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06



 サミュエルは窓の外を眺めていた。

 国立図書館には前庭がある。芝生の緑が美しい前庭だ。市街の人たちのちょっとした憩いの場でもある。

 芝生の真ん中には図書館の入口に続く道があり、その道に沿って細い木が等間隔に立ち並んでいる。

 さらに図書館の窓の傍にもいくつか似たような木が植えられている。

 サミュエルはその木々に滴る雨雫を眺めていた。

 弱々しいように見える一枚一枚の葉は、しなやかに重たい雫を跳ね返す。ここからでは、ザーザーという音しか聞こえないが、きっと小気味良い音が鳴っているに違いない。


「おーい、サミュエル。大丈夫か?」


 無自覚にぼんやり雨を眺めていたサミュエルはかけられた声にビクッと肩を跳ねさせた。

 小声で声をかけてくれたのは、先輩司書のイレールだった。


「イレールさん。すみません。少し、見惚れてました」

「庭の景色にか? 今更?」

「はい。たまに、ふとした瞬間、美しさに気づくときってないですか?」


 今更も何も、サミュエルは今が美しいと思ったのだ。この先同じ景色を見たとして、同じように感じるかは分からない。精神的なことが影響しているのかは分からないが、ほんの一瞬、光るようにその情景が美しく思えて仕方ないときがあるのだ。


「……悪い。残念ながら俺にそういう情緒を感じる繊細さはない」

「いえ、人それぞれです」


 イレールの正直さにサミュエルは頬を緩めて笑う。

 何が心の琴線に触れるかなど個人個人で違って当たり前だ。


「いい加減で仕事に戻れよ、あんまりもたもた仕事してると司書長の愚痴がまた増えるぞ」

「そうですね、すみません」


 サミュエルは返却された本を一冊一冊書架に戻していく。配列に気をつけながら。たまに、順番がおかしいものを整理しながら。

 湿気を吸った本は少し重い気がする。

 サミュエルが本を好きになったきっかけは、この重さだ。

 薄い紙一枚では重さなど感じない、吹けば飛んでいく軽さなのに、何十枚、何百枚とまとめると嘘みたいに重くなる。

 そして、その紙一枚一枚全てにびっしりと文字が、知識が埋め込まれている。

 そのことに、無性に感動したのだ。

 本との出会いを果たした当時はまだ孤児院にいて、今よりも知識を欲していたから宝の塊に見えた。

 世の中を全く知らなかったその頃は、世界中全ての本を読み尽くしたいと思っていた。そうなれば、全知にも等しいのだと子供らしい安直な考えで。

 だが、知識というものは恐ろしいもので、身に付ければ身に付けるほど、知れば知るほど己が何も知らないのだということを知らされる。

 世の中全ての本を読み尽くすなど、人の短い一生では到底為し得ないことだと知り、一方で、人々の知識への欲深さというものを知った。

 本が重いのは紙の束だからではない。知識に対する欲深さが本を重くしているのだ。

 サミュエルの口元に小さな笑みが浮かぶ。

 知識欲は際限がない。

 世の中知らないことが溢れすぎているから。

 それが幸か不幸かは人によるのだろう。


「サミュエル君」


 聞き覚えのある声に、サミュエルは振り返る。

 そこにいたのはきっちりとした身だしなみの厳格な雰囲気を纏った初老の男。帽子を被り、杖をついている。


「久し振りだね」


 懐かしそうに目を細めた男は、笑みの形に皺を刻む。


「ベルトン教授……」


 クレマン・ベルトン教授。サミュエルが学生時代世話になった教授だった。


「お久しぶりです。何かお探しですか?」

「いや、君に用があってね」

「自分にですか?」


 サミュエルは首を傾げる。

 クレマンに会うのは卒業以来だ。何の用があるのかなど見当もつかなかった。


「ああ、少し君に頼みたいことがあってね」

「何でしょうか」


 クレマンは真剣な眼差しでサミュエルを見据えた。


「サミュエル君。私の研究の跡を継ぐ気は無いかね?」

「え……」


 一瞬、何を言われたのか分からず、目を瞬いた。


「興味があれば、今度私の研究室に来てくれたまえ。仕事中に失礼したね。それでは私はこれで」


 クレマンはくるりと身を翻す。コツコツと杖をつく音が遠ざかっていく。

 仕事中のサミュエルに配慮して、もともと長居する気はなかったのだろう。話はまた改めてというわけだ。

 あんな風に言われてサミュエルが興味を持たないわけはないのだから。


「……」


 なんとなく見遣った窓の外で風が吹いた。

 激しい風ではなかった。

 けれど、そよと吹かれた木の葉は、ひらりと簡単に枝を離れ、雨の雫に打たれて地に落ちた。

 サミュエルは何故かその光景から目が離せなかった。



 *



 朝日が力強いと感じたのはいつの日のことだったか。

 リゼットはくらくらするような朝の光に目を覚ました。

 最近徐々に日が昇る時間が早くなっている。季節が移り変わっていくのをそんなところから感じる。

 もう何日図書館に行っていないだろうか。

 今日が始まってしまうのが嫌で、リゼットは布団の中に潜り込んだ。

 眠気はない。太陽の光は完全にリゼットの目を覚ましていた。

 覚醒しきったリゼットの頭は、しかし現実逃避を始める。


(もう今日だなんて嘘だわ。わたしはきっと悪夢を見ているの……夢を見るなら図書館に行きたいわ。図書館に行って、サミュエルさんとお話するの。大学の勉強や、雰囲気を教えてもらうの。あと……大学を志した理由も、知りたいわ)


 リゼットは溜息を吐く。

 結局、それなのだ。リゼットには大学を目指す確固たる理由がない。未だ、見つからない。

 見つからない内に、今日が来てしまった。夜会に参加する日が。

 リゼットがしばらく布団の中でもぞもぞしていると、やがてコンコンとノックの音が響いた。一日の始まりの合図だ。

 リゼットはぎゅっと布団を握りしめる。

 けれどしばらくすると、無情にもリゼットを守る頼りない盾はばさりとはぎ取られ、リゼットは渋々今日が始まることを受け入れた。

 ――今日は、きっと人生で二番目に悪い日になるだろう。

 そう思いながら。



「まあ、リゼ。素敵よ! やっぱり私の娘ね、誰にも負けないぐらい美しいわ!」

「……」


 リゼットを褒めるようでいて、さり気なく自賛するベアトリスに、呆れた視線を送る。

 美しさなど、なくていいのだ。自分には。

 着飾ることも無用の長物。

 見事に仕立てられた深緑色のドレスに、少しでもときめいてしまった自分を追い出す。

 鏡の前に立ったリゼットは確かに、由緒ある家のお嬢様だった。

 綺麗に着飾ってもらったのに、綺麗に着飾られた自分の姿に嫌気が差す。


「笑わなきゃ駄目よ、リゼ。そんな顔してたら怖くて誰も寄ってこないわ」


 その方が都合がいい。

 余計にふてくされた表情になるリゼットに、ベアトリスはあらあらと笑いながら、ネックレスを付ける。

 赤い石がリゼットの胸元で光った。

 しかしベアトリスは、納得のいっていない表情でそのネックレスを外した。


「うーん、違うわね……やっぱりネックレスも新調すべきだったかしら」


 アクセサリーケースを開けて別のものを探す。

 いろんな石がついたネックレスの収納されたアクセサリーケースは、もはや宝石箱みたいだ。

 その中に、ふとリゼットの目を引く色があった。


(優しい、オレンジ色……)


 リゼットが目を留めたことにベアトリスは目ざとく気づく。


「あら、リゼット。いいのがあったのね?」


 リゼットは迷いなく、こくりと頷いた。

 手に取ったのは、キラキラと光る太陽のようなオレンジ色。優しく世界を照らすオレンジの色。この色はきっとリゼットの心を励ましてくれる。


「トパーズね。良い石を選んだわね」


 ベアトリスは嬉しそうに笑って、リゼットにそのネックレスをつけてくれた。リゼットの胸元に朝日のような夕日のようなオレンジが光る。

 リゼットの気分は少しだけ上を向いた。



「リゼット、大丈夫かい? 無理そうなら今からでも……」


 心配そうな表情をしたエドガールが、リゼットの顔を覗き込む。

 リゼットが反応するより早く、エドガールの隣に座るベアトリスが口を開く。


「甘やかさないでくださいな。あなたがそうやって甘やかすから、リゼは今苦労してるんですよ?」


 冷ややかな視線にエドガールはたじろぐ。


「わ、私のせいなのか……? いや、ベアトリスも以前はかなり……」

「だから私も反省しているのですわ。あなたもしっかり反省してくださいな」


 王宮で開かれる夜会へと向かう馬車の中は賑やかだった。

 リゼットは自らを乗せて運ぶ馬車の窓から、通り過ぎていく風景を見つめた。

 馬車は楽だ。御者と馬があってこそだが、座っていれば目的地に運んで行ってくれる。

 馬車の進む道は、綺麗に舗装されている。おかげで揺れも少ない。

 本来リゼットの進むべき道もそうなのだろう。この道のように両親によって綺麗に整えられている。その上をリゼットが進めばきっと、酷い揺れに悩まされることなく安定して進んでいけるのだろう。それこそ今みたいにぼんやりと座っているだけでも。

 車輪が小石か何かを撥ねた振動が伝わってくる。

 安定した道にも小石程度の障害はあるらしい。

 けれど均されていない道を通るよりもずっと障害は少ないはずだ。それが家族の言うリゼットの幸せなのだろう。

 均されていない道というのは、きっと馬車では通れない。自分の足で進まなくてはならない。苦労がたくさんあるだろう。果たしてそれは不幸なのか。


「リゼ、また変なことを考えているでしょ」


 顔を横に向ければ呆れた目をした兄のディオンと目が合う。

 ディオンはよくリゼットにそんな視線を送ってくる。

 リゼットが首を振るとディオンはやはり呆れを滲ませて溜息を吐いた。


「相変わらずなんだね、我が妹は。夜会に出るっていうから、考えを改めたのかと期待した俺が馬鹿だったよ」


 考え、とは大学と結婚についてのことなのか、声を発しないことなのか。あるいは両方を指しているのかもしれない。

 リゼットはディオンに向かってベッと舌を出した。ディオンのやれやれとでも言いたげな動作に少しイラッと来たから。


「品がないね、リゼ。言いたいことがあるなら、口で言いなよ」


 ぷに、と頬を突かれたリゼットは、嫌そうに顔を背ける。


「久し振りに会ったのに随分つれないんだね。お兄様は悲しいよ……しくしく」


 わざとらしく泣き声をあげて涙を拭ってみせる兄にリゼットはじとりとした視線を送った。

 ディオンは普段、大学に通うため離れて暮らしている。だからリゼットが兄に会ったのは久し振りだったが、相変わらずのようだった。


「と、まあ、悪ふざけは置いておいて。夜会はそう嫌なものでもないよ、リゼ」


 真面目な顔になったディオンに、リゼットはきょとんとする。

 リゼットが浮かない顔をしていたからそんなことを言ったのだろう。だがディオンが夜会に肯定的だとは思わなかった。

 ディオンも夜会など上流階級の集まりは好きではなかったはずだ。

 遠く離れた大学に通うことで心境に変化でもあったのだろうか。


「俺はいつもこう思って夜会に参加している。――美味い酒飲み放題、とね」


 やはり兄は兄だった。リゼットは呆れた視線を返すのだった。


ありがとうございました。

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