第二章 2
どの位気を失っていたのか。目を覚ました美希が、跡形のない窓を見遣れば、空の色はともかく、まだ日が沈むような時間ではないのは明らかだった。
磨りガラス越しではあったものの、あの時も日は沈んではいなかったのだから、それほど時間は経っていないのだろうと考えつつ、美希はゆっくりと起き上がる。
そして今度は最初から早歩きで進み、病室の扉を開ければ、美希に起こった出来事は幻想などではないとはっきりした。
慌ただしく動き回る人々と、その脇で崩れるように壁に寄り掛かる人々。病人であろうが、医者や看護士であろうが、この場にいるものの全てが程度は違えど怪我をしている。
ガラス片が前腕や顔にいくつも埋まっている人、赤く晴れ上がった火傷であろう部位に、顔の大きさの半分はあろうかという水ぶくれができている人、見た目は多少の裂傷のみだが、飛んできた物が強打したのか、腹部を抑え俯きながら唸る人。
目の前の光景に急激に吐き気がこみあがり、それでもせめてお手洗いに行かないとと思い、美希の横をすれ違おうとしていた、比較的元気な女性に場所を尋ねようと声をかける。
「すみません、あの」
通り過ぎた女性の肩を叩こうとした美希の手は、そこに触れる事はなかった。女性の肩をすり抜けた美希の手も全く合わない視線も、女性が美希の存在を認識していないと教えている。
そこで思いついた疑念を、確信に変える事は容易いことだった。さっきの女性だけでなく、誰とも目も合わなければ、美希の声にも反応がない。
二つの恐怖が、美希を襲っていた。
闇雲に走っていたにも関わらず、病院の出入り口はすぐに見つかった。息が上がり、呼吸を落ち着かせようと深呼吸をしながら、駆け足から通常の歩調へと戻していく。
幾分か冷静さを取り戻した美希が、周囲の声に耳を傾ければ、痛みに耐えかねた悲鳴やすすり泣く声に紛れて、いくつかの聞き覚えのある単語が聞こえてきた。
“新型”“広島と同じやつ”“浦上”
いくら地元でないとはいえ、これらの単語から導かれる言葉を知らない訳がない。
「原爆が落ちた日、なの?」
当然返事などない疑問だけが、頭の中で反芻される。この疑問が当たってもいなくても、美希には行く宛てなどある訳もなく、とはいえ、これから益々怪我人が増えるだけの病院になど居たくはなかった。
病院を離れた美希は、人の流れと反対に進んでいく。少しでも遠くへ避難するのが人の常だとすれば、美希の進んだ先には爆心地から程近い、美希が通っていた学校も、この当時から存在しているだろうという予測の元に。
知らない場所で他人からは存在していない自分を突き付けられた今、いい思い出などなくとも、少しでも自分と繋がっていた場所に行きたくなった。進む道、としては美希の選択は当たっていたが、そもそも病院を離れた理由に関しては、美希の行動にさして意味などない。
むしろ、爆心地に近づけば近づいていくほど、人は原形を留めておらず、全身が火傷まみれで皮膚がめくれた姿や、炭のように身体が黒くなり、かろうじて四肢があるから人と分かるような死体を目にする。
美希からは干渉ができなくとも、8月の熱さで喉は渇き、ところどころで起こった火事で、家も畑も家畜も人も全てが燃えた匂いは鼻にこびりついている。
それでも歩みを止めずに進んだ美希の目の前に、かろうじて建ってはいるものの、3階部分の骨組がむき出しになっている校舎らしき建物があった。
校庭ではすでに息絶えているのだろう、血と火傷で肌色を残していない女学生の死体がいくつか並んでいる。
誰も泣き叫んだりせず、体力のある者は引き寄せられるように校舎へと戻っていく。続いて美希も校舎に入っていけば、そこは校庭の比ではない死体が、無造作に転がっていた。
――皆、死ねばいい。
夏目に刺されて、薄れゆく意識の中強く願った思いが、今、美希の傍らにあった。




