08
いつもより短めですが。
「ねぇ、リゼット。わたし、リゼットのこときらい」
脳裏にそんな言葉がよみがえる。
美しい黒髪を赤いリボンで結った猫目が愛らしい少女。
母親のお茶会について行くうちにいつの間にか仲良くなった同い年の女の子。
――エリーヌ・シュザン。
大好きだった友人。
(いえ、友人だと思っていたのは、わたしだけかしら……)
幼い頃、エリーヌとはたくさん遊んだ。たくさん一緒に笑い合った。
だけど、そんな関係は一瞬で終わってしまった。
「嘘つき」
六歳ぐらいの頃だろうか。
王宮で開かれた大規模な茶会で一緒に遊んだ。生け垣でつくられた迷路庭園で一緒に迷子になった。そこで出会った男の子二人とも仲良くなって。楽しい思い出ばかりで終わるはずだった一日。
「もう、リゼットの声なんて聞きたくない」
お茶会の終わり際、エリーヌはリゼットの言葉全てを否定した。
「だって、全部嘘なんでしょ」
嘘なんてついていない。何度そう伝えてもエリーヌは信じてくれなかった。
どうして信じてくれないのかという憤りよりも、悲しさが上回った。信じてもらえない悲しさ。虚しさ。苦しみ――恐怖。
怖かった。信じてもらえないこと、否定されることが。
「もういっそ、なにも言わないで」
喋らない。そうすれば、否定されることもない。自分の言葉が嘘にされてしまうこともない。エリーヌにも信じてもらえるだろうか。
リゼットは口を噤んだ。
言葉を声に出すことが怖くなってしまったから。信じてもらえないことが怖かったから。
お茶会に行くことを止めたリゼットは、それ以来エリーヌには会っていない。
何故エリーヌに嫌われたのか、嘘つきといわれたのか、リゼットには今でも分からない。
けれど――。
(ああ……、わたしはエリーヌから逃げていたのね……)
社交界には行きたくなかった。それは、エリーヌがいるから。本当に避けたかったものはエリーヌだったらしい。もう一度会うことが怖かったのだ。自分を否定した少女に。
苦々しく表情を歪める。今にも泣いてしまいそうだった。
(エリーヌ……)
視線の先に立つ女性は間違いなくエリーヌだった。
見間違えるはずがない。あの美しい、闇よりも深く艶やかな黒髪を、リゼットが見間違えるはずはなかった。
昔の無邪気な面影はどこにもなく、エリーヌは貴婦人らしく美しく微笑んでいた。
誰か、同じ年頃の青年と会話をしている。
リゼットは縫い止められたようにじっとエリーヌを見ていた。けれど、エリーヌがそれに気づくことはなかった。
ふいにフェルナンが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの、お嬢さん?」
「!」
金縛りにあったようにエリーヌから視線を逸らせなかったリゼットの肩がはねる。そういえばこの男から離れようとしているところだった。
フェルナンはリゼットの視線を追うように大広間の方を見た。
リゼットの視線の先にはまだエリーヌがいる。
けれど、リゼットが何に動揺したのか分からなかったのだろう。再びリゼットに視線を戻して不思議そうに首を傾げた。
「何をそんなに怯えているんだい」
怯えている。エリーヌに。
そう、怯えている。だから、目が離せない。怖いから、見つめてしまう。
視界を塞ぐようにフェルナンが立つ。エリーヌの姿が隠される。
そのことに安堵してしまう。
「ふぅん?」
何かを察したようなフェルナンの声に顔を上げる。
(あれ……?)
どこか違和感を覚えた。違和感と言うよりも、既視感――?
じっとフェルナンの顔を見つめる。
けれど、どこにもおかしなところはない。何がそんなに気になったのか、もうリゼットには分からない。気のせいだったのだろうか。
「そんなに見つめられると照れてしまうね」
くすり、と甘い笑みを浮かべたフェルナンは、いつかのようにぐいっとリゼットの手を引いた。
暗い夜の闇へとリゼットを連れて行く。
抵抗しなかったのは、大広間には行けないから。あそこにはエリーヌがいる。
庭に下りる。
大広間の光はここまでは届いてこない。エリーヌはここにはいない。
冷たい風が頬を撫でる。
フェルナンが立ち止まり、振り返った。表情は暗くてよく見えない。
「――いい夜だね」
天を仰ぐ。
夜の天井には三日月が飾られ、たくさんの星が散りばめられている。
美しく幻想的な夜景。
「空は二つの顔を見せる。明るい昼と暗い夜。君はどちらが好き?」
どちらが好きかなど考えたことはない。強いて言うなら昼だろうか。夜は暗くて何をするにもやりづらい。本を読むとなると目が疲れる。
「まあ、そんなことはどうだっていいね。君はあそこにはいたくないんだろう? それならここで少し話をしようか」
気を遣われたのだろうか。
前回とはまた随分様子が違う。
あの傍若無人な態度には何か理由があったのか。それともただの気紛れか。
「君は、どんな商品に高い価値がつくと思う?」
リゼットは怪訝そうに眉をひそめる。
唐突に何の話だろうか。先程の昼と夜の質問もよく分からなかったが、フェルナンは何が聞きたいのだろう。
答える気はなかったが、それでも考えてしまうのはリゼットの癖なのだろう。
高い価値がつくもの。
価値とは、ものの値段と捉えればいいのだろうか。
それならば、貴重なものだ。宝石のような。だが、もちろん人に求められるものでなくてはならないだろう。誰も欲しがらないものに高い値段を付けたところで売れるはずがないのだから。その条件をクリアした上で、数が出回っていないもの。そういったものに高価格がつくのではないだろうか。
「珍しくて、魅力的なもの。それから、価値があると認められたものだよ」
前半は同意見だが、後半の言葉には納得がいかない。
「どんなものに高価値があるのか」という問いに、「価値があると認められたもの」という答えでは、同じようなことを繰り返しただけではないだろうか。答えになっていない気がする。
「価値を決めるのは、権威だよ。それは王様やお妃様かもしれない。君のような少女かもしれない。もしくは、新聞の記者かもしれないね。共通点は、人の目が集まることだ。その人たちが、これには価値があるんだと知らせれば、価値が生まれる。そしてそれは流行りになる」
そうなのかもしれない。
リゼットのような少女、というのは社交界には流行を作るような令嬢がいるからだろう。リゼット自身がそうだというわけではない。
人気のある人間の影響力によって一時的にでも価値が生まれる。そう言われれば納得できる気がした。
王家御用達という店がある。
どこも高級で、人気のある店だ。
フェルナンに言わせれば、王家という権威が価値を保証した店。
そういった店には、同じ品質でまったく同じものを扱う店よりも、ずっと高い価値が生まれるのだろう。
「そんなことで変動する将来の価値すら見抜かなくちゃならないのが、商人だ。今、売れているものを仕入れるのでは遅い。これから売れるものを見つけていかなくてはならない。でないと、大きな利は望めない」
フェルナンの実家アデールは商家だ。
リゼットは世間のことに疎い方だが、アデールの名は聞いたことがある。おそらく大規模な商会なのだろう。
だからフェルナンが商売の話をするのはそう不思議なことではない、のかもしれない。だが、何故今そんな話をするのだろうか。
「僕はこれでも結構目利きには自身がある。人を見る目もあると思ってるよ」
自慢話をしたいのだろうか。
フェルナンが得意げに笑っているような気がした。
「あそこが嫌なら、僕が連れ出してあげるよ。逃げ道をあげよう」
急に耳元に迫った唇が、低く囁く。
耳にかかる吐息に背筋がぞくりとした。
「君に求婚しよう。君は、価値ある女性だ」
跪いたフェルナンは、リゼットの指先にキスを落とした。
ありがとうございました。