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くらし、介護、健康

階段の踊り場にて (足音~ 続編)

作者: 池畑瑠七

 義母は今、階段の踊り場に居る。


 自宅での介護生活が始まり三年くらい経つだろうか。癌や腎障害、緑内障などなどを抱え健康状態のアップダウンは数限りなくあったが、この師走の声を聞いたあたりから、以前に増して体力が落ち睡眠時間が長くなってきていた。


 朝ごはんの時間になっても起きていないことが増え、食も日に日に細くなっていった。

 思わず顔を近づけ、呼吸の有無を確認するようなことも増えた。


 起こしてなんとか食事を済ませると、早々にコタツで座ったまま また、寝入る。

 日中もうつらうつら、寝ているかと思えばボンヤリと目を開け、頭皮がぴりぴり痛い、身体中がピリピリしてよく眠れないという。

 乾燥のせいか、神経になにか支障が来ているのか、新しい薬の副反応か?はたまた感冒等による発熱あるいは治療中の癌転移か…?

 しかしまた一眠りすると、不思議に痛みは消えていると彼女は言った。では、もう少しだけ様子を見てみようかという事になった。


 その翌早朝だった。家人が様子を見に行くと、ベッドの脇に倒れ込んで動けないでいる母の姿を発見。階下から大声で呼ばれ飛び起きて、スリッパも履かずに居室へと向かった。


 状況からすると、明け方トイレに起き出したが朦朧としてその場がそうだと思い込み用を済ませた、しかし立ち上がることが出来なくなり、そのまま仰向けになっていた…という感じだった。しかし本人は何が起きたかよく理解しておらず、見つけた時は夢うつつ状態だった。

 幸い怪我もなく、清拭を済ませ着替えが終わる頃にはぼんやりとしていた意識は戻っていた。自分がその時何をしていたかは、記憶にないままだったが。

 流動食系ゼリーを飲ませると少し落ち着き、ベッドで再び寝入った。


 ここへきて介護のステージが2-3段くらい一気に上がったなと、緊急呼び出しチャイムや介護用品、流動食等を急ぎ買い足し、朝昼晩家族の誰かしらが交代で注視し、ケアに当たるようにした。


 年明け早々で89になった義母。大分前から病気のデパートみたいにあちこちの科にお世話になっていたから、散発するその痛みが果たしてどこからきているのか、何科を受診すべきかも素人には全く判断がつかない。といって、いまとりあえずの外来診療に赴き、混み合う待合所で数時間も待つなんてのは到底無理だ…。


 かかりつけの病院で往診してくれるだろうか?

 あちこちに問い合わせをしている僅かな暇にも彼女はさらに弱り、あっという間に立ち上がるのも極めて困難な状態に陥った。

 結局近隣に往診医は見つからず、かかりつけ病院では「どうしてもの時は救急車を呼んでください」といわれた。やむを得ないとはいえ、尋ねたこちらには無情な返答だった。


 高熱を発し遂に危篤状態に陥ったのはそんな矢先、クリスマスの翌日だった。


 朝食の用意をして様子を見に行くと呼びかけに返事なく、呼吸も弱く意識は混濁していた。今にもすうっと虚空に吸い込まれ消えていきそうな灯火だった。


 来るべき時が来た。

 じいちゃんがお迎えにきたのだ、皆がそう思った。


 救急車が到着するまでの間に、居合わせた家族交代で手を握り別れの言葉を交わした。母はそのとき小さくうなずいて、言葉にならない言葉を返してくれた。

 一同、それが今生の別れと覚悟しての僅かな時間だった。


 しかし幸運にも、その後到着した救急隊員の方々の迅速な救命処置を受け搬送先病院での手当ての甲斐あって、どうにかその一命をとりとめることができた。



 そのまま入院となり翌日には意識が戻った。呼吸も認知も回復はしたものの、元々筋力も抵抗力も落ち衰弱しきっていた体は、病室ベッドの上で初めて目覚めた時には最早言う事を全くきいてくれなくなっていた。


 目の前におかれた水飲み器を片手で持ち上げるのも難しい、歩くことは勿論、ベッドの上で自力で寝返りを打つことすらできなくなった。

 食事以外の全てに介護を要する状態だ。

 長年の持病だった腎臓の障害が悪化したための発熱が、今般の主原因だった。転移を抑えていた癌よりも先に、腎臓がその役目を閉じようとしていた。


 もはや何某かの治療によって回復する病状ではないため、以後はこの寝たきり状態で、いかに苦痛を減じ、幕を閉じるその日までを穏やかに歩ませてあげられるかが課題となった。

 今後は、自然に任せ与えられた天寿を全うするという方向へ舵を切り、その道を皆が静かに寄り添い歩むのだ。



 ベッドの上でカーテン越しに出入りする太陽の光具合で時を知る。

 テレビを点ければ時間は解るはずだしラジオ代わりに気晴らしになるかなと思うのだが、目も悪いし疲れるから見たくないといった。


「時間が知りたいから腕時計を持ってきて」


 グッと握ったら折れてしまいそうな細い手首に巻いてあげると「穴は5つ目ね」とたどたどしい口調でいう。

 いわれた通りにするとゆるゆるだった。時間を見ようとしても時計はスポンと肘まで落ちてしまうのだ。せつなかった。

 穴は3つ目にして、そうっと留めた。


 いつも左腕にはめていたお気に入りの白い腕時計。せっかくつけたけれど、今は重たく時間を見る為に手首をもち上げる事すら、大変なようだった。

 今日は外して 少し背を起こしたベッドで胸の上に置いていた。


 食事はおかゆとおかずが少し。自らスプーンで口に運ぶのもやっとやっとだ。

「お風呂に入りたい」「起きてトイレに行きたい」「目薬をちゃんと差して貰えない」

 平熱であれば認知は比較的シッカリしているため、寝たきりであっても入院から日が経つほどに、ベッドから出られない日々の不満が面会時に口を突いて出てくるようになった。


「早くここを出たい、家に帰りたい」

 インフルや新型コロナのため厳しく制限されている面会時間だが、顔を出す短いひとときのなかで毎回、繰り返し繰り返し、力ない表情でそうぼやく。


 母の愚痴も仕方のない事と思うからそれはそれとして受け止め、やれること出来ることは叶える。

 しかし今般、知らずにいた介護や医療現場のひっ迫した状況を目の当たりにし、母のケアに関しての些少な不備や不足を責める気には、到底なれなかった。


 むしろそのような中で義母を受け入れ救命してくれた病院にも、日々ケアをしてくださっている看護師の方々にも、様々な家族の相談に親身に応えサポートして下さる介護や医療スタッフの方々にも、尊敬と感謝の想いが一杯だ。




 今日、介護福祉施設への入所申し込みを済ませた。

 母はそこでリハビリを頑張って家に戻りたいと願っている。幸い家からそう遠くないところに条件の折り合う施設が見つかり、その点母もだいぶホッとしたようだった。


 「今日は〇月〇日よね、あと〇日ね」

 指折り数え、退院と入所のその日が来るのを心の支えに、ひたすら不自由を耐えて彼女は待っている。

 「そうだね、いま段取ってるからね。あとちょっとのガマンだね」

 医師からおやつOKの許可が出たので口当たりのいいプリンやゼリーを持って病室を訪ねるたび、同じことを尋ねられては同じ答えを返す。


 回復の見込みがない事を告げることは、まだ出来ていない。

 危篤に陥った事も緊急搬送されたことも全く覚えていない母。ある朝 目覚めたら寝たきりになっていたそのショックや悲しみ、苦痛を思うと、なるはやで家に帰りたいという希望の灯火をいますぐ彼女から取り上げるようなことは、とても出来ない。


 この数年、弱りゆく母を支え続ける日々は正直楽でないことも多々あった。夫婦ともにフルタイムワークを続けるなかで、日に日に重さを増していく母へのサポート。同居長男は自身の障害でリハビリと治療を受け体調に波あるなかでも、サポートの一翼も担ってきてくれた。1日1日が綱渡りだった。


 公的支援を頼んだり家族で役割分担をしていても、みな心身休まる時が無く先が見えぬ日々に一同徐々に追い詰められていった。

 それが限界まで近づきつつある中での急変、入院だった。


 入院から2週間がたち、階下に義母の居ない生活が普通になりつつはあるけれど。

 主の不在な部屋のシャッターを朝晩開け閉めするたびに、空のベッドや冷えたこたつを眺めては、母の元気だった時の姿や看取りを覚悟したあの日のことが頭をよぎる。


 あとどれくらい、残された時間があるのだろう。

 住み慣れた家に一時でも戻り誰に遠慮も無くぐっすりと休めるそんな時間は機会は、残されているだろうか。一歩も動けない病院のベッドの上で24時間をうとうとと過ごし、意のままにならぬ身体と自分の心に向き合うのみの長い夕靄の中。

 ひたひたと時が過ぎていくこの階段の踊り場で、母は何を想うのか。


 それでも、あの救急搬送の日に還らぬ人になっていたらと思うと、可愛い孫たちや家族親族と、笑顔で言葉を交わす時間を貰えた事は本当にありがたかった、良かったのだとも思える。

 誕生日を祝う言葉を贈ることができた。姪っ子のウェディングドレス姿の写真も、なんとか間に合いそうだ。


 あの日、一番下まで一気に転げ落ちるかと思われた母の階段。幸運にも一度、立ち止まることができたこの踊り場から、来た道をのぼること戻る事はもう無いのだ。


 そんな母に「大丈夫だよ、いいよ、何も心配いらないよ」

 笑顔で寄り添い言葉をかけ続ける事だけが、今できる事の全てかもしれない。


 昔から聡明で優しく、人一倍プライドの高い人だった。

 残りの段を階段でなくスロープにして、出来る限り苦痛を減じ尊厳を保って。


 緩やかに穏やかに くだって行けますように。











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ターミナル・ケアの問題って、永遠の課題ですね。 どこまでしてあげるべきか、どこからはもう無理だと諦めるべきか──。 ご家族の方々がどれだけ頑張っても、いざその時を迎えてしまった後には、『もっと○○し…
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