自己紹介──3
異世界。異世界?
それは、そのまま、異なる世界、という意味か?
「ああ、その認識で合ってるぞ。違う世界。こことは、何もかもが異なる世界。だから、異世界」
リュークさんはそこで始めて、嫌そうな顔をした。僕への説明だというのに、口に出すのもやめたいというような、そんな顔だった。なんだ? なにがあるんだ、それに。
「……異世界、ですか。そんなもの、本でも読んだことないです」
異世界なんて、僕は知らない。本はかなり読んできたはずだけれど、見たことも聞いたこともなかった。そこで一つ、連想的に思い出す。エリザベスさんに言われていたことだ──家に篭って、という部分。あれは正解である。
僕は生まれつき、かなり大人しい子供だったそうだ。家の中で遊んだり、本を読んだりが昔から好きだったらしい。その性質は今でも受け継がれていて──読んだ本の数は、同い年ならば負けることはないだろう。家にある本など、とっくの昔に網羅している。そんな人生だった。
つまり、僕は幾分、知識はあるほうなのだ。農耕を主の特徴とするプロキオ村にはそぐわないのかもしれないけれど、家に籠って本ばかり読んでいたぼくは、そういう人間なのである。だから、エリザベスさんに言われたことは、それほど的外れではないのだった。連想的に、思い出した。
しかし、そんな僕でも、異世界に関してはなにも知らなかった。覚えている限りでは、一つの記述も無かったはずだ。
「…………」
昔のこと、あいつと出会う前のことを、一緒に思い出し、僕も嫌な気分になる──それを振り払って本の内容を思い出してみたけれど、やはり、なにも無かった。
「そりゃそうだろうな。異世界なんて言葉、普通に生きてりゃ聞かねぇよ」
リュークさんは嫌そうな顔のまま、そう言う。どこか投げやりな声だった。普通に生きていれば、聞かない。なら、聞いてしまった僕は、普通の人生ではないのだろうか。死刑なんてのも、普通の人はまず経験しないだろうから、たしかに普通とは断言出来ないのかもしれない。
「で、異世界のなにが関係あるのかっていうとな」リュークさんはこちらを見て、言う。「まぁこれも、ここで証拠を出せる訳じゃねえが、表面だけでも聞くか?」
「聞かせて下さい」
間髪入れず、僕は答えた。証拠を出せるわけじゃないとはいえ、もうなりふり構っていられないのだ。
僕は。あいつを救うためには、縋れるものには縋らないといけない。それがたとえ、初対面のこの人の言葉であっても。
内心、びくびくはしているけれど──それでも、出来ることがあるのなら。僕は、やらなければならない。
それを聞いて、リュークさんは腕を組んだ。指輪の擦れる音が聞こえて、それから、声のトーンを落として、
「お前の幼馴染。そいつは、異世界に連れて行かれた可能性がある」
と言った。
異世界。そこに。
「連れて、行かれた?」
「おう」
「……それは、ええと」
「今すぐに納得はしなくていいぞ。あたしも最初に知った時なんか、なんだそりゃってムカついたし」
それはどうなんだ。リュークさんの言葉をスルーして、考える。それが唯一の選択肢だと信じて。異世界? それはどこにあるのだろう。あいつはどこにいるのだろうか?
「それは分からん。どこにあるのかも、どこにいるのかも、あたしは、何も分かってない。突き止められてない。でも、異世界っつう存在が、どうやらあるらしい」リュークさんは釣り竿に魚がかかるのを待っているかのような遠い目をして、そう言う。視界に入りきらない領域を垣間見て、しかし途方もない目標を自分の人生に作り出した、覚悟の宿る目だった。「あたしが独自に、調べた感じな。あんな現象は、そういう概念が混ざってくるもんらしい。だから──異世界、だ」
「……そもそも、リュークさんはなんで、そんなことを知っているんですか?」そもそもの疑問を、聞いてみた。「最初に知ったって──」
「あたしも大事な人を連れて行かれたから」
「…………」
そう言った時のリュークさんの表情は、しかし、見逃してしまった。気付いたときにはリュークさんは、先程となんら変わらない表情を作っていた。しかし、そんな過去は、そんな、そんな、そんな風に、平坦に言えることではないだろう。
連れて行かれた。それはつまり、僕と同じ状況ということ。
「これも、お前のと同じ現象だとあたしは見てる。時系列的にはあたしの方が前だがな……もちろん、同じ現象だったとしても、あたしの大事な人と、お前の幼馴染が同じ状態かは知らん。同じ現象だとしても、一緒にいるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あたしは何も知らない。あたしが分かっているのは、どうやら、異世界って概念がこの世にはあるらしいってことだけ──それ以外は、何も知らん」リュークさんはそこで、厭世的な目をした。「ちょっと前にな、あたしの大事な人が消えたんだよ。お前と同じ、目の前で。くはは、それからどうなったと思う?」
「……、死刑…………いや」咄嗟にさっきの城で起こったことを思い出して口に出し、考え直す。「……いや。リュークさんは僕とは違いますよね」
「正解。あたしは王族ってんで罪に問われることはなく、消えたあいつの捜索願いが出ただけだった」
「…………それは」
それは。その、結末は。
ぼくより幸運なようで、酷く残酷なのではないだろうか。
「お前なら分かるだろ?」リュークさんは厭世的な目で、言う。「大事な人が消えて、どうしようもない。どこにいるのかも、無事かどうかも、助ける方法すら分からない。そんな時に、ふと死んでしまいたくなる気持ちがよ」
「……、────」
分かる。
痛いほどに、分かる。
無力感である。僕も牢獄で、それを、それこそ死ぬほどに味わった。
夢に見るのだ。目の前にあったはずの、幸せを。
手で掴める範囲にあったはずの、あいつの姿を。
そうして、今はなにもないことを自覚し、死ぬほど吐くのだ。
あったはずなのだ。自分で、掴み取れたはずなのだ。
その思いが、夢から覚めると、溢れ出す。
涙と共に。
もう、一生、夢から覚めない方が。
このまま一生、眠っていたいとすら。
そう、思うほどに。
あいつのいない世界は、俺には耐えられない。
絶対に過去にあったはずの、俺が自覚していなかった幸せ。
見逃してしまった、あいつが隣にいるという幸せ。
他の何を犠牲にしてでも、それだけでいいと言えるような。
そんな幸せなのだ。
あいつは、俺にとってはそういう存在なのだ。
「まっ、今こうして対策を考えていれるのは、この身分のおかげだけどな。当時は、自殺すら考えたんだぜ」軽く笑うリュークさん。「本当、あたし達の周り、なーにが起こってんだろうな……」
膝に右肘を置いて、頬杖を突くようにリュークさんは遠い目をする。軽く笑いながらのその表情は、酷く薄い気がした。つまりは、まだ解決してないということ。
「とにかくは、やれることやるだけだわな」と、リュークさんはまた笑った。快活に尊大な笑顔だ。
「…………」
その事件から今日までに、一体どれほどの。七日経った僕ですら、まだ心にくるものがあるというのに。なんで、この人はこんな爽やかな顔が出来るのだろう。俺にとっての、あいつのような存在が、リュークさんにも、いたはずなのに。
いや。そうじゃないのか。これは、そういう話ではないのだ。リュークさんは、この問題を解決するために、動いているのだ。だから、蹲っているだけじゃないのだ。解決のために命を懸けているからこそ、この人は、平気そうに生きていけるのだ。
つまりは、問題があるなら、解決すればいいのだ。
リュークさんだけじゃなく、ぼくだって。
「身分故に死ねなかった。それはあたしにとっちゃ不運でしかなかったがな、ただ、やっぱり──」
リュークさんは続ける。
僕は。そこで、あいつを、思い出した。居なくなってしまった、リュークさんの言を信じるならば、異世界に連れて行かれたあいつを。
あいつの笑顔を。
リュークさんは続ける。
「やっぱり、放っておけないだろ?」
「…………そう……ですね」
そうだ。その通りだ。僕は、気付いたら、心のどこかで諦めていたのだろう。もう、失ってしまったものだと。過去のものだと。僕の心の中には、まだ、生きているじゃないか。あいつは死んでなんかいない。きっと生きている。
僕が、絶対に取り戻す。
「……覚悟は決まったか?」心を読んだのだろうか。そう問いかけてくるリュークさんはシニカルに笑い、こちらを向いていた。「こんなわけわからん問題、何が起こるかなんて予測できねぇぜ……戦場に立ってもらうことだってあるだろう、が。それでも、いいか……いいな?」
ニヤニヤと、勝気に、挑発するような目。多分リュークさんは、僕が協力することを、最初から予想していたのだろう。
いいだろう、あいつを取り戻すためだ。なんでもしてやる。
すべてを敵に回そうが、取り戻してやる。幸せを。すべてを投げ打ってでも守り抜きたい存在を。また、あいつの手をとるまで、ぼくは戦ってやる。
と。
リュークさんは、右手をこちらに差し出した。
「あたしについて来い。あたしの知ってること、全部教えてやる。その代わり、あたしに協力しろ。いいな?」
「お願いします!」
僕は、その手をとった。
それは確かな、物語の始まりだった。