第一話 「勇者、魔王に転職」
「……終わった、のか?」
口の中に広がる鉄の味と、鼻を突く焦げた魔力の臭い。
俺――ユウヤは、ひび割れた床に折れた聖剣を突き立てて、かろうじて身体を支えていた。
視界がチカチカする。全身の筋肉が「もう無理だ」とストライキを起こしているのが分かる。
だけど、目の前で光の粒子になって消えていく「魔王」の姿を見て、俺の心には確かな熱いものが込み上げていた。
異世界に召喚されてから、三年の月日が流れた。
右も左も分からぬまま「勇者」と祭り上げられ、魔物に追い回され、飯の代わりに回復薬をすするような地獄の日々。それでも頑張れたのは、日本に残してきた代わり映えのしない、だけど愛おしい日常に帰りたかったからだ。
「これで……やっと、帰れるんだな」
満員電車も、うるさい上司も、コンビニの深夜の静けさも。今は全部が宝石みたいに輝いて見える。 さよなら、剣と魔法のファンタジー。こんにちは、俺の平和な毎日。 勝利の余韻に浸りながら、俺が静かに目を閉じようとしたその時だった。
『――検知。対象:個体名ユウヤ。魔王殺しの最終シークエンスを完了しました』
脳内に響く、無機質で、どこか機械的な声。え?システムメッセージ?魔王を倒したボーナスか何かか?
『世界均衡管理者の欠員を検知。適合率を算出中……算出完了。
適合率99.8%。これより、第百二十四代魔王への就任プロセスを開始します』
「なっ……何を言って――っ!?」
次の瞬間、霧散していたはずの魔王の残滓が、暴風となって俺を包み込んだ。
それだけじゃない。足元から強烈な衝撃波が走り、俺の傍らにいたはずの仲間たちが、まるでゴミのように部屋の外へと弾き飛ばされていくのが見えた。
「ユウヤッ!」
仲間の叫び声が遠ざかる。 ちょっと待て、今の光は何だ? 俺の身体が……熱い。いや、熱いなんてもんじゃない。血液が沸騰して、骨の形が無理やり変えられるような、えげつない感覚。
「が……ぁ、ああああああああっ!!」
叫び声すら闇に飲み込まれ、俺の意識は一度真っ白になった。
どれくらいの時間が経っただろうか。 不意に痛みが引き、冷たい空気を感じて目を開けた。 そこには、重厚な扉が開く音と、整然とした足音が響いていた。
「――お見事でした。前代をこれほど鮮やかに解任されるとは、期待以上の手際です」
冷徹だけど、どこか事務的な女の声。 顔を上げると、そこには見覚えのある姿があった。 額に一本の角、知的な眼鏡、そして隙のない黒い軍服。ついさっきまで、魔王の隣で俺たちに殺意全開の魔法をぶっ放してきた、あの女だ。
彼女は、返り血一滴浴びていない完璧な動作で、俺の前で深々と頭を下げた。
「……お前、さっきの…。まだやる気なら、相手に、なるぞ……」
俺は震える手で折れた剣を構えようとした。だけど、力が入らない。
それどころか、自分が今座っている場所に猛烈な違和感を覚えた。
……なんだ、この妙に豪華で、ケツの座りが悪い椅子は。
「いいえ。私は先ほどまでは前代の部下。ですが、この瞬間からは貴方様の忠実なる右腕です。改めまして自己紹介を。魔王軍総合参謀、エルゼ・ヴァイレンと申します。ようこそ魔王城の中枢へ。第百二十四代魔王、ユウヤ様」
「……魔王、様? ふざけるな。俺は勇者だ! 魔王を倒しに来たんだぞ!」
俺は必死に叫んだ。だけど、エルゼは眼鏡の奥の瞳をピクリとも動かさず、淡々と続けた。
「残念ながら、これは冗談でも呪いでもありません。この世界において魔王とは個人名ではなく『役職』。前任者を倒した者がその権能を、魂ごと引き継ぐ。それが世界の均衡を保つための『仕様』なのです」
エルゼは懐から、一冊の分厚い革表紙の帳面を取り出した。
「さて、就任の儀も済みましたので、早速ですが『初仕事』をお願いしたく存じます」
「話を聞けよ! 俺は帰るんだよ! 日本に!」
「帰還権限のロック解除には、魔王として一定以上の実績を積み、世界崩壊ゲージを安定させねばなりません。拒否権はなし。契約期間は無期限。魂への刻印は、先ほど完了しております」
彼女は帳面をパラリと開き、まるで明日の会議の議題でも話すような口調で追い打ちをかけてくる。
「それよりも緊急案件です。現在、貴方様が連れてこられた勇者パーティーのお仲間たちが、城の最外郭から玉座の間へ向かって、再び進軍を開始しました」
心臓がドクンと跳ねた。 みんな、無事だったのか。良かった……。いや、良くない!
「彼らは貴方が『魔王に捕らえられた』と思い込んでいます。このままでは、彼らは愛する貴方を助けるために、この部屋に踏み込み――全力で、貴方を殺しに来ます」
「……っ、そんなの、俺が説明すれば……!」
「無駄です。魔王の座に座った者の言葉は、人類の耳には『呪詛の咆哮』に変換されるようになっています。物理的に、説得は不可能です」
エルゼは冷たく言い放つ。
「さあ、ご決断を。彼らを死なせず、かつ追い払うための『防衛用モンスター』の配置、および『勇者の心を折らない程度の手加減したトラップ』の承認を。ここに魔力を込めて指印を。……残り、百八十秒です」
差し出された書類には、俺が一番嫌いだった「嫌がらせ罠」がずらりと並んでいた。
「これ……俺が、仲間にやるのか……?」
「管理者ですから。放置すれば、彼らは罠のない最短ルートでここへ来ます。そうなれば、殺し合うしかありませんが?」
「……クソっ! やればいいんだろ、やれば!」
俺は半泣きになりながら、かつての仲間の足止めをするための承認欄に、指印を叩きつけた。
その瞬間、部屋の隅の影から、一人の小さな少女が音もなく現れた。 戦場で一度も姿を捉えることができなかった、銀髪赤眼のあの隠密だ。
「……飲め。……初仕事、お疲れ様。……名は、リィナ・シャドウレス」
リィナは無表情のまま、震える俺の手に冷たい水差しを差し出してきた。 ……冷たい。現実感が、じわじわと指先から伝わってくる。
「……お前、いつからそこに……」
俺が水を一口含んだその時、廊下の向こうから爆笑と足音が響いてきた。
「ハハハ! 素晴らしい! 仲間に罠を仕掛けるその苦渋の決断! まさに魔王の器に相応しい剛毅さですな!」
玉座の間の扉をぶっ壊して入ってきたのは、俺の盾を紙切れみたいに引き裂いた、あの鎧の巨漢だ。彼は兜を脱ぎ、獰猛な笑顔で膝をついた。
「魔王軍戦闘統括、バルガス・ゴルドア! 元勇者殿……いや、陛下! 貴方ほどの強者を主に持てること、このバルガス、武人の誉れにございます!」
さらに、バルガスの影からひょろりとした黒衣の男が這い出してきた。禁術で俺たちを呪いまくった、あの魔術師だ。
「陛下、今、心拍数が非常に面白い値を示していますねぇ……。私は魔法研究担当のノクス・アルテマ。そのまま、お仲間に襲われる直前の貴重な生体データも採取させてくださいね?」
「……もう、実家に帰りたい……」
俺の絶望的な呟きは、非情なシステム音によって遮られた。
『防衛プロセス開始。対象:勇者パーティー。第一関門「無限スライム迷宮」を起動します』
こうして、俺の……不本意すぎる魔王ライフが幕を開けた。 とりあえず、誰か俺の代わりに、この辞表を受理してくれないだろうか。




