線香花火の終焉
アイツのスケッチブックに描かれた自分の姿を見てしまって以来、私は、アイツと逢うのが少しつらくなった。
なんとなく、アイツが口にした昔話が頭から離れなくなっていた。
絶対に見てはいけなかったのに……。
アイツは、知ってか知らずか、相変わらずだったが、私の方が距離を感じるようになっていたせいか、それが、態度にも出てしまうようになっていた。
言葉が続かず、会話も途切れがち。
どうして、こんな風になってしまったのだろう?
「……。」
「え?」
「気分悪いの?」
「そんなことないよ。ただ、ちょっとぼっとしてた。」
「そう。あ、俺、今日は帰る。大詰めになってるんだよ。最終段階ってヤツ。あと、しばらくは来れないと思う。」
さっきから、やっぱり、アイツは私のデッサンを続けていた。
しかし、私が上の空になっているのに気付いてしまったのか、不機嫌そうになり、道具を片付けて、さっさと帰って行った。
引き留めることはできなかった。
部屋の温度が急に下がった気がした。
寒くてたまらなかった。
季節は秋に変わっていたが、まだ、それほど実際の気温が下がっているわけではなかった。
しかし、私の周囲だけ、秋の気配が深まった気がしたのだった。
そして、それまで、時間が短くなったとはいえ、割とマメに訪れてたアイツが来なくなって、1週間が経った。
それは唐突で、しかし、なんとなく嫌な予感として私に纏わりついていたものだった。
アイツから届いた1通のメール。
それは別れを告げるメールだった。
どうしていいのか分からなかった。
私はただ、おろおろとするばかりで、具体的なことは何も頭に浮かんでは来ず、ただ仕事だけはおろそかにできない状況であったがために、アイツとの事は、完全に後回しとなった。
アイツからのメールに対して何か送るべきだとも考えたが、まったく文面が出てこなかった。
そうこうしているうちに、私の番号を着信拒否に設定したらしく、アイツとは本当に連絡が取れなくなってしまった。
私は、またもや、アイツとの繋がりを急に失ってしまうという事態に陥ったのだった。
しかも今回は、アイツの方からはっきりと断ち切られたのだ。
前回のようなすれ違いとは違う。
線香花火の小さな玉はぽとりと落ちた。
私は絶望するしかなかった。
◇◇◇
その封筒が届いたのは、アイツから別れを告げるメールが届いてから2か月程経ってからだった。
中に入っていたのは、アイツの大学主催の学生展のチケットが1枚。そして、アイツからの手紙だった。
拝啓 睦実さま
今更、こんな手紙を送ることをお許しください。
そして、あんなメールで別れを告げるような真似をしたことも。
どうやって、区切りを付ければよいのか、自分でもよく分からなくなってしまったのと、直接会って話したら、決心が鈍ってしまうのが分かっていたので、ああするより仕方がなかったのです。
大学を辞めました。
というか、辞めること自体はもう1年以上前に決めていたことだったのです。
入院して新しい薬が自分に合っていることが分かったけれど、非常に高価い薬で、しかも、入院していた時点では、研究名目、治験っていうんだけど、お金は開発費から出してもらえてて、タダだったのだけれど、薬が完成しちゃった今、薬代はしっかり払わなきゃならなくなっています。
高額医療に該当するんで、結局、最終的には戻ってくる分もあるんだけどね。
自分でこんなことを書くのもあれなんだけれど、もとは割とお金の方は余裕があるお坊ちゃんだった。
けど、病気が見つかっちゃって、その上、実家の方がいろいろ難しいことになっていて、親としても、モノになるかどうか分からない絵描きの卵なんて養っていられなくなっちゃったんだよね。
治験中は、どっちにしろ、治療費がタダになるのと、実家の方では受けることのできない治療だったから、その期間中は大学の方も、何とか退学を待ってもらってたんだ。
治験が長引いてくれないかなんて、しょうもないこと考えたりもしてた。
でも、そういうわけにもいかないのは分かってた。
実家に近いところにある地方大学の病院も治験に参加して、そっちで治療が可能になった時点で、もうカウントダウンが始まってたんだ。
だから、最後に、これが自分の作品だって言える絵を残したくて探してた。
睦実を見つけた。
俺、ずっと長いこと、世の中で最も美しいのは青色だって思ってた。
青は至上の色で、世界中の青を見たくて、青い絵を描いたあの巨匠に追い付きたくて。
だけど、口紅の赤もいいなって思ったんだ。
睦実の口紅の色が忘れられなかったんだ。
女を泣かせるのは最低だって思ってたけど、結局、睦実のこと泣かせちゃった。
サンドイッチを横取りしたっていう、巨匠とは似ても似つかない理由でだったけど。でも、その泣き顔を可愛いと思ってしまったから。
だから、最後の絵は、睦実の泣き顔を想い出して描いた。
なかなか決まらなくって、何回もデッサンとか付き合わせちゃったけど、本当にやってたのは色の方。
青と赤をどういうバランスで入れようか、そんなことずっとやってた。
それと、これが最後だって決めてたから、まだ終わりにしたくないっていう気持ちも出てきてしまって。
絵が完成しなければ、まだ、睦実と一緒にいられるって思ってた。
絵が完成しなければ、まだ、自分は画家でいられるとも思ってた。
そう信じたかった。
でも、もう時間が無かった。
未完成のまま退学するのは絶対に嫌だったから。
ごめん。絵の方を優先した。
本当に最低だと思う。
巨匠のこと悪く言えなくなった。俺も最低だ。
絵は完成させました。
完成したら見せる約束だったから、もし、睦実が、見てやってもいいって思ってくれるなら、見てください。
教授が、特別に、退学前に描いた絵だからって、展示を許可してくれました。
学生展のチケット同封します。
もう忘れたい、俺の描いた絵なんか見たくないって思ったら、捨ててください。
実家に戻って治療を続けながら、家の手伝いをすることになってるので、そこは心配しないでください。
随分と心配かけちゃって、いろいろ気遣ってもらって、それはすごく分かってた。
睦実の大事な時間を奪ってしまって、ごめんなさい。
でも、大好きだった。
別れたくなかった。
ごめん。
アイツの手紙は、そこで終わっていた。
消印は都内のもの、そしてアイツの実家の住所は書かれていなかった。
翌日、私は、アイツの母校の主催する学生展に出かけた。
退学しちゃった場合も母校扱いでいいのか、よく分からなかったが。
大学の近くにある美術館の展示室を借り切っての学生展は、油絵、日本画、リトグラフや版画、彫刻や工芸、さらにデザインや映像インスタグラムと多岐にわたっての展示だった。
作品数が多いのはやはり油絵で、どういう基準なのか、2つ作品を出品している学生もいるようだった。
そして、私は、日本画の並んだ展示室へ進んだ。
すぐに、その絵は分かった。
青い絵だった。
全体が淡い優しい青に包まれていて、しかし、日本画の命とも言える線はしっかりとしていた。
そう、私は泣いていた。
真っ青な私。
唇は、この口紅の色だった。私は、思わず唇をおさえそうになる。
でもその泣き顔は、何かを奪われた悲しみによるものではなかった。
泣き顔だけど、それは幸せな絵だった。
それは、巨匠の絵とは別の「青い絵」であり「泣く女」だった。
アイツの目に、私はこんな風に見えていたんだ。
世界中の全ての人が、「泣く女」といえば彼の絵を思い出したとして、そして、それはそういう物だと分かっているけれど、私だけはきっと、アイツのこの絵を想い出すだろう。
私は堪らなくなってしまった。
アイツの絵の前で。
私は、ただ立ち尽くし、そして嗚咽した。