レタスグリーン
結局、何の情報も得られず、そしてアイツに会うこともなく、まもなく1年が過ぎようとしていた。
私はその日、朝から、共同開発を予定している会社との打ち合わせがあった。幸いなことに大きなトラブルもなく、正午までに、次の日程の擦り合わせを済ませることもできた。
大きな荷物も無いので、移動は基本的に電車である。
そして、少し時間に余裕があるようだったので、駅前のパン屋に駆け込んで昼食を物色することにした。
ここのパン屋は、サンドイッチの具がたっぷりで、お得感があるのだ。
卵サンドも良いし、ツナサンドも良い。
しかし、なんといってもBLTサンドだ。
ベーコンはもちろんのこと、トマトもレタスもたっぷりで、しかも、レタスがシャキシャキなのだ。
いつも並べられると、すぐに売り切れてしまうそれは、最後の1つしか棚になかった。
当然、即、手を伸ばす。
が、同時に伸びてきた手が、私のBLTサンドを掻っ攫っていったのだった。
私は、手の主の方を振り返る。
そいつは、こちらにはまったく気付いていないかの如く、さっさとレジに向かって歩いていってしまった。
なっ。
ただ、電車の時間に遅れるわけにもいかない。
口惜しかったが、隣のツナサンドと卵サンド、そして、ざく切り胡瓜のたっぷり入ったクリームチーズサンドを引っ掴み、私もレジに並んだのだった。
私は、ショックだった。
BLTサンドが目前で掻っ攫われたこともだが、それ以上に、それが、アイツだったからだ。
アイツは、まったくこちらの方を見ようともせず、会計を済ませるとさっさと店の外へ出ていってしまった。
私は、動揺して会計の際にも、小銭をうまく掴めずにもたついてしまい、余計に腹が立った。
アイツは、私の顔など覚えていなかった。
それが無性に口惜しくて、情けなくて、涙が出そうになった。
さっさと会社に戻らなければ、という思いが、何とか、私を動かす。
店のドアを開け、私は外へ出て、駅の方へ向かったのだった。
「それ、全部食べるの? すっげ~な。」
歩き出した私の後ろの方から声がした。アイツの声だった。
振り返った私に向かって、アイツは、これ見よがしにBLTサンドの入った袋を持ち上げてみせた。
「気付いてたの?」
「あったりまえじゃん! なのに、こっちに全然気が付かないだもんな。ムカついたから、こいつは俺が貰っとく。」
「……ふざけんな。」
「え?」
「それは貴重なBLTサンドなんだよ。いつもすぐに売り切れちゃうんだから。嫌がらせとか、酷い……。」
「ちょ、ちょっと、嘘だろ? 泣くことないじゃん。」
私はもう涙を堪えることができず、みっともなく泣いてしまった。
駅へ向かう人たちが、こっちをチラチラ見ているのにも気が付いてはいたが、止まらなかった。
アイツは、困った顔をした。
「分かったよ。やるよ。でもその代わり、そっちのもくれよ。俺だって腹が減ってるんだから。」
アイツは、なぜ私が泣いたのか、まったく分かっていなかった。
◇◇◇
「なぁ、やっぱり嫌だったのか?」
会社の最寄り駅から近くの公園に移動して、私とアイツはベンチで昼食を摂った。
お互いが買ってきたパンを分け合って食べながら、アイツは唐突に、訊いてきた。
「もういいよ。ちゃんとBLTサンドも食べれたし。それにこっちのクリームチーズサンドは、最初買うつもりなかったからね。うん、これ、イケるわ。ざく切り胡瓜、最高!」
私は、いつまでもBLTサンドの恨みを持ち続けるほど、執念深くはない。そのことはちゃんと表明しておかないと。
すると、アイツはあからさまにガッカリしたような顔をした。
「いや、確かに旨いけど。胡瓜ってこういう感じの塊だと、結構、存在感あるのな。俺はBLTサンドより、こっちの方が好きだ。あ、でも、もう一味欲しいかな。マヨネーズが足りない。」
アイツは、クリームチーズサンドの方をすっかり食べてしまった。
なんだか納得がいかないといった顔をしているのが可笑しくて、私は吹き出してしまった。
「クリームチーズにマヨネーズを足したら、しょっぱすぎるでしょ。」
「そんなことないって。」
まさか、こんなタイミングで、こんな風にくだらないやりとりをすることになるとは、思ってもみなかった。私は、もういい加減、会社に戻らないといけない。
私が立ち上がると、アイツは、私の腕を掴んだ。
「また会える? ……その、花火大会あるじゃん。」
私は慌ててスマホを取り出し、連絡先を交換したのだった。
◇◇◇
今年の花火大会も、昨年とまったく同じ日に予定されていた。
つまり、ちょうど1年ということだ。
花火大会の夜の前に、私とアイツはもう1度会う約束をした。
この1年の間の状況について、特にアイツの健康状態について、ちゃんと落ち着いて訊いておきたかったからだ。
アイツはアイツで、私に訊きたいことがあると言っていた。
そんなわけで、食事がてら報告会という算段になった。
店は、アイツが行きたいと言ったカジュアルレストランに決めた。
2人ともが、行ったことのない店だったので、少し不安があったが、同僚に訊ねたところ、悪くないんじゃないの、という答えだった。
合コンでも利用したことがある、と言っていた。
まぁ、つまり、さほど格式が高すぎるわけでもなく、さりとて白けるようなショボい店ではない、ということだった。
私は、あまり気合が入り過ぎているようには見られたくなかったので、当日の服は、おとなしめの淡いグリーンを基調としたワンピースに濃い目のブラウンのボレロを選んだ。口紅は、引き出しの中に入れっぱなしにしておいた、あの日のものを引いた。
「まさか、覚えてはいないよね。夜で暗かったし……。」
私は、鏡の中の自分に向かって呟いた。
店に着くと、既にアイツは席の方に居た。
私が手を振ってみせると、アイツも片手を上げてみせた。
席に着いた私とアイツは、さっさと本日のおすすめメニューで注文を済ませて、話し始めた。まるで、この1年間連絡が付かなかったのが嘘であるかのように、特別感のない会話をし続けた。会社であったこと、同僚の間で流行っている動画コンテンツのこと、今夢中になっている漫画のこと、受ける予定の資格試験のこと。
アイツの方は、大学のこと、バイトの先輩の話、最近見た映画のこと、今読んでいる小説のこと。
病気のことを口にして良いのか、正直、分からなかった。一番知りたいことではあったが、それは、あまりに個人的すぎることで、そして、命に別状は無いとは聞いていたけれど、留学を諦めたのだ。決して軽いものではないだろう。
「訊かないんだな。」
食べ終わった皿が片付けられ、新しい皿が置かれるタイミングで会話が一旦途切れた後、アイツが呟くように言った。
「病気のこと。まぁ、そうだよな。」
「元気そうだから……。」
私の声は、自分でもはっきり分かるくらい小さく、そして途切れた。
「元気だよ。見ての通り、食欲もあるしさ。まぁ、通院は続けてるけどね。今は大学の近くの方の病院に変わってる。入院時の主治医がそっちに異動になったんだ。医局人事とかってヤツ。」
アイツは早口にそう言うと、新しい皿の上に盛られた肉料理を一口食べた。
「うん、美味い。この店当たりだね。どうしたのさ、食べなよ。」
促された私も、ナイフで小さく切った肉を口にする。
味は、なんだか、よく分からなくなった。
「なにか質問ある? 具体的な病気の話はさ、ちょっとこういう店ではね……。でも、新しい薬が俺には合ってたみたいなんだ。今、体調的にはすごくいい。1つ問題があるとすれば、めっちゃ高価い薬なんだわ。高額医療とかってことで返ってはくるんだけど、留学は完全に無理になった。金銭的にね。」
「質問無ければさ……。俺の方から質問してもいい? その、訊きたいことがあったんだけど。」
アイツは、私がただ黙って聴いているだけであることに、焦ったように見えた。
「うん。」
私は、どうにか返事をする。さっきから、私の皿の上の料理はほとんど減っていない。
「あ、あのさ、今日付けてる口紅、あの日に、あの去年花火を見た日に付けてたのと同じヤツ?」
アイツは、ものすごく真剣な目をしている。
覚えてたんだ。
私は、嬉しいという気持ちと、なぜこの口紅にしてしまったのだろうという後悔の気持ちがないまぜになるのを感じる。
「よく分かったね。」
私は、そう答えた。
「これでも色に関しては敏感なつもりだから。俺、一応、現役の美大生なんだぜ。」
アイツは、なんだか急に嬉しそうな顔をした。色の話題を振っておいて、間違っていたらプライドに関わるのだろう。なんだか子供っぽい感じがして可笑しかった。
そう、アイツにとっては、それ以上でもそれ以下でもないのだ。私の口紅の色など……。
そう思ったら、急に悩むのが馬鹿馬鹿しくなった。
私は、食事を再開する。せっかくの料理だ。楽しまないと。
「だったらさ、だったら、その、期待してもいいのかな? ちゃんと意識してくれてるって思っていいのかな?」
アイツは、なぜか、視線を斜めにずらしている。
質問なのか? これ。
何を言われているのか、さっぱり分からない。