8 悪役令嬢、婚約者の名前を忘れる
“エドワード”の名前を上げるために、私はアトリエで次の作品に取り組んでいた。前回の妖精の少女の作品の続編として、妖精の少女と魔法使いの少年が人間の街で遊ぶシーンを描こうとアイデアスケッチのノートを片手にし、キャンバスに向き合っていた。
少年にまた会いたくなった妖精の少女は島を抜け出し、地上へ降り立つ。
そして、森で少年と再会した少女は少年に誘われ、街に向かう。
そんなストーリーを想像しながら、昨日までに下書きを終わらしていた。
今日の私は木炭ではなく筆を持ち、キャンバスに色をのせる。
絵の具やキャンバスは日光に弱く傷みやすい。
そのため自分は太陽の光が差し込まない部屋の隅で仕事をしているのだが、窓の外を見ると、雲一つない青い空があった。
ちょうどいい資料ね。
あの青色を参考にして、空を描こう。
私が絵の具のバスケットから青緑のチューブを取ろうとした時、トントンと扉を叩く音がした。
…………どうせ、パパだろう。うん。ほっておこう。
デインであれば可愛らしい声で「姉さん、僕だよ」と言ってくる。
しかし、今聞こえてくるのは「エステル、開けてくれ」と低い声。
そのような人物はパパぐらいしか思いつかない。
数分間ノック音を無視して筆を動かしていると、またトントン。
しぶといわ、パパ。
そんなのだから、私は入れないのよ。
すると、「エステル、殿下のことで話があるんだ」とパパが言ってきたような気がしたので、さすがに開けてあげた。
散らかっているアトリエで話すのは少し気が引けたので、パパの書斎ですることにした。
すぐさまエプロンを外し、パパとともに書斎に行くと、私たちは向き合ってソファに座る。
それでパパの話を聞いてたんだけど……。
「ええと……? パパ、もう一度話してくれる?」
「いいかい? エステル。君の婚約者である殿下からエステルとお茶をしたいとおっしゃっているんだ」
お茶…………王子と?
予想していなかった話題に少し戸惑う。
引きこもると決めた日から、私は王城の方には行ってなかった。
関わることで殺されるルートを通りたくなかったし、行ってもすることは特にないような気がしたので、王城に足を運ぶことはなかった。
でも、ついに来てしまったか。
転生して前世を思い出した当初、王子には警戒していた。何か手紙が来たり、使いを出してきたりしないか気を張っていたのだが、1作品を完成させてからというものの、王子というワードは私の頭から消えていた。
そういや、私って王子の婚約者なんだっけ?
アハハ………忘れかけてた。
「パパ、ごめんなさい。お茶はできないわ」
「えっ!? なんだって?」
だって……あの王子でしょ?
嫌に決まってるじゃない。
私は行きたくない意思を主張する。
「私ね……殿下には会いたくないの」
「これまた……どうしてだい? 君はつい最近まで殿下のことを恋い焦がれていたじゃないか?」
「そ、そうだけど……」
確かにゲーム上でのエステルは王子が好きで仕方なくて、幼い頃から暇さえあれば通っていたような気がする。それもうざったいくらい。
「最近、気が変わったのよ。私は絵、いや作品のことが一番なんだって気づいたの」
「エステル……」
パパは困り果てたような様子を見せる。
「いくら可愛い愛娘の頼みであっても今回は少しね……。実はね陛下からのお願いでもあってね」
「陛下が?」
これまたなんで?
私は「はぁ?」と声を漏らし、こくっと首を傾げた。
「どうも、殿下と君を会わせたがっているようでね……」
…………。
陛下はきっと周りの目を気にしているんだろう。
周りが「王子と婚約者の仲が悪い。さてはステラート家と王家に何かあったのか」とでも思っているとでも考えているんだわ。陛下は星光騎士序列1位で公爵家のステラート家との関係は重視しているから、心配なのね。
私は何もないようにしたいから、王城に行かないようにしていたのに。
ゲーム内の陛下は優秀なエステルをなんだかんだ気に入っていて、エステルを王妃にしようとしていたらしい。
でも、エステルの嫌がらせが見つかると、陛下は呆れてしまい、彼女が王妃になることはなくなった。
それにしても、陛下は息子の王妃の件がどうも少し気になっているみたいね。
きっと、大丈夫よ。
だって、王子にはヒロインちゃんがいるんだもの。
因みになんだけど、王子は一卵性双生児。王位継承権1位の兄の方が私の婚約者らしい。
「えーと、パパ。一応確認なんだけど、私の婚約者である方はエドワード王子とか言う名前だった?」
「えっ!? エステル……。君の婚約者はサクト王子だよ? 一体どうしたんだい!?」
あれ?
王子ってそんな日本人っぽい名前だったかしら?
ゲームの世界だからそんな名前がついているのかな。
でも、弟君は「レン」っていう名前だったような気がする。
全くネーミングがハチャメチャだわ。
「名前を忘れるとは……よほど殿下に会いたくないのだね……」
苦笑いが隠せないパパはそう小さく呟く。
…………そりゃそうよ、パパ。
どんな殺され方、追放のされ方をするか知らないけど、王子のせいでエステルは死んだのよ。
そんな人に好んで近づくわけないわ。
パパはニコリと微笑んで言った。
「でも、案外王城にも君が絵を描く上で参考になることがあるんじゃないかな?」
…………うーん、確かに。パパの言うことは否定できない。
今は描いている作品はあるものの、次回作のことなんてまだ考えていない。しかし、15歳になるまでに名の知れた画家になるにしてはペースが遅い。
王城なら作品が飾ってあったり、王城自体が参考資料になったりするかも。
まぁ、学園でゲームが開始されるんだし、王城に行くぐらいはいっか。
私は「まぁ、行ってもいいかな」とぼそりと答えると、パパは私をいきなり横抱き。
「ああ、お前はやっぱりいい子だ」
「はいはい」
パパが満面の笑みを見せてくる一方で、私は心中王子のことで溜息をつくのであった。