第3話 マーガリン
日も沈み、二つの灰色の月が昇る頃、酒場兼宿屋のレナトスでは今日も冒険者たちで賑わっていた。
「シエルちゃん! エールを一杯くれ!」
「はーい!」
飛行機が墜落し、この世界にやってきてからおよそ一ヶ月が過ぎた。今はシエルの父親であるイリークさんが経営している宿、レナトスに住み込みで働いている。
この宿は昔、とある老夫婦が経営していたものをイリークさん夫婦が譲り受けたらしい。
残念ながら奥様はシエルを出産した時に亡くなってしまったが、今でもレナトスを経営している。
そして、老夫婦の時からよく冒険者に利用されていたらしく、その冒険者たちが置いていった書物や武器が残っていた。
言葉はそれらを使ったシエル先生によるご教授でほとんど覚えた。
ついでにいろいろとこの世界についても知ることが出来た。
ここはアルカディア、いわゆる剣と魔法の世界らしい。そして異世界ものの定番のように、魔物や冒険者というものが存在する。この宿の主な宿泊者も冒険者である。
冒険者は主に冒険者ギルドと呼ばれる世界中に支部がある一大組織に所属し、そこに依頼されたクエストをこなしていくらしい。
多大な危険が伴うが場合によっては貴族にも劣らない金が手に入るとかなんとか。
そして貴族というように、この世界は中世ヨーロッパと現代が混じってるくらいの文明だ。現代が混じっているというのは魔法を使うことでコンロや街灯が存在するからだ。
魔石と呼ばれる特殊な石をいい感じに使うと電化製品のようなことができるらしい。なんて便利なんだ。
書物の中には魔法の使い方についてのものもあった。火の玉や氷の槍が作り出せるらしい。
しかし、何故か中級編からで、初級編がない。どれも宿泊客が置いていったものだし仕方はないが。
魔法には術式と魔力を使うことは何となく分かったが、問題の魔力がなんなのかが分からなかった。
一度、元々冒険者だったイリークさんから魔法について教えてもらおうと思ったが
「ガハハ! 俺にもよく分かんねえ!」
と豪快に笑い飛ばされた。
どうやら魔法の仕組みは高度で難しいらしく、素人では説明ができないらしい。
一般人にとっての魔力は通常、生活魔法という超簡単な魔法や、魔力を魔石に流すことくらいでしか使うことが出来ず、場合によっては一切使わないという。
未知なる力には興味があったが、残念だ。
魔法に関連して、この世界では宗教色が強い。ただ地球のようにさまざまな宗教があるのではなく、神創教と呼ばれる宗教が信者のほとんどを占めている。
この世界は最高位の神である創造神がつくったもので、魔法も神から与えられたものだという。
神については否定派だが、魔法とかいう摩訶不思議現象があるのでなんとも言えなくなってしまった。
バチッ!
「いって!!」
注文された料理を運んでいると、近くに座っていた冒険者が臀部に向かって手を伸ばしてきた。
もちろん許すはずもなく。
私に断りなく触れるのは友人達かシエル達だけだ。ましてや臀部なぞ、気安く触れるはずがないだろう。
「当店ではそのようなサービスは行っておりません」
「チッ……」
この世界はまだまだ倫理的なレベルは低く、ハラスメントの概念は無い。セクハラは日常茶飯事だ。
本当ならそのふざけた腕を叩き潰してやりたいところだが、私はあくまでも世話になっている宿の従業員、これ以上のことはしない。
だがもしシエルに手を出してみろ。一生冒険者なんかできない体にしてやる。
「ンだてめえ!」
「あぁ!?」
「……はぁ、またか」
突然、怒号が鳴り響く。
これは冒険者同士の喧嘩だ。冒険者は気性の荒い生き物で、二日に一回のペースでこの光景をみる。
「そのエールは俺のだ!」
「これは俺が先に頼んだんだよ!」
傷だらけの鎧を着た一人の大柄な男と一般的な体格をした男が怒声を浴びせあっている。
冒険者は強さが仕事に直結する。そういう奴は総じてプライドが高い。そして強い奴であればあるほど自尊心が強くなり、無駄に喧嘩早い。
どうせ今回もそういうどっちが先かのくだらない喧嘩になったのだろう。
「あの、落ち着いてください! ここは喧嘩をするところじゃなくてご飯を食べるところで――」
「ああ!?」
「きゃっ!」
シエルが喧嘩を止めようとした時、大柄な男がもう片方を押し飛ばす。
しかし方向が悪かった。
吹き飛ばされた男は直撃こそしなかったものの、軽くシエルに当たりその衝撃で転んでしまう。
「失礼」
「うおっ!?」
瞬間、手に持ってたトレイを近くにあるセクハラ男の机に叩くように粗雑に放る。怒りの感情を抑えずに、男に向かって歩いていく。
机を乗り越え、私に気付いていないすらいないほどに興奮している男に近づく。
「強え方が偉いんだよ寄越せ! いいか、俺様は貴様らよりずっと偉いBランクの冒険者、『岩城』のマーガレッ――ガハァッ!!」
男に目掛けて、怒りに身を任せた後ろ蹴りを喰らわす。
金属が打ち付けられたような強い衝撃音を出し、男は机やら椅子やらを巻き込んで壁に打ち付けられた。
何かほざいていたように聞こえたが、そんなもんはどうでもいい。こいつはシエルに怪我をさせた。万死に値する。
男の鎧の中にクッションのようなものは当然なく、衝撃をそのままに受け止めた男は泡を吹いて白目を剥いている。
靴から出たとは思えない衝撃の音と、蹴られた鎧に付いた跡がその威力を語っていた。
「……あっ、待って待って、お姉ちゃん!」
そのまま野郎に制裁を加えようとしたらシエルに止められてしまった。
シエルを傷つけたのだから然るべき罰を受けるべきなのに、寛大な心で許してあげるとは、なんと優しい子なのだろうか。
その意に従い、 金的に一発で済ませ誰かが呼んできた街の衛兵に引き渡す。
散らかった机や椅子を並べ直し、他の客に失礼したと謝罪する。
ゴタゴタしたが、業務を再開するとしよう。
「……お前、あの人のケツ触ろうとしたんだぞ。良かったな、殺されなくて」
「……おう」
この日以降、酒場で一切のセクハラが無くなったらしい。