第二章 3
自分が望んでいたものを目の当たりにして、美希は校舎を飛び出す。
美希自身は最初の原発が落ちた時であろう衝撃を除いて、痛みもなく目を覆いたくなるような傷も負っていない。さらに、自分が認識されていないという事で、どこか、人々も跡形もない街並みも他人事だと思っていられる面があった。
しかしこれが、自分が望んでいたものだったとすれば、瞬間的に膨れ上がる、現実感。急激な心の変化に、美希は留める事のできない吐き気をもよおした。喉を押し上げる嘔吐きが収まらず、口を塞いで辛うじて抑えているものの、限界は近い。
何もかもが熱と爆風で破壊されたこの校庭に、ただでさえ少ない身を隠せる場所など最早あるはずもなく、人が集まっている場所から距離を置いて膝をついた。
自分を抱きしめるように、下腹部に両腕を回せば、気持ち不快感は和らいだものの、それでも抗えない吐き気。しかし、下を向こうとした美希の視界の端に、映るものが美希の動きを止めた。
十メートルは離れている人だかりの中、仰向けに寝かせた体が美希のいる側に向きを変える。医学の心得などなくても分かる、全身のほとんどが火傷で赤黒く変色した、助かる見込みのない体。
唇も鼻も、輪郭は無くなってしまい、ただ肩を揺らす呼吸に合わせて、黒い穴が微かに収縮を繰り返す。 さっきまでいた病院と同じで、怪我をしていない人などおらず、数多並ぶ身体の向きが一つだけ変わろうと、気にする人は誰もいない。
水面で餌を求める鯉のように、感情なく動く口からは声は聞こえないけれど、その目は確かに美希と視線を合わし、何かを訴えている。
なぜ彼女だけは、美希が見えるのか。それを考える暇などなく、口の動きは止まり、瞳からも光が消える。
ただ、死にゆく目は、最後まで美希を映していた。
このままどうなってしまうのか。
終りの見えないまま、それでも美希は再び歩き出す。
どこか人が集まるところに留まっていれば、それだけ人の死と向かい合わなければならないのが、耐えられなかった。爆心地から遠ざかるように進んでいけば、その道すがらにいくつもの人の身体が横たわっている。
その中には、美希が見えているかのように美希をじっと見つめ、手を伸ばす者さえいたけれど、どの人も一分も経たないうちに、死体になっていった。
死ぬ寸前の者にだけ、見える自分もまた、死と生の狭間にいるのかもしれない。漠然とした思いを抱きながらも、不意に暗くなった空を見上げれば、厚い雲が辺りを覆い尽くしていた。
きっと雨が降る。そもそも自分が雨に濡れるのかもはっきりしないが、歩き続けた足は疲れを主張し、休憩を促す。
住宅地の、とはいえ、その名残は瓦礫と化した家でしか判別できないけれど、その住宅地の外れで生き残った人々が集まって、怪我人救護とライフラインの確保を懸命に行っていた。
もう、人の近くにはいたくない。
どこか雨をしのげる場所を探しつつ、人の群れから遠ざかっていく美希に、微かに鳴き声が聞こえる。周囲を見遣れば、大きな石に足が挟まり、必死で助けを呼ぶ幼い女の子の姿があった。
助けないと、と思い駆け寄ってみても、美希の手は石に触れる事もできず、人を呼ぶ事もできない。もどかしさだけが広がる中、何かが美希の頬にあたる。
降り出した雨は、透明ではなくねっとりと黒く、これが多量の放射性物質を含んでいるのは、明らかだった。
段々と強さを増していく雨。美希はとっさに傍にいる女の子の身体を隠すように、上から覆いかぶさった。
こんな事をしても、何も変わらないと思ってはいても、何もせずにはいられなかった。少しでも雨から遠ざけようと、制服の胸元からタイをひっぱり女の子の顔にかける。
それでも雨は、タイも美希の身体も無視して女の子に降りかかり、何もできない自分が悔しくて、美希は泣いた。
「ここに女の子がいます。この雨は危険です、濡れないように避難して下さい」
聞こえなくても、万が一誰かがこの声を拾ってくれたら。唯一のできる事は、これだけしかないと、力の限り同じ台詞を繰り返す。
そんな中、今まで痛みを感じなかった美希の身体が、激しい痛みを訴えた。目をやると、さっきまではなかった、でも間違いなくそこになければいけない傷から出血している。
「なん、で、今なの?」
広がっていく鮮血と共に薄れゆく意識の中、ただ、胸の中の女の子の事が気がかりだった。




