去年の夏の話
夏の夜の恋。
まるで、線香花火のような、危ういバランスと、じれったいような微かな動きと、呆気ないお終い。
そんなのは、テレビドラマか、映画か、都合のいい恋愛小説か。
現実とはかけ離れた、少なくとも私の現実とは、まったく別世界の話だと思っていた。
だけど、気付いた時には、私はその線香花火に振り回されていた。
あれは去年の夏のことだった。
たまたま貰ったチケットがあったので、私は1人で平日の美術館を訪れた。
急に体調を崩した同僚の代わりに有休の予定を変更、その代休だったのだ。
美術館に行くこと自体は珍しいことではなく、私は、市内にある複数の美術館・博物館、更にはデパートの美術関連の催し物を割とこまめにチェックする方だった。
そういう私の趣味を知っていた友人が、好きそうだから、という理由でチケットを譲ってくれたのだが、実はその美術展のメインの画家は、あまり良い印象がなかった。
有名ではある。
それどころか、およそ、彼の名を知らない日本人はいないのではないかと思えるほどだ。
日本では、彼とゴッホの美術展だけは集客数が見込めるということで、どこの美術館もやりたがると聞いたことがある。
私も子供のころは、むしろ、そのユニークな作品が好きだった。
けれど、彼の人となりについて、ある美術番組で知ってからは、すっかり醒めてしまったのだった。
人間としては最低な男だと思った。
そして、なんだかその作品も、下品で俗悪で偽善的なものに思えるようになり、少なくとも自分でチケットを購入して、彼の作品を見に行くことはなくなった。
だから、本当に久しぶりに彼の作品を目にしたことになる。
私は、美術館の入口でチケットを渡し、半券を返してもらって会場内に入った。
平日の美術館ではあったが、彼の人気はやはり高く、それなりに混んでいた。
並ばなければならないほどではなかったが、これが例えば、デュフィやヴラマンクがメインの展覧会であったなら、平日に来場する人数はもっとずっと少なかったに違いない。
展示室の自動ドアが開くと、溜まったひんやりと冷たい空気が流れ出るのを感じた。
中は、作品保護のため、薄暗かった。
展示室にいた先客が、少しずつ奥の方へと移動していく速度に合わせ、私も作品を見ていった。
見覚えのある作品もあった。
作品についての感想を呟く低く小さな声が時折聞こえてくるほかは、移動の時の靴の音と衣服の擦れる音、それぐらいしか耳には入ってこなかった。
私は、この展示室内の独特の雰囲気、小さな音が好きだったりする。
で、肝心の作品なのだが。
実に、らしい作品だった。
彼の作品と言われたら、おおよそ多くの人間が想像するような、らしい作品。
そういう、らしい作品が、これでもか、これでもかという具合に並んでいた。
初期の、まだ、らしさが確立されていなかった時期のものも数点、展示されてはいたが、圧倒的に、らしい作品の群れだった。
貰ったチケットとはいえ、あまりに駆け足で通り抜けるのも、もったいないと思ってしまうのは、我ながら貧乏性だなとしか言いようがない。
そして、他の観覧者にも迷惑だろう。
私は意識してかなりゆっくり見てまわった。小一時間ほど経過していたと思う。展示室を抜け、明るくなった先の即売所をざっと見て、でも図録を購入する気にはならなかったので、そのまま館内の喫茶店に向かった。
私は、その美術館に行くと、いつも喫茶店で紅茶を頂くことにしていた。
そうすることで、見てきた作品の余韻に浸るのが好きだからだ。
貰ったチケットで、好きではない画家の作品を見た後だというのに、その日もやっぱり、私は喫茶店でロイヤルミルクティを頼んだ。
美術館内の混み具合に比例して、その日は喫茶店の方も人が多かった。
私の座ったテーブルのすぐ横に、やはり1人で来場していたアイツがいたのだ。
私は、ロイヤルミルクティを飲みながら、どうも、続けざまに溜息をついていたらしい。
「つまらなかったですか?」
突然、横から知らない男に声をかけられ、私は唖然とした。
「え?」
私は、どう答えてよいか分からず、ただ聞き返した。
「すみませんね。さっきから、ずっと溜息をついてるから、よっぽどつまらない展示内容だったのかと思って。」
アイツはちょっとムッとしたような顔をして、そう言った。
「あぁ、こちらこそごめんなさい。チケットを貰ったから来たけど、実は好きじゃないというか嫌いな画家なのよ。」
私も、ちょっと苛ついて、そう言ってやった。
きっと、こいつは、彼の作品が好きに違いない。そう思ったからだ。傍らには買ったばかりの図録が置かれてあった。
第一印象は最悪だった。
それは、向こうからしても、そうだったろうと思う。
私は、少し冷めたカップの中身を飲み干すと、さっさと荷物を纏めて会計を済まし、美術館を後にしたのだった。
アイツと2度目に会ったのは、会社近くの総合病院でだった。
祖父が体調を崩して入院したため、お見舞いに行ったのだが、そこでパジャマ姿のアイツに会ったのだ。
アイツは、祖父の横のベッドの上で、例の図録を眺めていた。
あの時の、と気付いた私は、ものすごく大人げない態度だったと思い返し、なんだか居た堪れない気分になった。
入院を目前にした時期に、わざわざ行ったのだ。
それほど好きな画家のことを、私はバッサリと嫌いと言ってしまった。
それがどれほど傷付くことであるか。
視線に気が付いたのか、顔を上げたアイツと目が合ってしまい、私は慌てた。
「あ、ごめんなさい。祖父がお隣なの。いびきがうるさいかもしれないけど……。」
私は、喫茶店で会ったことを覚えていなければいいと思いつつ、無理に引き攣った笑顔を作ってみせた。
「あなたの溜息よりは気になりません。」
プイと横を向きながら、その口からは、思惑が見事なまでに外れたことを示す言葉が出てきた。
「ごめんなさい。」
私は、もう一度同じ言葉を繰り返すしかなかった。
◇◇◇
「知っている人なのか?」
検査に呼ばれてアイツが病室を出ていった後、祖父が声を落として、私に訊いてきた。
「ううん。ただ、ちょっと、先週、美術館に行った時にたまたま隣になった人だった。」
私が答えると、祖父は気の毒そうな顔をして、さらに声を低めて言った。
「なんだか、難しい病気みたいだぞ。若いのに。」
祖父は体調を崩したものの、食欲もあって、数日、点滴をしてもらったら、すっかり調子を取り戻してしまい退屈になっていた。検査結果のうちの一部が未報告ということで、結果を聞いてから退院することになったので、同室の他の患者と、どうでもいいような雑談で時間を潰していたのだ。
他の同室患者は、祖父と似たり寄ったりの年齢で、入院の理由は熱中症だったり予定検査だったりしたが、さほどの重篤感は無かった。一応は、自己紹介代わりにそれぞれの入院理由を説明し合ったらしいが、1人だけ完全に孫世代の若いアイツだけはその輪に入れようがなかった。そして、アイツがなんの病で入院となっているのかが、皆の関心となっていた。
回診での主治医との会話にずっと耳をそばだてていたらしく、年寄りたちは無責任なことを話し始めた。
「美大生らしい。本当だったら留学の予定があったらしいが、病気のせいで駄目になったようだ。」
「フランスじゃなくて、スペインに行く予定だったらしいぞ。」
「気の毒になぁ。」
大して気の毒には思っていないのが明らかに分かる口ぶりで、私は苦笑するしかなかった。