第三話「不眠と、怒りの羽音」
「……あ、これ。もうみんな、人間としての尊厳を捨てかけてる」
俺は魔王城の中枢、管制室の特等席で、膝から崩れ落ちそうになっていた。 第一階層の『くっつき迷宮』を、泥と粘液にまみれながら三時間かけて突破したクラリスたちは、現在、第二階層『不眠の無限回廊』という地獄に閉じ込められている。
この回廊の仕掛けは、ある意味で前代魔王が放ったどの広域破壊魔法よりも質が悪い。 出口のない真っ暗な廊下が延々と続く中、耳元で「プ~~~~ン……」という、あの世界共通の不快極まる羽音が、指向性魔法スピーカーによって休む間もなく流され続けるのだ。
『……どこ!? どこにいるのよ、この虫! 出てきなさいよぉぉ!!』
画面の中のクラリスは、もはや聖女の慈悲など微塵も感じられない形相で、自分の耳元を両手でぺしぺし、いや、バチンバチンと凄まじい音を立てて叩いている。叩いても叩いても、音は止まらない。なぜなら、そこに蚊は一匹もいないからだ。
『くそっ、手応えがねぇ! ルナ、広域殲滅魔法でこの空間ごと焼き払え! 塵一つ残すな!』
『無理よガラム……魔力が、もう……底をつきそうなの。ああっ! また来た! 今度は左の耳のすぐ後ろでホバリングしてるっ! 殺して! 私の鼓膜ごとこの音を殺してええ!!』
「陛下、見てください。この『物理的な破壊では解決できない』というもどかしさ。肉体を傷つけず、ただ精神だけを内側から磨り潰していく。オーク工務店が良い仕事をしましたね。スピーカーの配置角度、デシベル数、共に完璧です。彼らには特別ボーナスとして、人間一人分の魔力結晶を支給しておきましょう」
隣でエルゼが、羽ペンを走らせながら満足げに頷く。
「エルゼ……もういいだろ。あいつら、丸一日寝てない上に、さっきから一歩も前に進めてないんだぞ。今すぐ音を止めて、せめて、せめて布団だけでも差し入れてやってくれ。あいつら、硬い石の床で泣きながら寝ようとしてるんだぞ」
「閣下、それは甘すぎますな」
背後からバルガスが、ガハハと豪快に笑いながら、俺の肩に巨大な丸太のような腕を回してきた。
「寝かせないことで闘争本能を限界まで引き出し、生存本能のみで戦う狂戦士へと昇華させる。まさに古の戦士育成術! さすが陛下、かつての友だったからこそ、彼らの弱点が『睡眠不足』だと見抜いておられたとは! このバルガス、一生ついていく所存です!」
「違う! 普通に人間なら誰だって寝不足には弱いんだよ! 弱点とかじゃないんだよ、生物学的な限界なんだよ!」
俺が必死に弁明していると、画面の端、通路の影でスピーカーのメンテナンスをしている雑魚モンスターたちの会話がマイクに拾われた。
「……おい、予備の魔石持ってこいよ。この『超高音不快ノイズ』、出力上げすぎて魔力の消費が激しいんだわ」
「へーい。……しっかし、新魔王様もエグいこと考えるよな。普通、勇者が来たらドラゴンとかキマイラとか出すだろ? なんで『蚊の羽音』なんだよ。どんだけ性格歪んでたらこんな陰湿な罠思いつくんだよ」 「まったくだぜ。あの聖女、さっきから虚空に向かって聖拳突きしてるぞ。見てろよ、あの人そのうち自分の耳を引きちぎってでも音を止めようとするぜ。……うわ、今の音聞いたか? 『ユウヤの仇!』だってよ。新魔王、マジでヤバいわ」
「違うんだ……。俺はここにいるんだ、ゴブリン……。俺が一番、その性格の悪い罠をやめさせたいんだよ……」
俺は居ても立ってもいられず、全館放送用マイクをひったくった。 翻訳バグがあるのは分かっている。でも、このままじゃみんな、俺を救うという目的すら忘れて、怒りと狂気の中で自滅してしまう。
「みんな、落ち着いてくれ! 俺だ、ユウヤだ! 殺されてなんていない! ほら、一昨日の晩、焚き火を囲みながら魔王を倒した後の話したの覚えてるだろ!? 偽物じゃない、本物のユウヤなんだ!」
だが、俺の喉から放たれたのは、絶望を煮詰めたような、傲慢極まりない咆哮だった。
「――『クハハハ! 泣け、喚け! キサマらの英雄は、今や我が玉座の足蹴にする肉塊に過ぎぬ……! 牛の肉を貪るように、奴の魂も引き裂いてやったわ……次はキサマらの番だ……眠れぬ地獄で、踊り狂うがいい!』――」
【翻訳完了:呪詛の咆哮】
「…………あ」
モニタ画面の中、時間が止まった。 静寂。 次の瞬間、クラリスの体から、怒りによって増幅された黄金の神聖魔力が爆発した。睡眠不足でリミッターが完全に外れた彼女は、かつて俺が見たこともないような「鬼の形相」をしていた。
『……ユウヤを、食べた……? 牛の肉みたいに……?』
「あ、いや、違うんだクラリス! 話をしたかっただけで……!」
『――っ、この……外道がああああああああっ!! ユウヤを……私たちの希望を、そんな風に侮辱するなぁぁぁぁぁっ!!』
クラリスの咆哮と共に、回廊の壁が物理的に粉砕された。本来なら迷路を正しく進まなければ開かないはずの鉄扉が、彼女の振るう聖杖(という名の鈍器)の一撃で、紙屑のようにひしゃげて吹き飛ぶ。
「あああああ! 壁が! 俺でも突破できなかった対魔法隔壁が!!」
「お見事。怒りによるリミッター解除ですね。予定より六時間は早い到着になりそうです。陛下、お急ぎください。彼らは今、完全に『復讐の鬼』と化しています」
エルゼが淡々と事務手帳に「壁の修繕費」を書き込む。
「……ユウヤ。……みんな、ブチギレ。……お葬式の準備、しとく? 花、白がいい? それとも、血の色に合わせて、赤?」
リィナが影から、喪章を手に持って俺の袖を引っ張る。
「俺の葬式か!? それともあいつらの葬式か!? どっちにしろ最悪だろ!! 誰か、誰かこの翻訳機能をオフにしてくれえええ!!」
俺の悲痛な叫びを無視して、画面の中の元仲間たちは、血走った目で、スライムの粘液と泥にまみれたまま、一直線にこの管制室――いや、玉座の間へと突撃を開始した。 その手には、俺の仇を討つための、文字通り「命を削った魔法」がチャージされている。
(……待てよ。あいつら、俺が魔王になったんじゃなくて、『魔王に殺されて、しかも侮辱された』と思ってるのか?)
だとしたら、俺が玉座で「よお、無事だったか!」なんて手を振った瞬間、どんな魔法が飛んでくるか想像に難くない。 友情の再会どころか、一秒で灰にされる未来しか見えない。
「陛下、迎撃の準備を。バルガス、ノクス、所定の位置へ」
「おう! 勇者どもの死に際、この目で見届けてくれようぞ!」
「くくく……寝不足の被験者たちのデータ、楽しみですねぇ……」
幹部たちがやる気満々で配置についていく。 俺は一人、豪華な椅子の上で震えていた。
「帰りたい……。今すぐ帰らせてくれ、日本に……!」
だが、無機質なシステム音は、残酷にも最終カウントダウンを開始した。
『侵入者、玉座の間まで残り300メートル。……陛下、笑顔の練習はお済みですか? 敵意120%のお客様をお迎えする時間です』
俺は半泣きになりながら、折れた聖剣に代わる「魔王の杖」を手に取るしかなかった。




