16章
◇
ヘルメスは話を続けていた。
クリスにもわかりやすいように話してくれているが、内容が内容だけに、楽しく聞くことはできない。
まず、神の世界のしくみを聞き、順を追って、クリスと関わるところの話まできた。
いつの間に用意したのか、ヘルメスは話の
最中に梨の果汁を注いで、クリスにすすめた。
クリスは一口だけ含んだ。
「神界にも芸術の神はいる。だが、神の者では駄目なんだ。人間の手で、俺たちと人間の真実を形で現して欲しい。アテナが、自身を描いてもらいたいというのが、多分始まりになるだろう。その先、沢山描いてもらうことになる」
「沢山……どのくらい?」
「さぁな。お前が、生きていく日にち分じゃないか?」
「うそ……。そんなに無理よ。ずっと描くなんて……」
「今までも、描いてきたんじゃないのか?」
「それはそうだけど、無理やりじゃないし……」
「道楽とも思えないが?」
「もちろんよ。生活かかってるんだから」
「では、命がかかっていると言われたら?」
「そんな! それは冗談よね?」
「俺は冗談はとても好きだが、冗談を言えない時もある」
「ちょっと……。もし断ったら、私はどうなるの?」
「どうもならない。どうにかなるのは、俺たちだ」
「どうなるの?」
「それは言えない」
「言えないって……。それじゃぁ、受けられ
ないじゃない……。それに、私なんかでなくても、腕のよい絵描きさんは、沢山いるはずよ」
「そうだな。だが、もっと上の存在が、お前を指定している」
「え?」
「残念だが、そこから先は話できない。しても、理解に苦しむだろう」
「だからって、よくわからないまま連れていかれるのは……」
「まあ、俺だってそれは嫌だな。でも、説明してから行けばわかるってものじゃないんだ。お前だって、ふいに蹴つまづくことがあるだろう?」
「え? ええ……」
「それと同じだ。あちらへ行っても、いつ何が起こるかわからないということだ」
「だったら、余計行けないじゃない……」
「まあ、そうだろうな……」
何なんだ。
クリスは不安を通りこして、奇妙な感じを受けた。
ヘルメスは、本当は連れていきたくないのではないか、と。
行くと、何かよくないことが起こるのでないかと聞きたいが、聞けない。
「説明としては、そんなとこだ」
「そんなとこって……」
「悪いが、遅かれ早かれ、行くことにはなるんだ」
「そうなの……」
神様に、そう決められてしまっているのでは、逆らえないんだろうなぁ。
結局は、あきらめろということか。
「まあ、そういうことだ.。とりあえず、すぐには連れていかないから安心しろ。少し気晴らしに、海にでも行くか?」
「は? 海?」
なにを突然。クリスは、真意を読み取ろうと、ヘルメスの紺碧の瞳をのぞきこんだ。
「おーお。用心深くなって。何もたくらんでないし、下心もないぞ」
「なに、それ……」
余計あやしい。海には長年行ってないから、いってみたいと思う。が、外の明るさに気づき、髪に手をやった。
駄目だ。今は気候がとてもよくて、こんな時間に行ったら、沢山の人が泳いだり遊んだりしている。そんな人だかりのところへ、わざわざ目立つ頭巾を被ってまで行きたくない。
ならば。
「あの……。夜じゃ、駄目かしら……」
「夜? 真っ暗な海みて、どうするんだ」
「ん……。波の音と風にあたるだけでもいいんだけど……。昼なら行かないわ」
クリスは席を立って、背を向いた。
「逃げるなよ」
さっきより低い、ヘルメスの声。
反射的に振り返ると、ヘルメスがすぐ後ろにいた。
「あ……」
「お前の髪の色は、恥じる色じゃない」
「そう……」
昨日も言われた。だが、神がこういってくれても、町の人々に言ってくれなければ、何も変わらない。
「……ったく。お前は。なら、髪の色を変えればいいのか? それとも、町の奴らに、黒髪の言い伝えを訂正すればいいのか?」
「あ……あの……」
「お前の内面を変えないでどうする」
ヘルメスの言葉に、息がつまりそうになる。
そう。そんなうわさがなければ、自分は今頃堂々と生きていたのだろうか。
しばらく逡巡して、かぶりを振った。
違う。ヘルメスの言うとおりだ。
外見や、外聞の問題ではないはず。
そう思ったとたん、なぜか涙がでてきた。
「自分の全てを愛せとは言わない。だが、一つも嫌うな。隠すんじゃない。恥じるんじゃ
ない。恥じるべきは、自分を嫌う心だ」
そこまで言われると、今度はむっとしてきた。
「何よ、えらそうなこと言って!」
クリスは、相手が神であることをすっかり忘れて、かみつくように反論した。
「泣きながら怒れるなんて、器用だな」
「何よ、怒らせてるのは、そっちじゃない。そうやって話はぐらかして! もう行かないわよ!」
「わかったって」
ヘルメスは肩をすくめた。
そして、内心舌打ちする。いつものように、饒舌な言葉がでてこない。それでも、ヘルメスは続けた。
「だけどな、この先、ここで生きていくにしても、負の心を持ったままでは良くならない。
あの市場で、お前に手をかけた奴がそうさ」
「あれは……」
「あの罰は、俺がやったんじゃない」
「えっ? うそ?」
「先に罰を下したのは俺じゃない。俺も同じことやろうとしたがな。だから、便乗はさせてもらった」
「そう……」
それで、負という考え方はお前にもある。
その、“うそ?”と聞き返すのがそうだ。“本当か”と聞くくせをつければ、考え方も前向きになる」
「あぁ……わかったわ」
クリスは素直にうなずいた。説教じみているが、正論だと思う。
それよりも気になるのが。
「あの人に罰を下したのは、どんな神様なの?」
「俺の知り合い」
ヘルメスは何を思い出しているのか、楽しそうだ。
「お前も来て、そいつを見れば驚くさ」
「そうなの?」
「あぁ。だけど、ああやって神罰をあからさまに大勢の前で披露しちまうのはどうだったのかな。あいつらに、神界に対して余計恐怖を与えただけのような気がするな。こうやって行きたがらない奴もいることだし」
「それと、これとは……」
同じだろうか。クリスは押し黙って下を向いた。
「こらこら。相手と話してる時は、その相手を見る。俺は見てても怖くないだろ? それに、相手の目をみれば、嘘をついているかどうかよくわかる」
「それ、あなたには通用しないわよね?」
「そうそう、よくわかっているようだな」
ヘルメスはいたずらな目をクリスに向けてきた。
「それに、お前の母も、目を見て話せと教えているはずだ」
「あ、あぁ……」
言われるまで、すっかり忘れていた。確かに何度か言われたことがある。でも、どうしても目をそらして、髪に手をやる癖は直らなかった。
それにしても、ヘルメスは母を知っているのだろうか。
神だから、母やその前の時代も知っているのか。
「あの、ヘルメス……。お母さんのことだけど……」
「他にも、何か教えてもらってるはずだ。今晩寝る前に、よく思い出すんだな。……さて、行こうか」
「は? どこへ?」
「海さ。忘れたのか」
忘れてはいない。だが、ヘルメスのペースにのまれてしまいそうで、戸惑う。
母のことも聞きたいのに。
「いえ。あの、じゃぁ行くから、ちょっと待って欲しいの。髪を整えるわ」
クリスがそう言って新たな紐を取りに行こうとすると、ヘルメスがその腕をとった。
「そのままでいい」
「え。でも……」
いきなり人前にさらせるほどの度胸はない。
「わかった。じゃぁ、整えてやるから、座れ」
「い。いい。自分でやるから……あっ」
肩をとられ、無理やり座らされた。慌てて立ち上がろうとすると、押し付けられているかのように腰があがらない。どうにか動く首をひねって背後を仰ぐと、ヘルメスが楽しそうに両手を挙げて、自分ではない、と振る。
そんな否定をされても、もちろん誰の仕業なのかはわかる。
「さあ、観念しろよ」
「嫌よ、もう……」
「あんまり鳥のように騒いでると、かごに入れるぞ」
「もう、勝手にすれば!」
「そうだな、そうさせてもらうさ」




