リゲル国──2
リゲル国について僕が知っていることは、実はあまりない。
この大陸の中ではかなりの勢力を誇るとか、昔から何度も戦争を繰り返してきた長い歴史があるとか──そんな、誰もが知っているような情報はもちろんあるけれど、それ以外に知っていることがなにかあるかと言われれば、全然ない。
なぜか。
僕は、リゲル国内でも田舎の出身だからだ。
田舎で知られる、プロキオ村生まれのプロキオ村育ち。どれほどの田舎かというと、鍬や鋤、鎌がそこらに置いてあって、それらの柄に躓いて怪我をしたことのあるくらいには田舎だ。リゲル国の中には、人の住む家が密集して建てられている村や、個人が経営している商店なんかが堰を切って並んでいる街なんかもあるらしいけれど、プロキオ村はそんなものとは無関係である。ただただ牧歌的な自然と、そこに住む人達がいるだけだ。
最低限の学校や病院などは村の中にあって、生活で困ったことがあればそのどちらかに行けばいいし、動物が周りの自然に豊かに生息しているこの村では、襲われることにさえ気を付ければ、食事にはどうにかありつける。畑の作業も牧畜もなんでもござれで出来るからだ。
それほどに、僕の出身であるプロキオ村は田舎なのだ。そこから出たことなんか、記憶に残っている限りでは、僕は一度もない。僕はそういう人生を歩んできた。
だから僕は、リゲル国の王様なんて名前すら知らなかったし、その側近である右大臣なんてのも、寡聞にして知らなかった。
「入れ」
そう誰かに言われて、軽そうな鎧を着た後ろにいる兵士が、背の後ろで縛られた僕の腕を掴み、前へ進むように僕に促した。その兵士の顔は、無表情という言葉があまりにも似合う顔だった。この人にはなにを言っても無駄だと、見た者に強く印象付けるような、そんな顔。
僕は今、一週間投獄されていたあの牢屋から、また別の場所に連れてこられている。リゲル城内の、一室。
ここは、王室だ。
僕のような身分の者は本来、立ち入ることすら許されないような、そんな場所。
僕は今、そんな場所の──入り口の前に立っているのだった。
裸足で絨毯の柔らかさを感じながら、僕は、向こう側へ開け放たれた扉に向かって歩く。絨毯自体は家にあったけれど、ここまで毛が立っていて柔らかいものは初めて見た。
「……ほほぉ」
と。そこで、そんなしわがれた声が聞こえた。声がした方向は──真っ赤に続く絨毯の先、その先端から少しの段差があり、その先にある玉座のような椅子の方からだった。そこから、聞こえた。
そこに、一人の老人が座っていた。
長い白髪と、それに同化している白い髭。丸眼鏡をかけており、その奥には赤色の柔和な眼がこちらを向いている。田舎者の僕でも分かるほどに、宝石なんかの装飾がある豪華な服装をしており──堂々としているその様は、威圧感と気品さを兼ね備えているようだった。さっきのは、この人の声だろう。
加えて、もう一人。
もう一人、その脇に、女の人も立っていた。烏の濡れ羽のような黒髪に、人を畏怖させるような鋭い目。白色の派手すぎず、地味すぎない服装。あれが、宮廷の仕事着なのだろう──足元には、見ただけで足が痛くなるようなヒールを履いている。
この部屋の中には、この二人がいた。後ろの兵士を除けば、この二人。僕を入れて、三人。
ただ、僕にとって大事になってくるのは、老人の方だろう。理由は単純、僕を見て最初に声を発したのは、この人だからだ。
おそらくこの人が。
「儂がこのリゲル国第十四代国王の、トール・アラカルトじゃ。よろしゅうの」
やっぱりそうか。
この目の前にいる老人が、この国のトップ。僕のような平民では、天地がひっくり返っても会話すら出来ないような、そんな立場の人間。
そんな人と、僕は今、向かいあっている。
「……ほほぉ。君が噂の……ソラ君かね?」
と、続けてトール王に話しかけられた。
聞いている者の心を包むような、優しく聞き取り易い声で──丸眼鏡越しのその目は、僕を興味ありげに覗き込んでいた。
いや、そんなことより。
今、なんと言われた?
「……噂?」
「なんじゃ? 知らんのか?」と、少しだけ目を丸くする国王。「噂じゃよ、噂」
「…………」
噂?
噂というと──この場面で言うということは、それ相応の意味があるものということだ──、何のことを言っているのだろう。
幼馴染を殺した容疑で僕が国に拘束されたことが、国民の会話のタネになっているのだろうか。
「王国全土……とは流石にいかんがね。それでも有名じゃぞ、お主は」
「…………」
「わずか十三にしてそれほどの罪で投獄される人間など、そうはいないからのぉ。こういうのもゴシップ好きというのじゃろうか」
ふははと、国王は軽く笑った。
国王と名乗ったこの男は、国王だけあって、国の動きには詳しいのだろう──なんということもなさそうに、僕に語りかけてくる。不思議な雰囲気だった。
「まぁ、お主にこんな事を言ってもしょうがないかの? ソラ……ん? お主、性は何と言うのじゃ?」
そこで国王は、僕の名前に性がないことが気になったようだった。「儂、聞いてなかったかの……」と、不思議そうに尋ねてくる。
正直そんなことより、僕はこの状況についていけてないのだけれど──でも、無視するのも印象が悪いだろう。
「性は……平民の出身なので。ないです」
「ほー、そうか。それはそれは……失礼じゃったかの。まぁ、老いぼれの戯言だと流してくれい」
「…………はぁ」
「ふっふっふっ」
楽しそうに肩を震わせる国王。
なんだろう。これ──なんだろう。
なんの話をしているのだろうか。
なんだか、なんだか、想像していた流れと違う。死刑囚に対する国王の対応って、こんな緩いものなのだろうか?
「ちなみに、どこの村出身じゃ?」
「……出身ですか?」
国王から、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。なにがしたいのだろうか。
僕の出身、聞いていないのか?
死刑囚の情報なのだ、下から詳しく報告されていてもおかしくないはずだけれど──聞いた上で、僕と会話するために再度質問したとか、か? いや、僕と会話する必要がどこにあるんだ。
そんなことを思いながらも、答えないと会話が進まない空気を感じた。
「プロキオ村です。ここからだと……かなり遠いですね」
「ほぉ! プロキオ村か!」
と、僕の出身がなにか、国王の琴線に触れたらしかった。
目を少しだけ見開くようにする。
「──プロキオ村といえば、あの辺りにいる牛が美味しくて好きなんじゃよ! あの味は村を越えて、全国民にも広まっておる──それに加えて、牛の家畜化による作物の高品質化も儂は嬉しくてのぉ。今までは戦争で消費するための、量だけを重視した粗悪品が目立っておったが、最近は違う。より美味しくより早く。その上で、さらに量を作る者が増えておっての。その先駆者はまさに、プロキオ村じゃったはずじゃ。現代の、量と質と速度のハイブリッドを目指す作物を最初に手掛けたプロキオ村の者には、感謝を伝えたいなんじゃよ。それとの、あそこの地形に流れる水も美味くてのぉ──」
いや、待て待て待て。
僕は今、なにを聞かされているんだ?
僕がここに連れてこられた理由は、僕の死刑を執行するから、だったはずだ。父にもそう言われたし、その後に兵の人にも同じようなことを言われた。で、その死刑執行の前に、国王が罪を直々に言い渡すという、リゲル城で定められた流れがあるらしいから──だから僕は、ここに来たのである。決してこんな会話をするためではないし、ましてや国王と仲良くなるためでもない。その死刑の手続きを踏むように、僕はここに引っ張られてきたのだ。
なのに、なにを言っているのだろうか、この人。
そう考えている間も、国王のプロキオ村知識は留まることを知らなかった。見方によっては楽しそうでもあった。いや、見た目から、長く生きているのは分かるけれど──だから、知っていることが多いのも分かるけれど。それでも今、それは話すべきことなのだろうか。なにがしたいんだ。
ぺらぺらと。
国王は、誰の返事がないことも気にせずに、話し続ける。
このまま小一時間、その話が続くんじゃないかとすら僕は思ったけれど──そこで、鶴の一声が横から入った。
「……トール様。無駄話はお控え下さい。死刑囚の前ですよ」
「おぉ、そうじゃのぉ。ほほ、いかんいかん。つい語りすぎてしもうた」
「後にもお仕事が控えております。手短にお願いします」
「すまんな、エリザベス」
と。
国王の側近のような女の人──国王の近くにいて、今までなにも喋らずに脇に立っていた女の人が、国王の話を、そう中断させた。
エリザベス。それが、横から話を遮った彼女の名前。
おそらく家臣の一人。それも、ただの家臣ではなく、この死刑囚の謁見にも同席出来ているところ、国王の仕事を把握しているところから、この人はかなり位の高い位置にいるようだった。
国王と同じく、僕とは対極的な存在。
そこにいるのが当たり前のように──たおやかに立っている。
「あなた」
「…………っ。はい」
と。
思考の世界に入っていた僕を、エリザベスさんのそんな鋭い声が引き戻した。話しかけられるとは少しも思っていなかったところに、石が投げ込まれた形になる。
「今から、あなたの罪をトール様が言い渡します。その後に死刑が執行される。ここまではいいですね?」
「…………あ」
そんな僕を知ってか知らずか、エリザベスさんは話を続けた。
僕の方はというと、そう言われて、やっと本題に戻ったことを理解した──と同時に、自身の死刑が近づいていることを自覚する。
いや、冷静にしている場合じゃない。なんとかして、罪が誤解であることを訴えなければならない。
このままでは、本当に僕は死ぬ。死刑になってしまう。
「──ちょ、ちょっと待ってください。僕はあいつを殺してなんかいません……この七日間、牢でも何度も言ったはずです」
「はぁ?」
けれど。僕が言った、この七日でしたものと同じような弁明は。
そんな僕の弁明は、エリザベスさんは聞き入れなかったようだった。
心底、不快そうな顔をされる。
「ここまで来て、まだ言い逃れしようと?」
「いや……言い逃れなんかじゃないんです。僕は本当になにも知らな──」
「ならば被害者はどこに消えたのです? あなたの幼馴染でしたか? その人はどこへ、姿を消したんです?」
「…………」
それは。
それは──僕も知らない。
知らないんだよ。
「目の前で消えた、なんてそんな証言が通用するわけがないでしょう。……あなた」
キラリと、エリザベスさんはこちらを見た。
その目線は、汚いものでも見るかのような、そんな目線だった。
「あなたはプロキオ村出身でしたね」
「……そうですけど」
「そうなると、不思議なことがあるんですよ。とても、とても不思議なことが」
そう言うエリザベスさんの表情は、少しも動いていなかった。
不思議なこと。それは──死刑目前の僕に話すほどの内容なんだろうか。
エリザベスさんが一歩、僕に近づく。
「プロキオ村はたしかに良い村です。トール様の仰られる通り、作物や家畜を有効活用する上であれだけの好条件の村は、そうそうありません」
なんだ? なにが言いたいんだ。エリザベスさんは。
コツリと、また一歩。エリザベスさんが僕に近付いた。
「しかしそれ故に、そこに生まれる人間は皆、体格がかなり大きくなるんですよ。よく言えば健康的、悪く言えば図体がデカい。……狩りもしていると聞きます。成程、そんなことを毎日やれば、筋肉もつくでしょうね」
「…………はぁ」
僕はそこで、父を思い出した。毛皮を剥いで服を作り、その腕には歴戦の傷がある。
他の村人も、大体は、たしかに似たようなものだ。
エリザベスさんがさらに近づいてくる。コツリ。
「ですが、あなたは?」
そう、エリザベスさんに言われて。
言われて、自分の腕を見てみた。一番見慣れているその腕にいまさら、違和感などない。
ない──けれど。
ないけれど。
「同年代の村の子供を思い出してみたらどうでしょうか。自分がいかに異端か分かりませんか?」
「…………」
「どうです?」
同年代の、子供。
異端。
「どこが異端か。色々ありますね。言ってみましょうか? あなたのその歳に似合わない細い腕、足。十の子供と変わらない身長、気怠そうな目、小さい肩に、女の子みたいな背中。他にも言おうと思えばありますが、ひとまずこんなところでしょうか……どうせ、家の中に篭って外の作業なんて手伝ったことないんでしょう? プロキオ村の特色ともいうべき牧畜や畑作業なんて、日頃、やってなかったんでしょう? それらのすべてがすべて、あの村の活気とは相反するんですよ。分かりますか?」
「…………は」
それは。
ぼくの嫌なところを根っこから引き摺り出そうとするような、そんな強い口調だった。
「自覚なさいな。あなたはプロキオ村には似つかわしくない。このリゲル城にも似合わない。どころか──この世界にいることが、自然じゃない。あなたはそこにいるだけで不自然で、不快で、理に沿わないんですよ……自覚なさいな」
エリザベスさんは言う。
「あなたの立場を、自覚なさい。言い換えれば、役割を自覚なさいな」
「…………」
同年代の子供と比べて、僕が違うところ。
プロキオ村の人間と比べて、違うところ。
そんなこと──そんなこと。言われずとも。
僕は、分かっている。
分かってるよ。
記憶の隅に追いやっただけで、覚えている。
忘れたことなど一度もない。
彼らに身長で勝ったことなんかない。腕相撲で勝ったことも握力で勝ったこともかけっこで勝ったことも。
たった一度もない。年下にすら負ける始末だ。
だから。
だから僕は──あいつとよく遊んでいたのだから。
「……なら?」
ならば。
役割とは。自然じゃない、快くもない、理にすら沿ってない人間は。
何をするべきなのか。
エリザベスさんはじぃ、とぼくの瞳を貫く。
「そんな異端でかけ離れたあなたの、筋道立ってない証言なんて誰も信じない。当たり前でしょう。誰だってあなたがなにかしたと思う。一人の人間が消えて、あなたが直前まで一緒にいた。状況証拠としては十分でしょう」
「…………あぁ」
それは、正論だ。それも、正論だった。
僕は。
僕は。
僕は──
「被害者の家族からの通報で、あなたのことについて聞いていますから──」
「エリザベス」
と。
と、そこで、先程とは打って変わった低い声で、エリザベスさんを静止する声があった。
国王、だ。
「お主の仕事は儂の手伝いじゃろう? お主が死刑の判断理由まで言ってしまっては、儂の仕事がなくなるわい。儂が飾り物の国王になってしまうぞ?」
「……失礼しました」
この人が本当の国王であることを証明するかのように、トール王はそう言った。その言葉は、エリザベスさんには、効果的面のようだった。
エリザベスさんはそれから僕を一瞥し、元いた位置に戻る。国王はそれを見て、表情を緩めた。
ふぉふぉ、と笑う。
「ただ、エリザベスが言っていることは的外れではない。この国では殺人は許し難き罪の一つじゃ。それは分かるな? ソラ君」
「……はい」
今度は、僕に声がかかる。あそこまで言われては、そう返すしかない──罪を認めたことなんて、この七日間で一度も無いけれど。でも、僕がやってないとする証拠なんてないんだから。
異端。異端者。
そんな者の、役割とは。
「罪には罰を。でなければまた、同じことが繰り返されてしまう。ならば、それが平和を守る秘訣じゃと、儂は考えておる。国の法など考えるまでもない、法がなかった時代から、人間の世界はそういうものじゃ」
「…………」
罪には罰を。
それはつまり、役割ということ。立場──ということ。
それは、その通りだろう。
それも正論だ。なにも反論が出来ないほどの、正論だ。
「もちろん、年端もいかない少年でもそれは同じじゃ」
「…………、あ──…………」
それが、リゲル国のルール。
なにも、僕には言い返す言葉がない。
「よって、ソラ、お主に──」
トール王が言う。
ああ。
と。
そう、思った。考えた。
あぁ、と。
ここで、僕の人生は終わるのだろう。なにがなんだか分からないまま、谷底に突き落とされるのだろう。ほんの七日前までは、幸せだったというのに──いまさらそれを思い返したところで、僕の下へはなにも戻ってこないのだ。
ああ。終わる。
人生が、終わる。
一人の人間の、今まで生きてきた命が、終わる。
エリザベスさんの冷たい目が見える。トール国王の優しくも厳しい為政者の目が見える。兵隊の無表情の具現化のような目が見える。
しかし、見えない。見えない。見えない。
何も、見えない。明るい未来が、見えない。
希望が、何も見えなかった。
「…………は」
最後に。
最後にあいつに会いたかったなぁ。
消えてしまったあいつと一緒に、居たかったなぁ。
「死刑を──」
トール王の、死刑宣告の声が聞こえる。
「……────」
「…………、ん?」
いや。
聞こえなかった。
「ちょぉっと──待った」
と。
国王の判決を止める声が、そこであった。