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花火と口紅

私は祖父から頼まれて、病院の1階にある売店へテレビ用のイヤホンを買いに向かった。自宅から持ってきてもらったイヤホンはどうも調子が悪いようで、新しいのが欲しいと言われたのだ。

病室へ戻るため、渡り廊下を歩いていた時に、ちょうど、休憩スペースの所に座り込んでいたアイツと目が合った。


「「あ。」」

私たちは同時に声を上げた。

アイツの目は真っ赤だった。


私は見てはいけないものを見た気分になり、顔をそむけた。

「えと、ごめんなさい。」

私の口から出てきたのは、またもや同じ言葉だった。


「俺も嫌いだ。」

アイツは俯いて、小さく言う。


「え?」

私は再びわけが分からなくなった。


「俺も嫌いなんだ。あの画家。」

「じゃあ、どうして見に行ったの? わざわざ入院前に。図録だって買ってたじゃない。病院にまで持ち込んでるくせに……。」

私は、止められなかった。

頭の中では、駄目だという声がするのに、いらいらとする気持ちが止められない。


しばらく沈黙が続いた。

そして、アイツは深い溜息を1つ、ついた。


「最低なんだ。知ってるか? あ、きっと知ってるよな。だって、嫌いになったのは、人間としては最低なヤツだって知ったからだろ?」

「うん。最低だよね。何人も同時に付き合った挙句、自分の前で喧嘩させてさ。泣きわめく様子を観察して絵にしたんでしょ。」

「そうさ。婚約者と別れたら結婚してやるとか言って、実際に相手が婚約者と別れた時には更に別の女と付き合ってた。周りにいるヤツ皆が不幸になるんだ。何人も自殺してる。」

私とアイツは巨匠の悪口を言い合った。


なんだか、すっかり馬鹿馬鹿しくなってしまった。


「俺さ、スペインに行くはずだったんだ。」

アイツは窓の外を見ながら、そう言った。

「だけど病気が分かって、行けなくなった。スペインに行ったら、美術館巡りして、絵もいっぱい描いて、俺も画家になるんだって思ってたけど……。」


私は何も言えなかった。


「あ~あ、最低なヤツなのにな。何で才能だけは溢れるくらい、溢れて溢れてどうしようもないくらいあったんだろう? おまけにすっげ~モテてさ。分かってるだけで10人女がいたって。そんでもって体力もあってさ、長生きしたんだよな……。ちくしょう、何で、何でなんだよ……。」

途中から、その声は涙声に変わっていた。


しばらくの間、2人黙って隣り合ったまま座っていた。

いつまでも戻ってこない私を、祖父が心配しているだろうとは思ったが、その場を黙って離れることもできなかったのだ。


「あのさ……。」

突然アイツが沈黙を破った。

「お祖父さんが退院したら、もう病院へは来ないよな。」


私は、検査結果が明日には出ると聞いていたから、それをそのまま伝えた。


「なぁ、デッサンのモデルになってくれない? 溜息ばっかりついて、せっかくの楽しみを台無しにしたお詫びにさ。」

アイツは、少しいたずらっぽく笑ってみせた。


「楽しみだったの? 嫌いな画家なのに。」

私もちょっと笑った。


「楽しみでしたよ。本場に行ったら、絶対見に行くつもりだったんだから。いつか、いい薬ができたら、ちゃんと治して、スペインに行って、そんでもって、いっぱい本物を見るんだ。すっげ~たくさん作品があるはずなんだ。……俺、まだ死なないし。先生も言ってたけど、命に関わるような病気じゃないんだ。ただ、いろいろ制約は出てくるんだけど。ストレスになるような事は避けなきゃなんないし、薬の副作用とかも出るみたいだし。」


私とアイツは2人で病室に戻った。

結局、デッサンのモデルになる約束をさせられた。

祖父は、何か言いたげだったが、その場では口にしなかった。


◇◇◇


祖父が無事退院し、そして、私は2回、アイツの病室に行ってデッサンのモデルになった。

モデルと言っても、ただベッド脇に座ってアイツと雑談しているだけだった。

アイツは、スケッチブックにデッサンしながら、行くはずだったスペインの話を聞かせてくれた。

留学は駄目になったけど、絵を諦めるつもりはないようだった。


新しい薬の効果が確認できてから退院になる予定らしく、採血がやたら多いとこぼしていた。

右の腕にも、左の腕にも、採血の跡があった。


「明日さ、少し遅くなっても大丈夫?」

帰り際にアイツはそう訊いてきた。


「夜、花火大会だろ。ここの病院の上の階だとよく見えるらしいんだ。」

「面会時間過ぎたら、駄目でしょ?」

「バレなきゃいいじゃん。どうせ、時間外の出入り口から出ることはできるんだし。」


まったく子供じみた提案だったが、私は拒否できなかった。

翌日の夕方、仕事が終わると、私は、ロッカールームで着替えを済まし、新しい口紅を引いて病院へと向かった。


アイツは、病室で夕食を食べた後に上の階の渡り廊下へ行くから、売店で何か買って別の場所で食べておけと言った。私は、新しい口紅が気になって、結局何も食べなかった。

面会時間は19時で終了であり、その時間には一斉放送が帰宅を促していた。

しかし、ちょうどその19時から花火大会が開始となったため、私以外にもそこそこの人数の見舞客と入院患者が渡り廊下に残っていた。

病院側もその日だけは、多少の目を瞑るのだと、訳知り顔に誰かが口にした。


窓は閉まっていたが、打ち上げの際の音は聞こえた。

そして、夜空に大輪の花が続けて開くと、どこからともなく歓声が上がった。

階段を通じて下の階からも、歓声は聞こえてきた。

渡り廊下だけでなく、病室の窓から見ている患者も、点滴台を引きずって正面玄関にまで行って見ている患者もいたらしい。


その夜は特別だったのだ。


やがて終わりは来る。

どうやら最後の花火が打ち上げられたらしいと分かった直後に、渡り廊下の両側に、他の階の病棟から来たとおぼしき看護師たちが登場し、そして年配の1人が宣言した。

「さぁ、自由時間は終了ですよ。消灯時間は守っていただきますからね。直ちにご自分のお部屋へお戻りください。」


私とアイツも、ぞろぞろと移動する波に付いてその場を離れたのだった。

アイツは、そのまま病室に戻ろうとはせず、時間外口へ向かう私に付いてきた。

廊下は薄暗かった。

そして、その薄暗い廊下の更に奥まった場所の自動販売機の横まで来た時、アイツは、私の体をぐいと自分の方へ引き寄せた。


何が起きたのか、私は、直ぐには理解できなかった。

ただ、唇に何かが触れた気がした。


ぼ~っとなった私に、アイツは言った。

「綺麗な色の口紅だな。」


私は、その後どうやって自分の部屋に帰ったのか、いまだに思い出せない。

アイツとは、それ以後、会っていなかった。


◇◇◇


会社にトラブルが起こったと判明したのは、その翌日だった。

新商品として売り出す予定だった菓子の、包装パッケージの印刷を請け負った工場がボヤ騒ぎを起こしたのだ。印刷の機械の油に引火したらしく、ラインも止まってしまったという。

代わりの工場の手配だの、既に押さえていた倉庫への連絡だの、問屋や小売への説明と穴を開けることへの謝罪だの、そして件の工場から途切れ途切れに伝わってくる情報の取りまとめと各部署への報告だのといった想定外の仕事のために、誰も彼もが慌ただしく動き、私も慣れない業務を分担させられて、連絡を取るどころではなかった。


そもそも、デッサンモデルの件もその場の口約束だったし、花火を見た後の約束は何もしていなかった。連絡先さえ交換していなかったのだ。


ようやく仕事の方が平常に戻ってきた後、病院を訪ねた時には、アイツはもう退院していた。

親戚でもない、友人ですらない私が、病院から個人情報を引き出せるはずもなく、結局、アイツがその後どうなったかも分からないままだった。


ただ、曖昧な記憶に残る唇に触れた感触と、最後に聞いた言葉、そして、たった1回だけ使って引き出しの中へ仕舞ったままにしている口紅だけが残された。


私は、どうしたいのだろうか?

もうすぐ1年が過ぎようとしている。


実は、どこかでまた会えるのではないかと、淡い期待があった。

だから、時々、用も無いのに遠回りをして病院の売店を利用したり、会計や総合受付の辺りを覗いたりしていたし、あの美術館にも、特別展がない期間でさえ、毎月行った。当然、喫茶店で紅茶を飲んだ。

美大生らしいと聞いていたので、上野辺りにも出かけてみたことがある。


しかし、結局、アイツの姿を見ることはなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 彼の姿がくっきり見えてきて、ますます引き込まれています。 行くはずだった留学にいけない辛さ。悔しくて泣けるほどまっすぐに純粋に好きなものがある、彼の魅力が見えてきます。 画家の才能に対する…
[良い点] 病院側もその日だけは、多少の目を瞑るのだと、訳知り顔に誰かが口にした 病院の雰囲気と特別な日の説得力。アイツが衝動的な性格では無い。と思える箇所 [一言] とりあえず 1話だけ と思っ…
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