11章
「ヘルメス様。アポロン様がおみえです」
アテナが消えた後。間もなく若い女がひざまづいて告げた。
先ほどから黒髪を指に巻きつけて、手遊びしていたが、それを聞いて女官を見下ろした。
ヘルメス付の女官は五名ほどしかいない。
それも、主人があまり神殿にいないので、用がある時にしか姿を現さない。
「お帰りいただきますか? ヘルメス様」
女官は、ヘルメスの面倒そうな表情を読みとって、気を利かせたつもりのようだ。
「……いや、行く。ありがとう。下がってくれ」
「はい」
女官は短く返答し、姿を消した。
ヘルメスは指先に一息かけて黒髪を消し、ついで自分もそこから消えた。
◇
「よお、いきなり出てくるなよ」
ヘルメスの神殿前にいたアポロンは、いきなり現れた主に声をかけた。長い金髪が豊かに胸元までかかっていて、深緑の双眸は女性なら見つめられれば誰もが落ちそうな魅力があり、また美女が嫉妬するほど整った鼻筋も優男の株を上げている。
この容貌。そう、時々ヘルメスが借りている姿だ。人間界にいるクリスがみれば驚愕するに違いない。
「悪い。目測誤った」
「そうかよ」
アポロンにはわざとなことくらい承知だ。
この二神の間ではいつものことだ。遊び、遊ばれつつ、いつの間にか一番仲がよい神同士と呼ばれるようになった。
ただし、そのうわさについては、二神とも肯定していない。
それどころか、この二神。腹違いの兄弟だが、似てる点さえもない。
「で、何の用だ?」
ヘルメスは昨晩借りた外見を見ながら、聞いた。
「ふっ。お前が珍しくてこずっていると聞いてな」
「別に。そんな事で来たのか? 暇だな」
「悪かったな、暇で」
ヘルメスは、アポロンの野次と視線を、軽く流した。
そうやって近距離で話す二神の姿を、離れた位置で、花を摘んでいたヘルメスの女官たちが見ている。
いや、騒いでいる。
花を散らすような声をあげて、自分たちのうわさをしているのを、ヘルメスが斜めに睨んだ。
「うるさいぞ、お前ら」
ヘルメスは、風に乗せて、注意を払った。
目の前で、声をきいた女官たちは、
「ごめんなさい」
と謝ってはいるものの、まだ騒ぎたてている。
この二神の父であるゼウスなら、機嫌がよければ女官に向かって目尻を下げるだろう。
機嫌が悪ければ、首をはねてしまうかも知れない。
女官たちは、この二神がそんな恐ろしいことをしないのを充分承知している。ずいぶん慣れ……いや、なめられているようだ。
そこで、二神は距離を置き、瞬時に視線を交わすと、同時にそこから姿を消した。
ヘルメスの神殿の花畑から、アポロンの神殿へ場を移すと、二神は青い水が湧き上がる噴水の石縁に腰を下ろした。
「改めて聞くが、人間一人連れてくるのに、手を焼いているって?」
アポロンはいきなり本題に入った。
「手は焼いてないがな。アテナに聞いたか?」
「いや、聞いたんじゃなくて、あいつが楽しいそうに話をしてきた」
「……意地の悪いやつだな」
ぼそりとつぶやくヘルメスに、アポロンが陽気な声でこたえる。
「お前ほどじゃないさ」
「そうかよ。まさか、あいつは他の奴らにも話してまわってるんじゃないだろうな」
ヘルメスは嫌な予感を口にする。
アポロンは、口端をあげて、追い討ちをかけてくる。
「あいつ、親父好きだからな。暇ならそこまで足と口をのばしに行ってるかもな」
「おい、よせよ……」
「いや、まぁそれはないかな。あいつだって、そこまで暇じゃないはずだ。ただ、私にお前が落ち込んでいるようだから、遊んでやれと言っていたがな」
「遊んでやれ、か……」
どいつもこいつも、誰かのしくじりを肴にすることしか楽しみがないのかと、内心でなじる。
「なあ、相手はそんなに手強いのか?」
「まさか」
「暗示が効かないんだろ」
「暗示なんて、かけてないさ」
「ほう、暗示にかけたくないほど、美少女なのか?」
アポロンは容姿に興味を示したらしい。
ヘルメスは、あほらしく思いながらも、アポロンを見た。
「お前な。そういう所は親父にそっくりだな。あいにくだが、お前好みの容姿ではない。なんなら、水鏡でみてみるといい」
「そうか。まあ、どちらにしても遊びじゃなくて神令だからな。暗示という手を使いたくなくても、使う時が来るかも知れないな」
「そうかもな……」
時間がかかるなら、実行する。
ヘルメスがあらゆる神から令を受けて、ヘルメスが承諾すれば、必ず実行する。しくじったことなどない。
ただ……。今回は裏事情が厄介だ。
それをクリスに説明しても、神界の事情なんて理解できないだろう。
仮に、人間にわかるように説明したならば……。行きたくないと、言うだろう。
だからといって、暗示をかけて連れてくるという方法は、好きではない。
それをいつか、解かなくてはいけないからだ。それを解いた時、クリスはヘルメスを一生信じないだろう。解かないならば、人形と同じ。人格がなくなる。
と、ヘルメスは息をついた。
なぜ、俺があいつから信用を得ないといけないんだ?
俺は、あいつを神界に連れてくるだけ。後の事情は……。知ったことではない。
暗示なんかかけなくても、話術で思い通りに行動させることは簡単だ。
次の行動も、台詞もすでに頭の中にある。
次に人間界に降りて、あの娘に会ったら、実行するだけだ。
「それをお前に頼んだのは、テミスだろう? そんなに難しい事を言われたのか?」
「いや、難しくないさ。ただ、生きて連れてくるか、《神人》として、命をとって連れてくるか、というところか。あちらに帰りたいと思わせるような生活をしてきてないと思うから、そっちでもいいと思うがな」
「そういうことか……。だけど、数えきれないほど使いをやってきて、人間の命をとったことはないだろう?」
「いや。よほどの悪行をしてる奴なら始末したことはあるさ。だけど、そういうのはたいがい専門の奴が始末してるな。だが、今回は悪行をしてる訳じゃないから、むやみに命はとれないな」
「もし、そういう必要があるなら、マルスに頼むところだがが……。そうだな。悪行じゃないからな」
「マルスに始末を? おいおい、冗談でもよしてくれよ。たとえ、悪行で連れてくるにしても、あいつに頼めば、女だろうと容赦なく切り刻むじゃないか」
「まあ、そうだな……」
アポロンは、提案しておいて、苦笑した。
マルスもまた、ゼウスの子で、ヘルメスたちの腹違いになるが、性格が凶暴で怒り出すと、辺りかまわず切り刻むので、神々でも手を焼いている。
「いつもなら、どんなのでも軽くこなすお前なのにな」
「いや、だから、てこずってるわけじゃない……。ちょっと裏が大きくてな。俺も、全部把握してるわけじゃないが」
「ヘルメス。何を受けたんだ?」
アポロンは、ようやく軽い事情でないのが理解できたようだ。
ヘルメスは、アポロンをちらりと見た。
刻を司る神、テミスからの神令は、密令ではなかった。だからと言って、誰彼かまわず吹聴できる内容ではない。
「お前なら、いいか……」
事の一端を口にしてしまったのだから、ごまかしても無駄だろう。
他言無用との響きをきかせて、ヘルメスは長年友であり、兄弟をやっている男に、その人間が受けるであろう役割を話した。
◇




