第8話 夏帆の再起
日曜の朝。
カーテンの隙間から差し込む太陽が、やけに眩しかった。
夏帆は、鉛のように重い体でベッドから起き上がると、ローテーブルの上に置かれた一本の剣に目をやった。
黒を基調とした鞘に、白銀の装飾。
昨日、あの『白仮面』が置いていったもの。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
事務所の崩壊。ネットの炎上。そして、あまりにも唐突に現れ、理不尽な言葉と、あまりにも大きな希望を押し付けて去っていった、謎の男。
情報量が多すぎて、頭がショートしていた。
だが、夜が明け、少しだけ冷静になった頭で考えると、彼の言葉だけが、今の自分にとって唯一の道標のように思えた。
『罰ゲームは、出来ないことを設定するんじゃない。嫌なことを設定することに意味がある』
『君が『責任』を果たすための、最低限の『道具』だ』
「……責任」
夏帆が今、果たさなければならないのは、罰ゲーム『魔石100キロの納品』という、たった一つの責任だ。
事務所への罪悪感も、スポンサーへの申し訳なさも、一度、脇に置く。
まず、やるべきことをやる。
夏帆の瞳に、ようやく力が戻った。
彼女は、何十件も溜まっていた不在着信の中から、元マネージャーの番号を選び、震える指で発信ボタンを押した。
『――夏帆か! 今どこにいるんだ! どうなってるんだ、お前、まさか……』
「お世話になりました」
相手の言葉を、静かに遮る。
「契約は、本日付けで解除させていただきます」
『……は? 何を言って……馬鹿を言うな! お前が招いたことだろうが! 紅玉重工からの損害賠償、どうするつもりだ!』
「罰ゲームの責任は、私が果たします。でも、もう、あなたたちの指示で動くことはありません」
『ふざけるなよ! お前を育てるのに、いくらかかったと……』
夏帆は、それ以上聞くことなく、通話を終了した。
スマホの画面に表示された『通話終了』の文字を、しばらく見つめる。
涙は出なかった。ただ、心の一部が、すっぽりと抜け落ちたような、奇妙な空虚感がある。
……冒険者にとって、事務所やパーティーというのは、辞めるのに苦労しない場所だ。
ダンジョンは多種多様。
出てくるものもそうだが、『入るための条件』も、かなり限定されることがある。
例えば、『組織に属していないこと』が侵入条件として設定され、そのエリアで手に入るアイテムが『緊急時に有用』な場合もある。
そういったアイテムを素早く手にするために、『冒険者は、辞めるということに対して、軽くできる』のだ。
ダンジョンはまだまだ分かっていないことは多いが、『有用なダンジョンの制約』に合わせて作られた法律も、珍しくはない。
彼女は、その連絡先を、静かに削除した。
過去との決別を告げる、小さな儀式だった。
★
数日後。
夏帆は、一人でダンジョンの一層に立っていた。
事務所から貸与されていたルビー・シリーズは、もちろんない。動きやすい私服に近い軽装に、最低限の防御機能がついたベスト。
そして、腰に差しているのは、白仮面から渡された、あの剣だ。
「……よし」
気合を入れ、鞘から剣を抜く。
紅玉重工の剣に比べて、驚くほど軽い。刃は薄く、重心は手元に近い。振るうというより、突くことに特化しているように見える。
ちょうど、一体のゴブリンがこちらに気づき、こん棒を振り上げて突進してきた。
(大丈夫。相手は一層のゴブリン。落ち着いて……!)
夏帆は、これまで体に叩き込んできた動きで、それに応じる。
敵の攻撃を、盾で受け止めるイメージで――しかし、もう盾はない。咄嗟に剣で受け流そうとするが、軽すぎる剣はゴブリンの体重が乗ったこん棒の勢いを殺しきれず、体勢を崩された。
「くっ……!」
立て直そうとしたところに、追撃のこん棒が迫る。
慌てて後方に飛び退き、距離を取る。
(なんで……!? 相手はゴブリンなのに……!)
焦りが募る。
もう一度、今度は自分から踏み込む。これまでと同じ、力任せの斬撃。
しかし、剣が軽いため、その一撃はゴブリンの皮膚を浅く切り裂いただけ。致命傷には程遠い。
反撃のこん棒を、またしても危なげに避ける。
おかしい。何かが、根本的に違う。
今まで、自分はもっと強かったはずだ。
――その時、脳裏に、あの仮面の男の言葉が蘇った。
『……その剣、君が今まで使っていたものより、少し『正直』だ』
「……正直?」
呟いた瞬間、夏帆は悟った。
今まで自分が使っていた剣は、「正直」ではなかったのだ。
2000万円という開発費。紅玉重工の技術の粋。
あの剣は、多少雑な振りでも、力任せの攻撃でも、その重さと頑丈さ、そして圧倒的な品質で、全てを「正解」にしてくれていた。
だが、この剣は違う。
この剣には、そんな補助機能はない。
踏み込みの甘さ、刃筋のブレ、重心の乱れ。こちらの未熟さを、一切ごまかしてはくれない。
使い手の実力を、ありのままに、残酷なまでに「正直」に映し出す。
「そうか……私、弱かったんだ……」
初めて、彼女は自分の本当の実力と向き合った。
悔しさで、視界が滲む。
でも、それはもう、昨日までの『恥』の涙ではなかった。
(やらなきゃ……)
目標は、二つになった。
魔石100キロを集めること。
そして、この『正直な剣』に、認められるくらい、強くなること。
魔石100キロを自分で集めて寄付するなら、せめてこの剣で、『魔石集めの耐久配信』ができる程度には、強くなる必要がある。
夏帆は涙を拭うと、剣を構え直した。
目の前のゴブリンが、格好の練習相手に見えてくる。
もう一度、今度は力ではない。
剣の重心を、刃の角度を、そして、自分の体の軸を意識して。
彼女は、自らの意志で、新たな一歩を踏み出した。