き出した。
ヘルメスは何も言わずに、クリスを皆の視線から隠すようにして、後についてきた。
少し歩いて、高台になっているところの、茶色の崖の平たい場所で腰を落ち着かせた。
時折、高い波が眼下にうちつけ、飛沫がかかってくる。
クリスは、岩場の濡れているところに指を
つけて、それをなめた。
久しぶりの味だ。こんなわずかなのでも、何だかうれしい。
「こんなにいい眺めなら、道具を持ってこればよかったわ」
「出してやろうか」
後ろで同じように海をみていたヘルメスが、そう言ったかと思うと、次の瞬間にはクリスの横に、道具一式を出していた。
あちこちに傷みがあるそれは、まぎれもなく自分のだ。神だからこんなことは簡単なのだろう。
「あ……でも」
「何だ。描かないのか?」
「い、いえ。描きたいけど、はじめると時間がかかるし……」
「かまうな」
ヘルメスはさっさとしろ、と言わんばかりに手で催促する。
「ええ……」
そそのかされるままに、クリスはごつごつ
した岩に苦労しながら画架を立て、位置を決めた。
そして、いつものように木炭を構えて描きだそうとすると、ヘルメスが後ろから声をかけてきた。
「なあ、炭で描くんじゃなくて、染料で色をつける描き方はできないのか?」
「あー。ずっと前に、屋台の地主さんのことろで描いてくれと言われた時に、その家にあった油染料で描かせてもらっただけなの。その時がはじめてだったから、ひどい出来だったし、油染料ってとても高いし。そこらへんの花や草から色をとっても、乾くと変色するから駄目なの」
それがどうしたのかと、クリスは目で問うた。
「色と、筆と、それ用の画紙を用意してやるから、描いてみるか?」
「いえ……。言ったとおり、色は慣れてないから……」
「せっかくの海なのに。慣れるためには描かないと、何もはじまらないぞ」
「そうだけど……。もしかして、これもこの先の準備のためなの?」
「そんなことはない。でもまあ、試してみろ」
ヘルメスが言って画架を指すと、そこにはいつの間にか一式が置かれており、木炭用の用紙は、いつの間にか色つけ用の布画紙にかわっていた。
クリスは近づいて画紙に触れてみた。
地主のところのより綺麗で立派だ。
その下をみると、木の箱に、いろいろ入っている。十五個くらい小さな容器はそれぞれ
色が入っているのだろう。筆も何本もあり、細いのなどは、特に描きやすそうだ。それか
ら、色を混ぜるナイフと、板と、油つぼも。
ここまでそろっていると、何だか立派な画家になった気分だ。
「すごいわ……。でも、木炭で描くより、ずっと時間がかかるわ。それに、上手く描けな
いと思うし」
「最初から描けないと考えるのが、負の考え方だ。出来はどうでもいい。ただの練習だと思えばいい。時間も気にするな」
「そう。……じゃぁ、描いてみるわ。でも、本当に下手だと思うし、恥ずかしいから、あまり見ないで」
「いいさ。俺は俺で用があるからな」
ヘルメスは目の前の海と似た色の瞳を優しく細めると、姿を消した。
クリスは髪を束ねると、さっそく木炭で下描きにかかった。
◇




