リゲル国──1
あいつが居なくなってから一週間が過ぎた。ぼくは、ボロボロになったむしろの上で、目を覚ます。
体内時間では、多分、朝。
ここは、リゲル国の所有する牢獄だ。リゲル国内で罪を犯した者が軒並み捕まり、狭く冷たい部屋の中に収容される。中には凶悪な犯罪に手を染めた者もいるようで、それらに対する兵の対応というのも、この一週間で幾度も見てきた。そんな場所だった。
もちろん、生まれた時からこんな暮らしだったわけではない。ほんの七日前までは、レンガ造りの家に住み、父と母と、少し憎ったらしい弟と、大好きな幼馴染がいた。
確かに、いたのだ。
「起きたか?」
と。
その声の主は牢獄の入口、その外側に立っていた。寝起きの目を凝らし、そちらを向く。
そこに立っていたのは僕の父だった。
動物の毛皮を剥いで作った服を身に纏い、そこから伸びる手足には歴戦の古傷が見える。男にしては長い黒髪を自由に伸ばしているその姿は、雪男のようだった。
ハンス。それが父の名前だ。
「話をさせてもらえるように、無理を言って来たんだ。歳も歳だからな。捕まった息子に会いに行くって泣き落として……ソラ、元気か?」
父はこちらとあちらを隔てる檻を、心配そうに手で握っていた。僕がここに入れられてから、もう七日も経っているのに、父は未だに慣れていないようだった。
まぁ、それはそうか。
こんな状況に慣れるなんて──多分一生来ないだろう。
「……あぁ、父さん。元気だよ……多分」
乾いた喉でなんとか、返事を返す。
こんな劣悪な環境で暮らすのは始めてだから、これから先もずっと元気でいられるかは分からないけど。でも、今は少なくとも元気だ。自分の黒髪がざらざらと音を立て、唇の皮が剝けて喋るのに少し違和感があるくらい──あと、裸足だからか、足先の感覚がなくなっているような気がするくらいで。
「……ごめんな。俺に力が無いばかりに、こんな辛い思いさせちまって」
「…………」
父はぼくの返事を聞き、安心したようだったけれど──と同時に、真剣な顔で口を開いた。
普段は狩りをし、色々な獲物を殺して生活に役立てている父も、この状況には打つ手がないらしい。今までで見た事がない程に、消沈しているようだった。
「……大丈夫だよ」
実の父の心配を一身に受けながら、答えて。考える。思い出す。
今の状況。
それは、絶望するには十分すぎるほどのものだった。
まず。
あいつが消えたあの日。僕は、殺人の容疑で、国の警備隊に捕まったのだ。
僕の歳はまだ十三だけれど、それでも、人を殺したという罪はこの国では重いらしい。歳など関係なく投獄、と定められているとか。
国の兵に通報したのは、あいつの家族だ。娘が帰ってこないことを心配し、僕に問い詰めても答えが返ってこないことに激昂したのだろう。当たり前だ。一人娘が遊びに行って帰らないなど、なにより一大事である。
勿論、僕は何度も反論した。
知らないと。僕の方こそ、知りたいと。
あいつの行方を聞かれても、僕には分からないのだ。どこに行ったのかも僕は知らないのだ。結果、なにも答えることが出来なかった。なにも、あいつの家族に対して言えることは無かった。
一つ言えるのは、気付いたら、僕の前から消えていたということ。
跡形もなく、影すら残さずに。
「……なんなんだろうな」
しかし、それを言った僕は、あいつの親にぶん殴られたのだった。おそらく本気で、死んでもいいというほどの力で。
そんなわけがないだろうと。娘を返せと。
ぐちゃぐちゃになるほど、思い切り。それは、自分の子供を想う、親の拳だった。
痛かった。
痛かった。
「…………」
けれど。
けれど。それは、僕のセリフなのだ。
僕の方こそ、言いたいセリフなのだ。
僕は、なにも知らないのだ。
『大人になったら……結婚しようね』とか。
『いつまでも一緒だよ』とか。
僕たちが積み上げてきた会話の一片は、あの日から毎日、夢に見る。
その度に死にそうなほどに吐き、死にそうなほどに泣くのだった。
「…………あぁ。駄目だ」
失ってから初めて。
僕は、あいつの重みを知った。
自分にとってどれだけ大きな存在だったかを、知った。
それは多分。
多分、僕が、気付いてなかっただけだ。
身近にありすぎて、そうと気付かず生きてきたのだ。
あるのが当たり前だと。
これから先、失うことはないと。いつでも、手を握れるのだと。
そう、勘違いしていた。
けれど──そうではないことを、知った。
かけがえのないものなのだ。
僕という人間が、生きていけるのも。
僕という人間が、存在できるのも。
あいつがいたからだと。
僕は、失ってから初めて気付いた。
夢に見るのだ。
あいつが、僕の隣で笑っている。
あいつの声が、僕の耳を通る。
あいつの手が、僕の手を取る。
全部、全部、覚えている。
絶対に、過去にあったはずの。
そんな、幸福が。
絶対に、あったのだ。
僕にも、あったはずなのだ。
「…………」
この牢獄での七日間は、そんな風に過ごした。おそらくあいつの家族も、同じような七日間だっただろう。僕の家族だって、似たような日々だったらしい。
目の前にいる父は、自分に誠実な人間だ。息子を守りたいという思いの一方で、僕の容疑を晴らす証拠がなにもないことに葛藤しているのだろう。
「──いや。僕の言ってる事はたしかに、訳が分からないから……仕方ないんじゃないかな」
出来るだけ父を心配させないように言葉を選ぶのは、やはり辛かった。
「そうか……いや、俺はソラのことは信じているからな。殺人だなんて……やってないよな?」
「……うん。僕は本当に知らないんだ。あいつがどこに行ったかなんて」
「そうだよな……」
父は、そんな僕を見、下を向くようにする。
父と子。互いに分かっているのだろう。
そんなことをする人間ではないと。なにかの間違いだと。
と。
「………今日はな、ソラにあることを伝えようと思ってな」
「…………」
そこで、父が意を決したように。
こちらを、向いた。
あること。
父の様子を見るに良いことではなさそうだった。
僕は今、牢獄にいる。そんな僕に、伝えたいこととはなんだろうか。
嫌な予感がする。
「実はな……」
それは、僕に、詰みを宣言することと同義だった。
「ソラ、お前の死刑が決まった」