見てはいけなかったスケッチブック
「夏の夜の恋物語企画」終了に伴い、15000字以内の字数制限の条件により、一旦、完結とした本作品の続きを投稿します。
なお、第4部分(本編部分)までは、企画参加時点のままです。改稿はありません。
アイツは、私の部屋に、スケッチブックと色鉛筆、あるいは箱に入った絵の具のセットを持ってくるようになった。
絵の具のセットは、私が初めてみるタイプで、紙箱の中に、小さな四角い固形絵の具が入ったお皿がきれいに並べられたものだった。顔彩と呼ぶらしい。
それらを持ち込んで、私をモデルに絵を描くようになった。
入院していた時にもそうだったが、特別なポーズを取らされるわけでもなく、私はただ、アイツと話をしているだけだった。
アイツは、何枚も同じようなデッサンを繰り返し、色を付けては、難しそうな顔をしていた。
納得いく絵になっていないのだろうか?
「モデルが悪いのかしら?」
私がそう言って、膨れてみせると、アイツはきょとんとした顔をしてみせた。
「あ、そうじゃないんだ。本画に入る前に、何通りか下図を描くんだけど、なんていうか、うまく再現できてないんだよなぁ。」
アイツが描くのは日本画らしい。あの彼に心酔してスペインに留学しようとしていたことを考えたら、意外な話だった。
「本画ってことは、大学の課題なの?」
と訊くと、アイツはあっさり肯定した。
「あ、モデルになってもらうの事後承諾になっちゃったな。駄目? いいよな? 駄目?」
今更のように訊ねてみせるが、私が拒否するとは、まったく考えていないのが見え見えだった。
「ねえ、本画ってどれくらいの大きさなの? ここで描くの?」
私は、ひょっとして部屋がアトリエ代わりにされてしまうのではと心配になった。
すると、アイツは即座に否定した。
「ここじゃ無理。日本画って仕上げるまでに結構時間がかかるから、板を床に置きっぱなしにしとかなきゃなんない。ここに板を置いたら、普通の生活できなくなっちまう。俺、それは困るもん。」
と言い、私の体を引き寄せた。
「したい時にできないの、困るじゃん。」
耳元で怪しげなことを囁いてみせたので、私は、動揺する。
「も、もう馬鹿!」
「あはは。だってさぁ、大事なことじゃん。」
アイツは、道具を片付け始め、そして、不意に真剣な顔をしてみせたのだった。
「大事な作品になるんだ。だから、俺も本腰を入れないとな。本画は、大学の方で描くことになるから心配いらない。ちょっとここに来る頻度は減るけど、でも、大丈夫だから。」
いったい何が大丈夫なのか、私はアイツの食生活が早くも心配になってきたのだった。
絵を描き始めると時間経過が判らなくところがあるようで、私がそろそろ食事の支度をしないと、と言うと大抵、まだそんなに時間は経っていないはずだと主張するのが常。
証拠品としてスマホの画面を示すと、信じられないといった顔をする。
大詰めになったら大学の方へ籠ることになるのかもしれない。
きちんと自宅と大学の間を行き来し、食事や睡眠やその他ちゃんとした生活を送ることができるのか?
どうも、その辺に関しては無頓着な感じが窺えて、信用できないのだ。
「差し入れしようか? その、美大って部外者が入っても大丈夫?」
私は提案しつつ、探りを入れてみる。
「駄目。いや、禁止されてるっていうんじゃないけどさ、美大って変なのが結構いるんだよ。いきなりデッサンさせろとか、モデルになりませんか? とか。絶対、目付けられるから、来ちゃ駄目。」
「それ、誰かさんも、だよね。病院でお見舞い客にデッサンのモデルになれって……。」
「うわっ、しまった。ブーメランかよ。あ、でも、そういう所だから、駄目。」
アイツは、私のスペースにはするりと簡単に侵入してきて、今も居座っているくせに、自分のテリトリーには簡単に足を踏み込ませようとはしないのだ。
ずるい。
「シャワー借りていい? そのさ、今日は泊っても……。」
アイツは、確認するように言うが、どうせ最初っからその気だったに違いない。こういう時はしっかり準備してきているのだ。その、色々と……。
「……いいよ。バスタオル、いつもの所にあるから使って。」
私も、ちゃんと準備していたのだった。
◇◇◇
私は心配していることを、正直に話した。
アイツは、知っている私の目から見ても健康そのもののように見えるのだが、実は病気持ちだ。
新しい薬が合っていて体調は良い、と聞いているが、無理はできないとアイツ自身が言っていたのだ。
作品制作のために、たとえば大学に何日も泊まり込むようなことになったら、生活リズムは簡単に崩れてしまうだろう。
何でもかんでもマヨネーズをかけて食べてしまうくらいだ。食事だってどうなるか? 知れたものではない。
「心配し過ぎ。ちゃんと気を付けるからさ。」
アイツは軽く言うが、私は安心できない。
こういうことを、しつこくするのは良策でないのは解っている。
私だってそれなりに経験している。男というのは、都合のいい時には母親の役割を求めてくるくせに、気が乗らない時には鬱陶しいと機嫌を悪くするのだ。
猫みたい。
私は、それ以上続けるのは諦めた。
唇が塞がれてしまい、そして、何もかも、考えられなくなってしまったから。
ずるいよ。
それでも、それ以上は言葉を続けられなかった。
もっと言いたいことはあるのに。
伝えたいことが溢れてしまいそうになるのに。
「泣いてるの?」
アイツが、心配そうに言った。
いつの間にか、涙が零れていたらしい。
「え? おかしいな。大丈夫だよ。」
私は、逆に心配されているのがおかしくて、変な気分になったのだった。
そして、部屋の外では、いつの間にか雨が降り出していた。
ぽつぽつとガラス窓に当たる雨音が、妙に響いてくるのを、どこか不思議な感じに聞いていた。
私は、この時既に、何かが、おかしいと気付いていたのかもしれない。
しかし、はっきりと自覚していたわけでもなく、結局、明け方までただ、うつらうつらとしていたのだった。
◇◇◇
アイツは、宣言通り、大学の方で本画制作に入った。
そのため、私とアイツが逢える時間も以前よりずっと短くなってしまった。
それでも、アイツは、相変わらず、私の部屋に道具を持ってやってきては、デッサンを繰り返し、顔彩の色を付けて何かを試していた。
私は、いったいどんな絵になっているのか知りたくてたまらなくなり、アイツに、スマホで、制作途中の絵を撮ってきて欲しいと頼んでみた。
「それは、完成してからのお楽しみ。」
アイツは、あっさりと、しかし断固として拒絶したのだった。
「えぇ、ケチだなぁ。」
「そんなこと言うなよ。それにさぁ、作業中は決して見られちゃ駄目なのよ。ほら、自分の羽根を抜いて機織りしてたところを見られて、お別れしなくちゃならなくなった話があるじゃん。」
「何それ? 羽根抜いてるの? 飛んでっちゃうの?」
「いや、冗談だって。だいたい、恩返しするようなことしてもらってないし。」
アイツは、わざと軽い口調にしているが、目は笑っていなかった。完成するまでは、私に絵を見せる気がないのは、本気のようだった。
うまく進んでいないのだろうか?
本画制作に入ってからも、何度もデッサンを繰り返しているのは、なぜなのだろうか?
アイツの隙を見て、チラリと覗いたスケッチブックに描かれた私は、なぜか青い色で塗られていた。
そのため、表情の冴えない、何か陰鬱とした顔に見えた。
ただ、唇だけが赤く、それが目に刺さるような感じ。
アイツの目には、私はあんな風に見えているの?
なんだかショックだった。
決して美人の部類に入るような容姿ではないと、自分でも分かってはいる。
けれど、せめて、もう少し……。
私は、決して見てはいけないものを見てしまったのだった。