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本日二度目の更新です。



 リゼットの去った部屋で、サミュエルは貰った紙を開く。

 先程の会話で使っていたものと同じ紙なので、彼女の綺麗な文字がたくさん並んでいる。その一番下に、新たに文字が書かれていた。


『次会うときは、もっとあなたのことを教えて』


 お礼の言葉と共にそう記されていた。

 サミュエルの表情が徐々に緩む。

 サミュエルはその紙をそっと丁寧に折り畳み直した。自分以外誰にも見られないように。


「おい、すごいにやけてるぞ」

「え、あ……見てないですよね?」


 折り畳んだ紙を隣に立った司書長の目に入らないように手の平で包むように隠す。

 司書長は手をひらひらと振った。


「見ない見ない。お嬢さんがおまえに渡したものだからな」

「……っ!」


 彼女が、自分に。

 司書長の言葉に改めて喜びが込み上げてくる。

 今まで、彼女にとってサミュエルは司書の中の一人に過ぎなかった。

 けれど今日言葉を交わしたことで、名前を覚えてもらえた。呼んでもらえた。また来ると言ってくれた。サミュエルのことを教えて欲しいと興味を持ってもらえた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。


「……夢じゃないですよね」

「良かったな、サミュエル」


 ぼんやり呟くサミュエルににやりと笑う司書長。

 サミュエルは小さく折り畳んだ紙を大事に鞄にしまい、木棚の扉をきっちり閉める。普段は使わない鍵をしっかりかける。サミュエルは値の張るものを持っているわけでもないので、面倒くさがっていつもは扉についた鍵を使わないのだ。


「そういえば、よく持ってたな。大学時代の帳面ノートなんて」

「ああ、リゼットさんが哲学書を読んでいるのを見て懐かしくなりまして」

「……あながち偶然でもないんだな」


 司書長は呆れた眼差しだ。

 もちろんサミュエルが帳面を鞄に入れていたのは、リゼットに渡すためではない。

 リゼットともしも話ができたときのための話題用だった。

 哲学に関心があるのなら、講義で学んだことも興味を引くかもしれないと思い、休憩時間にでも読み返そうと持ってきていたのだった。

 まさかリゼットがウォルドー大学を目指しているなど思いもしなかったので、こんな形で役に立つとは考えていなかった。


「あげるんじゃなくて貸すのがおまえらしいな。弱気で。いやある意味強気なのか?」


 講義の帳面などあげてしまっても問題なかったが、あえて貸すと言ったのは、今日みたいにリゼットが返しに来てくれる状況を作り出すためだった。

 帳面は言うなれば質だった。

 何か繋がりを保っておかなくてはもう会えないのではと不安だったのだ。


「ぐ……しょうがないじゃないですか。せっかく少し仲良くなれたのに、これきり会えないとか辛すぎます……」

「ああ、褒めてんだよ。意外と頑張るなって」


 大学を目指す彼女にまた来て欲しいと下心を持って帳面を差し出すことは卑怯だとは分かっていた。後悔はしないが、罪悪感はある。純粋に夢を追う彼女の気持ちを利用してしまっているようで。


「ところでお嬢さんは大学を目指してるのか?」

「はい、ですが親御さんには反対されているみたいです……」


 大学を目指す娘に図書館へ行くことを禁じるということは、応援されていないということだろう。

 もちろん図書館に来なくとも勉強はできる。大学の試験に合格することもできるだろう。

 しかし図書館は知の保管庫だ。個人では蔵書しきれない書物が大量に収まっている。勉強にも調べ物にも便利な場所だ。そこに行くことを禁ずるということは、勉強の手段を一つ封じること。応援する者がすることではない。


「ま、だろうなぁ。俺が親でも応援しないだろうな。息子だったら大歓迎だろうが」

「そういうものですか」


 子供のいないサミュエルにはよく分からなかった。


「そりゃ、可愛い娘に余計な苦労して欲しくはないからな」

「ですが、だからといって、結婚というのも飛躍しすぎな気がします……」

「いやいや大事な娘には良い縁を結ばせたいだろ、大学行かせるより――って、あのお嬢さん結婚するのか?」

「今司書長が言った通りですよ。親御さんは結婚させたいのでしょうね」

「ああ、なるほどな。それでおまえにしては頑張ったわけだ」

「う、まあ、はい。でも純粋に、応援する気持ちもありますよ」


 学ぶことは悪いことではない。

 知識を付けすぎた女性はあまり好まれない風潮があるが、サミュエルはそうは思わない。

 学びたいという志があるのなら、男女など関係なく学ぶべきだ。

 学問研究は一人では成り立たない。受け継いでいく者がいてこそだ。そうでなければ、哲学も神学も医学も法学も何もかも今あるようには発展して来られなかっただろう。

 そしてそれらを男が担っていかなくてはならない理由はない。


「それなら、おまえがお嬢さんと結婚すればいいんじゃないか?」

「う、えぇぇっ!? ななな、何言ってるんですか、司書長!」


 さらりととんでもないことを口走る司書長に、サミュエルは目を白黒させる。

 結婚も何もまだほとんど互いのことも知らないというのに。


「おまえはお嬢さんが大学に行くのを応援してるんだろ? なら、お嬢さんは二者択一の選択をしなくて良いことになる。結婚もできるし、大学も行ける。おまえは大好きなお嬢さんを妻にできる。良いことだらけじゃないか」

「た、確かにそうですが……いえ、待ってください。リゼットさんが嫌かもしれませんし、何より親御さんが自分など相手にもしませんよ」


 サミュエルは生活に困るほど貧乏というわけでもないが、上流階級のお嬢様を娶れるほどの地位も裕福さも持ち合わせていない。しがない国立図書館の司書でしかない。

 もし万一仮にリゼットが受け入れたとしても、娘を大切にする彼女の親が受け入れるとは到底思えなかった。


「やってみなけりゃ分からないじゃないか」

「いえ……そもそもそういった、相手の弱みにつけ込むような行為はどうかと思います。結婚なんて一生のことなのに」


 確かにサミュエルはリゼットのことが好きだが、一番は彼女の幸せを願っている。

 司書長の提案は彼女にとっての選択肢を一つ増やすようでいて、他の選択肢を封じるようなものだ。彼女の意志で選んだのではなく、マシなものを選ばされたということになりかねない。

 酷い選択肢を並べて、最後にほんの少しマシな選択肢を提示するなど少々悪質ではないだろうか。

 そんな卑怯な方法で彼女も自分も幸せになれるとは思えなかった。


「ま、だよなあ。おまえはそういうやつだよ」


 司書長も本気で言っているわけではなかったらしい。


「さて、そろそろ仕事に戻るか」

「はい」


 部屋を出る司書長に続く。

 昨日ぼんやりしていた分、今日はしっかり働かなくてはならない。本来はそんなことで仕事に影響を来すべきではないのだが。


「お、サミュエル! どうだったんだ? あのご令嬢とは」

「イレールさん」


 司書室を出たところで、元気な声と共にがっしりと肩を掴まれた。

 先輩司書のイレールだった。休憩をとりに来たのだろう。

 サミュエルは恥ずかしそうに笑みを浮かべた。


「どうも何も少し話をしただけですよ」

「話せたのか、良かったな!」


 司書長に気づかれていた時点で薄々勘付いていたが、サミュエルの気持ちはダダ漏れだったらしい。

 イレールは我が事のように喜んでくれた。

 大柄で見た目は少々怖いかもしれないが、いつも元気なイレールは気のいい同僚だ。

 イレールだけではない。サミュエルの同僚たちは皆優しい。

 個人的な理由で迷惑をかけてしまっているのに、心配してくれるのだから。


「はい。ありがとうございます」


 恵まれた環境にいることに感謝しながら、サミュエルは仕事に戻った。

 その後、他の司書にもイレールと似たようなことを聞かれ、どれだけ自分は分かりやすいのだろうと反省するのだった。



 *



 リゼットを迎えに来てくれたのは、いつも図書館まで送ってくれるメイドだった。

 図書館の外は細い雨がしとしとと降っていて、メイドがリゼットに傘を差しかける。

 リゼットは借りた帳面ノートが濡れてしまわないように胸の前で抱きしめた。

 メイドは空いている手の平ですっとある方向を指し示す。


「あちらで、奥様がお待ちでございます」


 図書館の正面入口の前は芝生が茂り、ベンチが置かれたちょっとした庭になっている。

 その前庭の向こうが馬車や人の通る道だ。

 雨のせいか人通りの少ないそこには、見慣れた馬車が一台止まっていた。

 リゼットはごくりと唾を飲み込む。

 雨のせいで空気は湿っているはずなのに、唇が乾くような気がした。

 メイドが馬車の扉を開く。彼女にお辞儀をする余裕はリゼットにはなかった。

 リゼットと目が合った母親のベアトリスはにこりと微笑む。


「どうしたの? 早くお乗りなさいな、リゼット」


 優しい口調とは裏腹に雨よりもひんやり冷たい声に、リゼットは怯みつつも馬車に乗り込む。尻込みしていて借り物の帳面を濡らすわけにはいかない。

 リゼットの後からメイドも乗り込み、扉が閉まる。無言のまま馬車が動き出す。


「長年一緒に過ごしていて、知っているつもりでも知らないこともあるのね」


 しとしと雨が降る街を行く馬車の中で、ベアトリスは困ったように溜息を吐く。


「リゼットったら、意外とお転婆だったのね。そんなに行動力があるなんて思ってなかったわ」


 糸のように細い雨だから、雨音は微かにしか聞こえない。街は静かだった。


「ねえ、リゼット。お母様は貴女に意地悪をしたいのではないのよ。だからお願い。言うことを聞いて。このままでは貴女は中途半端なのよ」


 リゼットは首を傾げる。

 ベアトリスの言いたいことが今ひとつ分からなかったからだ。

 ベアトリスは手に持っていた扇子で口元を押さえる。


「貴女は大学に行きたいと言ったわね、リゼット。けれどどうして行きたいのかしら。私が納得できるような理由が貴女は言える? 言ってご覧なさい」


 リゼットは帳面をぎゅっと握りしめる。

 ベアトリスを説得すると決めた。ならば自分の言葉で伝えなくてはならない。


「勉強を、したいから」

「それだけなら、大学に行く必要はないわ。結婚しても家庭に収まっても夫になる相手を選べばできることよ。他にはないのかしら?」


 挑戦的な視線が向けられる。

 リゼットは乾いた唇をゆっくり動かした。


「学者になるには、大学に行かなくてはならないわ……」

「学者ね……。貴女は、本当になりたいと思っているのかしら。それはどうして? それしか道がないからではないの?」


 鋭い指摘にリゼットは閉口する。

 大学に行きたい。その気持ちはあるのに、ベアトリスを説得できるような言葉が浮かんでこない。学びたい。それ以上の理由は浮かんでこない。何故、大学で学びたいのだろうか。


「黙るの? それなら駄目ね。貴女の自由にはさせてあげられない」


 リゼットは首を振る。

 必死に言葉を探すけれど、見つからない。

 学びたい。

 学問で身を立てたい。

 どれも嘘じゃない。嘘じゃないけれど、ベアトリスは納得しない。


「リゼット、無理よ。貴女は私を説得できるような言葉を持っていない。どうしてだか、分かる?」


 扇子が閉じられる。


「――本気じゃないからよ」

「っ、違うわ!」


 思わず大きな声で否定する。

 しかしそれは図星を指されたと言っているようなものだった。

 ベアトリスはくすりと冷ややかな笑みを浮かべる。


「何が違うの? 貴女は言い訳にしているのよ。大学を、勉強を言い訳にしているの。そうして嫌なことから逃げているだけよ」


 サミュエルの帳面を抱いて、首を振る。

 違う。そんな理由じゃない。きちんと本気だ。そんなことは、そんなはずは――。


「じゃあ聞くわ、リゼット。貴女が明確に大学を目指して勉強を始めたのは一年前だったわね。たしかに入学は十六からが一般的だけれど、どうしてそのタイミングだったのかしら?」


 扇子をひらりと優雅に開く。

 リゼットは俯く。


「そう、あの時期にお見合いの話があったわね。成人も目前ですもの。当たり前のことなのだけどね。貴女は酷く嫌がって、結局相手とは会わなかったわね」

「……」


 ベアトリスの声に責める色はない。ただ淡々と事実を言っているだけだった。


「貴女は焦ったのね。これまでの、引き籠りで、会話を必要としない生活が終わってしまうと。結婚が現実味を帯びてきたことに不安を覚えたのね。まあ、貴女にそれを許してしまっていた私たちにも非があることでしょうけれど」


 ベアトリスは憂いを帯びた息を吐く。


「だから、貴女は現状維持のための策を用意した。それが、大学。違うかしら?」


 リゼットは俯くことしかできなかった。

 違うと首を振ることも、そうだと頷くこともできなかった。

 煮え切らないリゼットの態度にベアトリスはすっと目を細めた。


「中途半端な決意で逃げるくらいなら、親の言うことを聞いた方がいいわ。後悔してからじゃ遅いもの」


 馬車が徐々に速度を緩めていく。


「――リゼ」


 ベアトリスはちらりと、リゼットの抱えた少し古ぼけた帳面を見遣る。

 馬車が止まった。


「もしも本気だというのなら、黙っては駄目よ。言葉を尽くして、食い下がりなさい。逃げるのではなく抗いなさい。お母様はリゼの挑戦をいつでも受けるわよ」


 開いた扉から、ベアトリスは身軽に外へと出て行く。

 リゼットはそれをぼんやりと見送った。




ありがとうございました。

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