始まり
リゲル国。
国土面積──ぼくが生まれる前の、更に何百年か前、内乱を含めて戦争がそこかしこで起こっていたらしく、領土の変化が珍しくないため、正確なところは今も測定不能、らしい。もちろん、測定不能とはいえ、東西南北それぞれ国境らしきものはある。それぞれの国境の、北には海が、南にも海が、西には他国が、東には森が──あるとのこと。昔の地図でこの国を見る限りは、そうなっている、らしい。
人口──前述の理由で、人の出入りが激しいため、測定不能、らしい。
主食──豆やら野菜やらを肉脂の残り汁で煮込んだスープと、茶色がかった硬いパン。たまに、食肉。ただ、食事の内容は、日によってまちまちである。なぜか? 理由は単純、畑で出来た野菜、穀物、豆によって、出来る料理が変わるからだ。つまり、我儘にメニューを選ぶことなど、不可能に近いのである。だから、とりたい食事という理想があったとしてもそれが叶うことはなく、ぼく達は、とれる食事という名の現実を食べている感じだった。勿論、質より量の勝負である。質をこだわっている余裕など、大抵の家庭にはない。国の名を冠したリゲル豆とか、リゲル麦とか、その辺りが多く出てくる具材で、料理に使われるものは、どこの食卓もあまり変わらないだろう。勿論、家にある富の多寡によって、その辺、いくらでも変わるのだろうけれど。
気候──四季、あり。どういう理屈でそういう変化が起こるのだったかはもう忘れてしまったけれど、この国には四季がある。だから、その時々でとれる食事も、出来る行動も、変わってくるのだった。リゲル麦を夏に刈り取って、リゲル豆を冬に収獲する。川に夏、遊びに行って、冬は山を駆ける──ここは、そんな生活になる四季アリの国だった。
リゲル国。
ぼくが住んでいる国だ。
「…………ふぁ」
それから、リゲル国の、辺境の地。
田舎。プロキオ村。
鍬鋤の入れられた畑に囲まれるプロキオ村。牧畜の動物の鳴き声も定期的に聞こえてくる、プロキオ村。食肉なんて高級なものを、牧畜、特に用畜をしている関係で、たまにではあるけれど食べられるプロキオ村。子供のための学校や、怪我や病気を診るための病院など、生活に必要不可欠な要所は最低限、揃っているプロキオ村。
その中にある、レンガ造りの家の一つ。
その家の中、二階で、ぼくは、本を読んでいた。
暖炉をつけるほどの寒さは、もう、とうに過ぎているから──火のついていない暖炉を遠目に、薄めの絨毯を足に感じながら、母が祖母から受け継いだ揺り椅子に座って。
ぼくは、本を読んでいた。
ある有名な冒険家が綴った冒険譚である。弟に見せてみてもあまり好評は貰えなかったけれど、ぼくにとってはかなり好きな部類に入る一つ。それを読むのがぼくの最近の楽しみの一つで、誰にも邪魔をされないこの最高の空間で本を読むことは、まさに天国のようだった。春の眠気を誘う悪魔と天使みたいな陽の光も、窓から入ってきている──幸せとはこういうことを言うのだろう。隙がなかった。
「…………」
ページを捲るときの、紙がこすれる音しかない空間。ぼくはいつもの通り、本を読んでいる。
学問所は十歳までだから、もうぼくは、勉学のために施設に通う必要はない。同じように、勿論、勉強をする必要もないのだけれど──でも、本を読んで知識を得ることは、他の遊びにはない特異な快感があった。身体を動かすだけでは得られない、知的好奇心だ。それだけは、本以外のものでは得られることはなかった。
だからぼくは、十三になった今も、畑仕事もせずこうして家の中に閉じこもって本を読んでいるのだった。
母も父も弟も、今は家にいない──誰にも邪魔をされない、天国。
一生、このままがよかった。
「ソラ、遊びましょ」
「…………」
誰にも邪魔をされない、はずだった。
目の前が突然真っ暗になり、ぼくは思わず絶句する──顔に当たる感触から、何者かの手で、ぼくの目が塞がれたことだけは分かった。
この声は。
「あれ? ソラくーん?」
後ろで、気の抜けた声がする。そんな、ともすれば間抜けと思われかねない調子で言葉を口にするのは、ぼくの知っている中ではあいつ以外に居ないだろう。一択だった。
ぼくの家のお隣さんだ。
幼馴染とも言っていい。
「あれ。メラさんに聞いた話だと、ソラは二階で本を読んでるって聞いたんだけどな。寝てるの?」
「…………」
「あれれ? ソラくーん? ソラ? ソラソラ、ソララ?」
「…………起きてるから。クリス、手を退かしてくれ」
「ふふふ。やっぱり起きてるの」
そこで、柔らかい感触がぼくの顔から離れ、視界が一気に元に戻った。遠ざかっていく二つの手の平が見える。それを見てから、ぼくは振り返った。椅子の後ろに、窺うように視線を送る。
女の子。さらさらとした金髪。身長は同じくらい。腕は細く、線の細い見た目。色も白い。ぼくと同い年で、十三歳。
クリス。ぼくの幼馴染だ。
この狭いプロキオ村の中の、お隣さん。昔からこんな調子で、勝手に家に入ってくるのだった。
「勝手にじゃないってば。お義母さんに許可は貰ったよ?」
「……ぼくの許可は?」
「ソラのお母さんの許可なんだから、ソラの許可も同然でしょう?」
「…………」
この会話ももう何度目か忘れるほどに、クリスはここに来るのだった。
まぁ。
クリスのそんな物言いにも、もう、慣れた。呆れるのにも、もう飽きた。
「それで、遊びましょ。今日はなにする?」
元気よく溌溂に、手をジョギングみたいに振りながらクリスは言う。この、駄々っ子モードに入ったクリスは絶対に折れない──この六年にも及ぶ付き合いで、既にぼくは知っていた。今日は、本を読むのは諦めた方がよさそうだった。どうせ明日も読めるだろうし、それは別にいいけれど。
ぼくは本を閉じた。改めて、クリスに向き直る。
「なにしようか。あんまり、運動とかはしたくないんだけど」
「えぇ! ソラ、全然外に出ないじゃない。今日ぐらいは運動しましょうよ」にはにはと笑って、クリスはぼくの目を見据える。「ほら、運動は気持ちいいよ?」
「って言って、明日も連れ出す気だろ。今日ぐらいなんて言葉、ぼくは信じないからな……」じぃと、見つめ返してやった。「というか、クリス。家の手伝いとか、いいのかよ。おじさん、やらせたいこととかあるって言ってなかったか? ぼくの親経由で、色々、話に聞くけど」
「私たち、まだ十三よ! いいのよ! 遊べる内に遊びましょ!」
「えぇ……」
後で怒られそうだった。
よくはねぇだろ。
「異議なし。異議なしということは肯定であって、同時に外に遊びに出かけることの承諾でもある、と。よし、れっつごー!」
「…………」
クリスは、その金髪をたなびかせて、僕の腕をとった。そのまま、ぼくの家だというのに、勝手知ったるという風に玄関を目指していく。まぁ、クリスに言わせれば、ぼくの家というよりはぼくの親の家なのだろうし──それがなくとも、この幼馴染は、本を読みたいぼくの気持ちなどもお構い無しに生きている。いつものことだった。
とんだお嬢様だ。
いつものことだけれど。
「今日はねー、いつもの平原でかくれんぼしましょう」
「あそこ、隠れるところなんて全然ないよな?」
「その中で、いかに隠れるところを見つけるか。その勝負は面白そうじゃない? 体力も使わないし」
クリスは僕の手を引きながら、顔だけこちらを向く。それでも歩くのは止めてないのだから、器用な奴だった──で。かくれんぼか。隠れるところのない場所で、頭を使って、隠れ場所を探す、ね。確かに、それは面白そうだった。体力なんて言葉に縁のないぼくでも、出来そうな遊びだ。
「よく、考えてるんだな。いつの間に」
「ふふ。ソラと遊びた──じゃなくて。私は結構、頭良いからね。そのぐらいなら、簡単に思い付いちゃうんだよ」
「へぇ……」
頷く。確かに、毎日のように遊びを考えているクリスは、遊びの天才なのだろう。それが名誉あることかどうかは、ぼくには分からないけれど、少なくともそれは、ぼくにはない才だった。なら、名誉あることなんじゃないだろうか。漠然と、そう思う。
まぁ。どっちにしたところで、クリスが楽しそうならば、それでいいのだ。
それで、いいのだった。
「じゃあ……行くか」
溌溂お嬢様に答え、家の扉を引く。壁掛けの時計を遠目に見て、それから、外に出た。
今が、昼の一時ってところ。なら、四時間ぐらいは遊べるはずだ。
ぼく達は、今日も、遊びに出掛けた。
それから。
四時間後。
クリス案の隠れんぼを何度も行ったぼく達は、体中、砂だらけになっていた。
「うわー……いつの間に、ってやつかこれ」
「え? 結構、途中からなってたよ?」クリスは不思議そうに、いまさら気付いたぼくを見る。「気付かなかったの?」
「……本当に?」
「うん」
「…………」
そうだったのか。正直、全然、気付かなかった。
これは──母さんに怒られそうな気がした。これほど汚れて帰るのは久しぶりである。
洗濯は、自分でしなきゃな。
「……ん」ふと、クリスを見ると、顔に砂の跡が付いていた。左頬の、中心辺り。草むらの中にでも隠れているときに、流れで付いたのだろう。本人は気付いていないみたいだった。「クリス」
「ん?」
「ちょっと止まって」
クリスの顔に付いた砂の跡を、右手を伸ばしてとってやる。「……ひゃあ」と息を漏らしたクリスからわざと目を逸らして、ぼくは利き手と砂の跡に集中した。
手の先で少し払っただけで、その跡は綺麗にとれた。
「砂、付いてた」
「……ありがと」
へら、と、クリスは、何度見ようと飽きない満面の笑みをする。心を許した者にしかしないであろう、そんな笑顔だった。
つい、意地悪を言いたくなる。
「お前だって、気付いてないじゃんか。砂の跡」
「えぇー……それとこれとは話が違くない?」意地の悪いものになっているであろうぼくの顔に、文句ありげに、幼馴染は頬を膨らませた。「顔って、ほら、自分で見えないし」
「そうか? いや、顔を見ることができないってのはもちろん分かるけど、でも、だからこそ顔は感覚が鋭くなるはずだろ。砂が付いてて気付かないなんてことあるか? 頬の真ん中だぞ?」
「いやいやいや。私が言ってるのは見やすさの話だから。視認のしやすさ、容易さの話だから。その点で考えてみれば、身体についた砂と顔についた砂の跡じゃ勝負になんないよ。段違いって言葉がそっくりそのまま当てはまるくらい、そこには差があるね。人間の視界の範囲を考えてみなよ」
「いやいやいや。ぼくが言ってるのは感覚の話だから。もちろん身体も重要なパーツだけど、でも、人間の身体の中でもっとも重要な部位がどこかって言ったら、頭部だろう? だったら必然、人間の感覚は、頭部に近付くにつれて鋭くなるはずだ──ほっぺたなんて、その最たるものだろ。目の近く、鼻の近く、口の近く、なにより脳の近くだぜ? そんなところにある異物に気付かないなんて、お前、そんなことあるか?」
「それ、意味ある反論? ほっぺたって別に、そこまで感覚の鋭いとこじゃないでしょ。私の記憶では、触覚がもっとも多いのは指先だったはずだよ? 次いで、舌先、唇って感じだったはず。だから、ほっぺは別に、感覚に優れてるわけじゃないでしょ。気付かなくても不思議じゃない……他の感覚を考えても、視覚は論外、味覚も論外、聴覚も頬の砂には役立たないし──嗅覚が一応、鼻のすぐ横にあった砂の匂いを嗅げた可能性はあるけど、でも、今まで私達って砂まみれで遊んでたんだから、顔についてあっても、他の砂と匂いは混じるでしょ。つまり、嗅覚も当てにならないってことだから……ってことは、五感は全滅ってことになるんだよ。え、え、え。ソラの感覚の話、今この場で、意味あった? それ、意味ある反論なの? 時間稼ぎの論点ずらしかな? え、え、大丈夫そ?」
「はん、たしか、空間把握の右脳は左半身に繋がってるんだよな? 誰が見つけたかは忘れたけど、たしか、そんな性質が脳にはあったはず──本で読んだ。詳しいことは何も知らないけど、脳にはそういう性質があったはずだ。で、砂がついてたのは左頬だ……つまり、さっきの砂の跡っていう左頬への刺激は、お前の脳の中の、空間把握の得意な右脳の方が引き受けたはずなんだよ。だというのに、お前は何も気付かなかったわけだ。それはどう説明するんだ? 右脳が刺激されたんだから、異物があるってことは空間把握の能力で認めるのが簡単なはず。自分と自分の身体、それに外界の位置関係を脳で処理して、何かが自分の顔についていることぐらいは簡単に気付けたはずだろう。なのに、お前は何も気付いていない……これはそのまま、お前の注意の散漫さに繋がってるんだよ。注意力がないから気付かなかった、はい証明完了、間違いない」
「あらあらあら苦しい言い訳ザマスね! 何も議論が進展してませんわよー!」
「なんだその喋り方」
「ソラへの指摘は大別して三つ。まず一つ、反論になってないというさっきの私の指摘に、何も答えがなかったこと。私、言ったはずだよ? ソラが言った人間の感覚の話は、反論になってるようで反論になってないって。あれは何ですか? って聞いた質問に、そんなことも分からないのかって答えるみたいに、もっともらしい理屈をこねて反論した気になってるだけだって──なのに、その私の指摘に対して、今ソラが言ったことの中には、何も答えがなかった。馬鹿の理論に対して、何も反論になってないっていう指摘が起こったのに、何も答えがなかった──分かるかな? 議論が有機的に繋がることなく、ソラの反論からぶつ切りになって、断裂してるわけ。何も生産的な議論になってない──それにまず、ソラは気付きなよ。私のこと言う前に、まず、自分の立場に気付いた方がいいよ? ソラの反論から、この議論は進んでないんだよ? まず、そこに答えるべきなんじゃないのかな? 難しいこと、分かるかな? ん? ソラくぅ~ん?」
「へぇん。言うね。まぁ、ぼくには何も効いてないから。苦しい言い訳をしてるのはそっちだ。いいよ。流れに乗って、もう二つの反論も聞いてやるよ。ぼくは大人だ、余裕のある大人は相手の言い分をちゃんと聞くのさ。それが余裕のある人間ってもんだ」
「余裕のある大人は、こんな無意味な議論にそもそも参加しませーん! 参加してる、顔だしてる奴がいるならほぼ例外なく、暇人か金貰ってるか馬鹿の三択でーす! ソラ君の場合は言うまでもありませーん!」
「おいおい勘弁してくれよ。皆まで言わせるのか? 議論ってのは相手を煽るためにあるんじゃない、結論を出すためにあるんだぜ。弁証法、帰納法、演繹法、何を使ってもいいけれど、結論を出すためにこそ議論はあるんだ。それには、相手へのリスペクトが一番、大事なはずだけど? お前みたいに、煽りたいがために議論をふっかけてくるような奴は前提から勉強し直す必要があるな」
「弁証法はともかく、帰納法と演繹法は、議論ってより推論の方法だから。似て非なるものだから。そこ、間違って理解してるの? 大丈夫? ついてこれてる? 話がどこに行ってるか分かんないなら、喋らない方がいいよ? 雄弁は銀、沈黙は金だよ? 喋りさえしなきゃ知識の無さってバレないんだから、馬鹿と、自分を優秀だと思ってる秀才タイプの馬鹿は黙った方がいいよ?」
「それは自己紹介か……なんだ、なんでいきなり自己紹介してんの? ここ、お遊戯会の会場じゃないぜ? 学問所でもないし……子供みたいに遊びたいなら赤子の預かり所があっちの方にあるから、お前、そこに行くべきじゃないか? そこなら、思う存分、赤子みたいに遊べるぜ? そこに行くべきだろう、お前は……いや、子供のお遊びをするには、お前、年を重ねすぎか。もう十三だもんな。十二を越えたら、もう老人だよな──頭が衰えて仕方ないや。はん。老人には時間はない。早いとこ、二つ目に入るべきだろう」
「おうおう、ソラ爺さんや。長く生きれば生きるだけ金がかかるんだから、早いとこ死んだ方がいいんじゃないかの? そうなりゃ、金が浮いて食べ物も浮くし、万々歳だわい──二つ目の指摘。右脳どうこうの話に、なんの根拠もないこと。ソラ、自分で言ってて気づいてないの? その長々とした右脳の働きの話、根拠が何もないんじゃん。昔に本で読んだって──え、それが根拠になると本気で思ってるの? 何の本で読んだか、何も思い出せないんでしょ? え、それ、願望っていうんだよ? 事実じゃなく、ソラの願望っていうんだよ、それ。え、そんなものを根拠に反論されても、まったく、何も説得力がないんだけど」
「それを言うなら、お前の五感の話だって根拠なかっただろ。お前五感のこと、何の本で読んだか覚えてんのかよ」
「『人体の感覚』。リゲル国、王立協会、監修」
「……三つ目の指摘を聞こうか」
「三つ目。男女の脳の違いについて。あのさぁ……右脳右脳っていうなら、右脳の空間認識が優れてるのは、男の方だからね? 女の脳は、左右のバランスはいいけど、バランスがいいからこそ、空間認識に特化はしてない──反面、男の脳は左右のバランスが悪い代わりに、右脳の空間認識は優れてる。これは多分、ソラが見た本と一緒の本に書いてあったかな……『脳の役割』。同じく、リゲル国、王立協会、監修」
「……つまり?」
「つまり。何が言いたいかっていうと、右脳の空間認識を砂に気付かなかった人間への糾弾の理由にするなら、それは、身体についた砂に気付かなかったソラ君の方こそ言われるべきことなんじゃないかってこと。だって、男の方が、空間認識は得意なはずだもん。地図とか、方角とか。そういうのが得意なのって、男の方だったはずだもん。女の脳はバランスのとれたちょうどいい感じの脳だけど、男はいろいろ特化してる人が多いはずだったもん」
「へぇ。そうか? そうだっけな……」
「空間認識ってのは抽象的な概念を形としてイメージするってことでもあるから、結果論だけど、学問に特化するのも男ばかりだったりするし。学問ってのは突き詰めれば、現実以外のものを考える必要が出てくるものだから──ついでに、右脳ってのは記憶容量も無限に近いから。だから、頭の良さの平均値は女の方がたぶん高いけど、学問を特化するのは男ばっかりだったりするんだよ」
「ふぅん……そういや、そんなことも書いてあったっけ」
「書いてあったよ。わたしちゃんと、覚えてるもん。だから、わたしはこう考えたね……男は差が激しいんだって。男は、下の馬鹿さ加減がぶっ飛んでる代わりに、トップ層の頭の良さもずば抜けてるんだよ。男の馬鹿は底知れぬ馬鹿だけど、男の天才は信じられないくらい凄い業績を残したりするの。馬鹿は子供みたいな脳みそだけど、天才は異世界人みたいな頭してるの──勉強すればするほど、男の天才には追いつけない背中が見える感じだよ。いや、背中も見えないくらい距離を離されてるのが分かる感覚、かな。そんな感じ」
「へぇ……脳みそって、そういうもんか」
「そういうもんだよ。もちろん、女の脳も得意なことはあるけどね。感受性が高いとか……あと、左右の脳の領域、脳の世界のバランスがいいのは女だし。脳梁だったかな、そこが太い女の方が、左右の脳の情報の行き来がスムーズだったはず。だから、左右脳同時に使う並行処理は女の方が出来るんだよ。というか、人ってそもそも女の身体がベースだから、女の脳が本来の形といってもいいからね。女は太陽、母は偉大」
「ああ……そこ、ちょっと覚えてるな。男にも乳首がある理屈だとか……どうとか」
「そうそう。脳どころか人体構成の違いね……まぁ、砂の跡論争には関係ないけどね」
「……あれ。覚えてたのか。てっきり、話は逸らせたと思ってたけど」
「無理があるでしょ。普通に、私の勝勢で終わってたじゃん」
「いや、お前、ぼくの意見にケチ付けてるだけじゃん。それ、否定してるつもりか? 否定するときは代案を出せって、普通、十歳になるころには学問所で習うはずだけどー?」
「あれあれあれ⁉ 何も言い返せなくなったばかりじゃなく、よりにもよって議論相手に自分の意見を補強させようとしてるの⁉ しかも議論途中に⁉ お兄さん、それは通りませんよぉ!」
と。
二人で、笑いあった。まぁ。言われるまでもなく。我ながら、形勢は終始、苦しかった。
なんだこの議論。
「……ん」
と。
周りを見渡すと、既に暗くなり始めていた。目が暗順応を始める時間。
「そろそろ、帰るか。もう遅いし」
「そうだね。明日も遊べばいいし!」
「やっぱりその気だったか」
「ふふふ」そうして、ぼく達は、並んで帰路についた。
いつも通りの、日常。何も、変わらない。この世は無常らしいけれど、それは多分、俺達以外の話だった。
そこで、ふと。そういえば。
クリスに聞きたかったことがあったことを、思い出した。
「……そうだ。クリス」
「ん? なぁに、ソラ」
「お前、欲しいものとかあったりする?」
「…………、ん? なに、それ」思考が止まった感触を通って、クリスから当然の疑問が返ってくる。急な質問だ、当たり前の反応だった。「欲しいもの? なにそれ。何その質問……私、誕生日近かったっけ?」
「いや、そういう意味じゃなく。ただ単に、気になっただけだ。気にしなくていい」
ちなみに。
これは、本心だった。誕生日が近いわけでも、何か特別な祝い事があるわけでもない。ただ単に、ぼくは興味があっただけだった。
ただ単に、ぼくは、興味があったのだ。本心から、興味があったのだ。
聞いてみたいと──もし何かクリスに願いがあるならば、聞いてみたいと。
ぼくは、そう思ったのだった。
「……別に。何も、ないけど」ぶぅと、ぼくの顔を見て、地面を見て、歩く先を見て──クリスは頬を膨らませて、拗ねるように言う。多分、ぼくが何かを隠しているように見えたからだろう、拗ねた子供のようにそっぽを向くクリス。それを共有してくれないぼくに、不満があるようだった。
「……なんだ。何もないのかよ。結構、いつもは我儘言うじゃんか」
「いやぁ? 私、生まれてこの方、我儘とか言ったことないけどね。貞淑に顰蹙に、私は生きてるから」
「顰蹙に生きてるってなんだよ。語感だけじゃん」
「いやぁ? 私、生まれてこの方、変なこととか言ったことないけどね」
「それ言いたいだけじゃん」
笑う。二人で、笑う。話がずれていっているというのに、それをお互いが気にすることなく、そのまま心地良い流れに身を任せている。ただ話しているだけで楽しく、ただ向かい合っているだけで幸せで、ただ生きていてくれるだけで、嬉しい。ぼくとクリスは、そういう関係だった。
だから。
だからこそ──だ。
もし、何か、クリスに願いがあるならば──クリスの願いを叶えてあげたいと、ぼくはそう思ったのだ。
質問した意味は、それだけだった。それだけの意味しか、そこにはなかった。
ぼくの本心だった。
「……あっ。願いっていうなら、一応、あるかな……昔から、割と真剣に思ってたこと。一つ、あるかな」
「お。何?」
願い、あるらしかった。それにこの感じは、急ごしらえで作った話を合わせるための願いではなく、クリスの本心の願いだろう。ぼくが事情を隠しているとしても、それが悪い理由ではないと、クリスはすぐに判断したらしい──クリスの方も、本心で言葉を返してくれるみたいだ。
何か。
クリスの願い。
「無条件で生きていける保障、かな」
「…………それは」
なんだか。
なんだか、概念チックだった。
「いや、いやいや、ソラも欲しくない? だって、無条件で生きていけるんだよ?」クリスは目を輝かせて、ぼくに顔を近づける。楽しそうな顔だった。「労働もしなくていい、誰かの役に立たなくてもいい、生きていく資格が無くなる恐怖もない、食事に困ることも無い! そんな保障がもしあったら、それは最高の世界じゃない⁉ だって、生活の心配がほとんどなくなるんだよ⁉ 不安やら問題って大体、生活が安定すれば解決するものでしょ⁉ 生活の不安定に関係のない問題なんて、この世にほとんどないでしょ! だから、それがあるなら、人の人生に問題なんて起こらなくなるってことだから──だから、それがあるなら最高の幸せ世界じゃない⁉ じゃないじゃない⁉」
「……まぁ、それはそうだけど」願いといっても、物質的な話じゃなく概念の話だった。クリスの願い──そこまでいくと、逆に即物的だ。予想外も予想外の願いである。「お前、神にでもなるつもりかよ……理想の世界を夢想するなんて。楽しそうだけど、さすがにスケールがデカすぎだろ……」
「えぇー⁉ うそぉー……ソラなら分かってくれると思ったのに。え、いらないの? 一緒に戦って、二人で得ようよ! 無条件で生きていく権利をさ!」
「誰と戦うんだよ……誰と戦ったら、それ貰えるんだよ……」手を走る人みたいに振って、大声大口で宣言する今のクリスが真面目かどうか微妙なところだったけれど、その提案はともかく、願いとしてそんな未来図を持っていることは本心のようだ。さすがのクリスお嬢様だった。「いや、言いたいことは分かるよ。たしかに、どれだけ人類そのものが豊かになろうと、人間として生まれてきたからには、生きていくのには資格がいる……それはその通りだ。今まであった歴史の先に存在するこの国で、ぼくは生きていけますよ、適合できますよ、って──そう、人間は自分の人生で証明しなきゃならない。生まれてくる前の人間が昔に作ったこの国に、後から生まれた方が合わせなきゃいけない……そういう話だろ?」
「……いや、そこまで細かい条件設定は考えてなかったけど」
あれ。ここまで細かい話ではないようだった。
はりきりすぎた。
ならば──どういう話なのだろうか。
「私が言ってるのは……単純に、この生活を続けたいなぁっていう、そういう話だよ」
言って。
言って。言って。
クリスは、ぼくの手を取った。
クリスは、ぼくの手を取った。
「…………っ」
「分かる? 私の言いたいこと」クリスが言う。「この生活を、私は続けたいんだ……私がいて、ソラがいて、プロキオ村があって、リゲル国があって。そうして、皆が幸せに生きていくの」
クリスは言う。
クリスは言う。
にっこりと、太陽みたいな笑顔。幼馴染でなければ、眩しすぎて目が潰れると思うほど──綺麗で可愛らしい、笑顔。
クリスは言う。
「それが、私の幸せなの。このまま、私の人生、途中で折れたりせずに──最後までソラと一緒に暮らせたらいいな、って。私は、そう思ってるんだ」
クリスは言う。
「それに一番近い具体的な方法が、無条件の生存権なわけ……私の願いは、この生活が永遠に続くこと。分かった? ソラ」
「…………分かった」
そう、答えるしかなかった。ここまで言われては、そう答えるしかなかった──まったく、と。平伏したい気分だ。軽い質問が、こんな超ド級の返答になって帰ってくるとは。
この金髪幼馴染は──ぼくより何倍も、相手の幸せを願っている。無意識にではなく意識的に、相手の笑顔が絶えない人生を願っている。普段の言動はふわふわしているところもあるのに、ことこういう話になったら、譲らない奴だった。
こいつは。ぼくより何倍も──ぼくのことを考えている。
「……まぁ。今日は、もう、いいか。いい加減、帰らなきゃ怒られる」
「そうだね。ふふぇあ……早く帰って寝よぉー。話疲れちゃったよ」
「ぼくもだよ」
それで、今度こそ。ぼく達は、二人並んで、家までの道を歩いた。今日は、これで終わりだ。時間も遅い、このまま家に帰って、明日までお別れである。
明日。
明日が来る。
明日も遊ぶ。
まぁ、どうせ断っても、無理矢理連れて行かれるのだし。決定事項なのだろう、それは。もし断っても、ぼくはこやつに、連れ出されるのだ。その光景。ぼくには、目に見えて、予想できた。
そもそも、この金髪友達は、ぼくの返事は聞いていないのだ。返答したところで、意にも介さない。
結局、ぼくの明日の予定は、もう確定しているのだった。
そもそも、ぼくに予定があるわけではないのが、こいつの追い風になっているのでは──うーん。ならば、この際、わざと予定を作ってみようか。そうして、クリスの誘いを、断ってみようか。
考える。
考える。
考える──いや、ダメか、それは。
故意に予定を作ったのがバレた時には、クリスにどんなことをされるか分からない。それは避けた方がいいだろう。だから、ダメ、だった。
なら、本を読むという予定はどうだろうか。その理由を盾に、誘いを断るのだ。
いや。いや。そういえば。それも、朝敗れたばかりだった。うん。どうしようもない。
どうしようもなかった。
まぁ。
そもそもの話をするなら──クリスの誘いを断りたいのか? という話が、そもそも根っこにあるけれど。
まぁ。それを考えるのは、今はいいだろう。思考を戻そう。
どうやって、クリスの誘いを断るか、だ。考えた二つの策は、ダメだった。
うーん。
じゃあ、母さんに頼んで、病気になったと言ってもらうのはどうだろうか。仮病だけれど、母さん経由ならば真実味は増すはず。
それなら、さすがのクリスといえど──
「ん?」
と。
そこで。
そこまで考えたところで、違和感を覚えた。
「あれ?」
一緒の帰路なのだ。いつもなら、クリスの話し声を聞きながら、ぼくは家に帰るはずだ。
なのに。
クリスの声が聞こえない?
「…………」
後ろを振り返って見る。
見る。
上。下。地面。
そこには。
「え?」
そこには、ぼくの足跡しか見えなかった。
長い間、ぼく一人で歩いていたのだろう。ぼくの足跡しかなかった。
それは遠くを見ても、同じで。
つまり。
クリスが居ない。
クリスがいなくなった。
「は?」