青と、赤と、
アイツの絵の前で泣き出してしまった私に、声をかけてきた人がいた。
アイツが教わっていた教授だった。
教授には、私が、その絵のモデルであることが一目で分かったようだった。
「あの、失礼ですが、柴本啓太君の……。」
「はい、絵のモデルを頼まれた者です。木野崎睦実といいます。」
「そうですか。ひょっとして、完成した絵を見たのは、これが初めてだったのですか?」
「まったくの初めてです。完成するまで見せないと言われて、途中も一切、見せてもらっていなかったんです。」
私の言葉に、教授は溜息をついた。
「柴本君と一緒に来たわけではないようですね。」
「チケットが郵送されてきました。連絡先も分かりません。もう、私には会うつもりがないのだと思います。」
私は、その言葉を自分で口にして、改めて、もうアイツとは会えないのだと思った。涙がまたこぼれそうになった。
「仕方のない男ですね。……木野崎さん、あなたはどうされるのですか?」
「どう、といいますと?」
私には、教授が何を言おうとしているのかが分からなかった。
「こんなことは、本来、教師のすることではないのでしょうけれどね。ただ、惜しいのですよ。彼、柴本君には、たとえ大学を辞めたとしても、絵を描き続けて欲しいんです。彼のこの色は他の誰にも真似できない。彼だけの青だと、私は思っているのです。」
教授は、手帳を取り出して、そこに書かれてあった住所を私に見せた。アイツの実家の住所だった。
「学生展が終了したら、作品は学生本人のもとへ返されることになっているのです。ただ、この絵は柴本君のもとには帰りませんがね。この絵は大学が買い上げることが決定しているので。」
教授の話では、アイツは病気が判明し、留学の予定が流れてしまった後、しばらくの間、デッサンばかりを続けていたという。
「色が生まれてこないと言っていましたね。」
「色が生まれる?」
「そういう感覚らしいのです。描いたデッサン、線画の上に色が勝手に生まれてきて、それを岩絵の具で再現しているとか。」
「それ、絵を描く人だと普通にあることなんですか?」
「まさか。そんなことを言ったのは、少なくとも私が知っている範囲では柴本君だけですよ。」
治療薬が見つかって、再び、アイツの色が生まれてくるようになったということなのか。
しかし、経済的な面で、絵を続けることが難しくなってしまった。
そこで、最後の絵を、私をモデルに描いた。
手紙の内容からは、どうも、色で苦労していたようだったけれど。
「ひょっとしたら、もう勝手に色が生まれてくることは、なくなっているのかもしれません。」
「え? でも、この絵はちゃんと色が塗られていますよ。」
私は、アイツの絵の方へと再び視線を向けながら、教授に反論した。
「木野崎さんは、今日初めて、完成された柴本君の絵を見たのですよね。これ以前の絵は、見たことがないのでは? もともと彼の絵は青い絵だったのです。その青は非常に美しかったのですが、暖色系の色の入り込む余地が無かったのですよ。色を重ねたり、岩絵の具を混ぜて色を作ったりはしますから、まったく他の色を使わなかったわけではないのですが、こんな赤は、以前の柴本君の絵には現れなかった。」
「それは、良くないことなのですか?」
「いや、新しい次のステージに上がったのですよ。実際、この絵に赤を入れるために、かなり苦労していたようですが。今までは、才能だけ、彼の持って生まれた色彩感覚だけで描いていた。それだってすごいことなんですがね。でも柴本君は、これまでにないくらい彼自身の色と向き合ったんじゃないかな? そして新しい色、赤を手に入れた。再び、彼の色、青を復活させた。だからこそ、この絵を最後にはして欲しくないのです。これは、教師としてというより、日本画家、柴本啓太の一人のファンとしての心境なんですよ。」
教授は、眩しそうな目をしてアイツの絵を見ていた。
「この赤は、あなたでしょ? 木野崎さん。今日のあなたの口紅の色だ。」
私は、なんだか腹が立ってきてしまった。
私だけが何にも知らされていなかった。
ひょっとしたら、あの時、制作途中の絵を見せて欲しいとねだらなかったら、アイツは、私に、完成した絵すら見せるつもりがなかったかもしれない。言われてみたら、確かに、この絵以前の絵も見せてもらったことはない。
そして、アイツは手紙の中に書いていた。
サンドイッチを横取りして私を泣かせた、と。
冗談ではない。私はそんなことで泣いたのではない。
そして、アイツは、どうして私が泣いたのか、実はちゃんと分かっていたのだ。
そうでなければ、この絵の私は、この「泣く女」は、こんな表情をしているはずがない。
アイツに一言、文句を言ってやらなければならない。
ずるい、と。
◇◇◇◇◇◇
全身が重だるい。
たぶん、普段使わないような筋肉をあちこち使ったからなのだろう。
とにかく眠かった。
そして、私は、アイツに起こされたのだった。
「あ、時間らしいんだけど。その、……おっぱいの。」
啓太は、こんな時にまでデッサンをしていたようだ。
……何というか、もはや何も言う気になれない。結局、絵からは離れられなかったのだ。
教授は言っていた。
「大学を辞めたって、描き続けている限りは、画家、柴田啓太は死んだりしない。」と。
スペースの必要性と画材の高価さがネックとなって日本画の道は断念したけれど、今は、実家の仕事を手伝いながら、水彩画を描いているのだ。
私は、ゆっくりと体を起こした。
「う、だるいわぁ。」
思わず声が出た。
「おい、大丈夫か?」
そう言いつつ、スケッチブックは持ったままだ。
私たちは、揃って病室を出て、ナースステーションへと向かった。
さすがに、新生児室へスケッチブックを持って行くのは諦めさせた。しかし、スマホはばっちり充電してきているようだった。
すかさず手を繋いできた。あ、ちょっと、恥ずかしいかも。
「あの~。呼ばれたので。」
私は、ナースステーションに向かって声をかけた。
「はいはい。おっぱいの時間ですからね。旦那さんも一緒に来られたの? 仲がいいわね。」
若い看護師は揶揄うようにそう言った。繋がれた手をばっちり見られてしまった。そしてその看護師に先導されて新生児室に向かう。
私たちは指示されるままに手洗いをし、使い捨ての手袋、薄い不織布のガウン、マスク、やっぱり不織布製の給食の帽子のようなものを身に付けて中に入った。
啓太のスマホはビニール袋に入れられた状態での持ち込みだ。
小さな箱のようなベッドに入れられた赤ちゃんたちが並んでいる中、私たちの新しい家族、生まれたばかりの娘もそこにいた。「柴田睦実ベビー」。名札にはそう書かれている。
皮膚がまだ非常に薄く、おそらく血管が透けているため全体が赤く見える小さな娘。本当に赤ちゃんなのだと実感する。手足も小さい。しかしその指にはちゃんと爪があることに感心する。
看護師が、箱から抱き上げて、啓太へと娘を手渡してくれた。
まだ、おっかなびっくりの様子だったが、それでも啓太は小さな体をしっかりと抱いて、幸せそうな顔をした。
「ちょっと、表情がしっかりしてきた感じ? あ、耳の形、俺のに似てる。スマホ、スマホ撮って。」
下手に動くのが怖いのか、啓太は娘を抱っこした状態のまま、ほぼ固まってしまっていた。
私は数枚写真を撮影してあげた。
そして、再び看護師の手を経由して、娘は、今度は私の方へ渡された。
そこで、娘は目を覚まして泣き出す。
「はいはい、おっぱいの時間ですよ。おなか空いたよね。」
―――― 完 ――――