04
『本を返したいのだけど、いいかしら』
お互いに落ち着いたところで、リゼットはそう書いた紙をサミュエルに見せる。
サミュエルは頷き、「少々お待ちください」と言って、リゼットが持ってきた本を手に部屋を出て行った。
その様子はいつもカウンターで顔を合わせていた司書で、先程までのサミュエルの面影はほとんどなかった。改めて先程の拙いやりとりを思い出してリゼットはくすりと笑った。ただ自己紹介をしただけなのに、二人して赤くなって狼狽えていたことがおかしくて。
「あ……そういえば今日も本を借りていきますか?」
カウンターで返却手続きを済ませて来てくれたサミュエルは、身軽になって戻ってきた。
リゼットは少し迷った後、眉を下げて小さく首を振った。
「え……」
サミュエルは残念そう、というかショックを受けたように固まった。
『しばらく、こちらには来れないの。母に禁止されてしまって』
そう記し、リゼットもしゅんとしょげる。本が読めないことも、図書館に来られないことも。それから、せっかく知り合ったサミュエルに会えないことも、全部残念だった。
「そ、そうなんですか……」
来館者が減ることが残念なのだろう。明らかに落胆した様子のサミュエルに、リゼットはこくりと頷くしかない。
今日は抜け出して来られたけれど、きっと明日以降は難しい。一度抜け出したことがばれれば、同じことがないように監視するだろう。
考えなしに動いたわけではない。
初めから禁を破るのは一度だけと決めていた。
ベアトリスの意志は固い。なんとしても夜会にリゼットを引っ張っていくだろう。そうなるとリゼットは夜会に出るための準備に時間を取られることになる。ベアトリスのことだから逃げ続けるのは難しいだろう。
それに、変わらず夜会には出たくないが、リゼットにはベアトリスの言葉を無下にすることもできなかった。
ベアトリスはリゼットのためを思って行動している。それが分かっているから。
だからリゼットは強くはね除けることができない。
言葉と思いを軽んじることはできない。
「あの、しばらくって、具体的にはどれくらいでしょうか……?」
サミュエルが問う。
具体的には。
『母は、結婚するまで、と』
結婚。
このままベアトリスの言葉に従ってしまったら、そうなるのだろうか。
それは、嫌だ。
ベアトリスの言葉を無下にはできない。だけど、だからといってリゼット自身の思いを蔑ろにはしたくない。
リゼットは結婚するよりも、大学に行きたい。
人生は自分のものだ。選択もそれにつきまとう後悔も責任も全部自分のものだ。だから。
「け、結婚……そう、ですか……そうですよね……」
酷く落ち込んだ様子のサミュエルにリゼットは首を振る。
『わたしは、結婚しない』
そう書いた紙を読んだサミュエルは一瞬パッと顔を輝かせたが、すぐに沈鬱そうに暗い表情になった。
リゼットとしては、結婚しないことは大学に行くことであり、延いては今まで通り図書館に通うことを意味したつもりだった。それなのに何故、とサミュエルの暗い表情に首を傾げる。
少し考えて、その理由に思い当たる。
今までの話で、結婚するまでは図書館に来られないと伝えた。今、結婚する意志がないことを伝えた。つまりサミュエルは、リゼットがもう図書館に来ないと受け取ったのだ。
慌てて紙に書き足す。
『わたしは、大学に行きたい。だから、きっと図書館には来るわ。母を説得しなくてはならないけれど』
ぎゅっと拳を握る。要はベアトリスを説得できればいいのだ。昨日のように首を振るだけでなくきちんと言葉で伝えれば、考えを改めてくれるかもしれない。
「大学……え? 大学? ……ちなみにどこの大学を目指してらっしゃるんですか?」
サミュエルの表情は少し明るくなり、意外なところに食いついた。
大学に行きたいと言って、そんなことを聞かれるのは初めてだ。皆一様に、考えを改めるように諭してくるばかりだったから。
サミュエルは身内ではないから、違う反応なのも当たり前かもしれないけれど。
即座に否定されなかったことが少し嬉しかった。
怖々、口にする。
「……ウォ、ルドー」
口に出したのはリゼットにとって大切なことだから。
口に出せたのは、サミュエルには話せると思ったから。
それでも自分の言葉への反応を見るのは怖い。そんなところ、行けやしないと言われてしまわないだろうか。鼓動の音が大きくなる。
俯きがちだった顔をそっと上げる。上背のあるサミュエルの胸らへんまでしか視線は上げられなかった。
「ウォルドーですか! 自分の母校です! それで哲学書を読んでいたんですね!」
明るいサミュエルの声にリゼットは驚き、今度こそ彼の顔を見上げた。
朗らかで柔らかい笑みが浮かんでいた。リゼットの見間違いでなければ嬉しそうな笑み。
苦笑されたり渋い顔をされたりすることは多々あれど、大学の話でこんな顔をされたのは初めてだ。
むずむずとしたくすぐったさにも似た、何とも言えない感情が胸に湧く。喜びが一番近い感情かもしれない。
初めて大学を目指すことを応援されたような気がした。
(しかも、サミュエルさんの母校だなんて!)
なかなかない巡り合わせではないだろうか。
しかし興奮気味だったリゼットはふと気づく。
(あれ……? え、ウォルドーの出身なのに、司書……?)
国立図書館の司書なのだから、大学を出ているのだろうとは思っていた。しかし、ウォルドーとは。
ウォルドーはこの国一番の大学だった。
入るのも出るのも困難な、一流大学。
そこを出れば、元がどんな身分であろうと、国の中枢に食い込む官僚になることも夢では無い。
もちろん全員が全員というわけではないが、多くは官僚を志すと聞く。むしろ官僚になるためにウォルドーを卒業したがる。
国立図書館の司書も立派な仕事だが、ウォルドー出身の人間が務めるには意外な場所だった。
「お嬢さんの言いたいことはよく分かる。こいつは優秀だが、変なやつなんだ」
そう言ってサミュエルの肩に手を置いたのはサミュエルに司書長と呼ばれていた中年の男性。おそらくサミュエルの声が聞こえていたのだろう。先程出した声は少し大きかったから。
サミュエルは少しショックを受けたみたいだった。
「司書長、そんな風に思ってたんですか!?」
「あのウォルドーを首席で卒業して、図書館司書なんかに収まってるやつだからな。十分変だろ」
「誘ったのは司書長じゃないですか……!」
「まさか本当に受けるとは思わなかったな」
(首席!?)
リゼットは目を丸くして、サミュエルをまじまじと見つめる。
外見で何が分かるわけでもないだろうが、とてもそんな風には見えない。
「本は好きですし、自分に合ってると思ったんですよ。出世にはあまり興味がありませんでしたし」
「そんなこと言って、びびっただけだろ。上級役人は荷が重いとか言って」
「身の丈にあった選択をするのも賢い生き方だと自分は思います」
「そうかもしれんが……まあいい」
司書長はじとりとサミュエルを見て、小さく溜息を吐いた。
リゼットはパチパチと目を瞬く。
大学を首席で卒業したというのなら、サミュエルにはきっとたくさんの選択肢があっただろう。図書館の司書以外にもいろいろな職業が選べたことだろう。
――職業を選ぶ。
その考え方ができるようになったのはいつ頃からだろうか。リゼットが生まれたぐらいには既にもう、平民にはその権利が約束されていた。
けれど、子爵家の娘である自分には保証されていなかった。
昔から、貴族の娘には血と縁をつなぐという役目がある。生まれながらに生き方が決められていた。古い思想は今もそう大して変わっていない。特に家名と爵位を守りたい貴族の間では。
リゼットはサミュエルをじっと見つめた。栗色の瞳がたじろいだように泳ぐ。
サミュエルはきっと貴族とか上流階級と呼ばれる身分ではない。身なりも少し野暮ったいし、所作も綺麗とは言い難く、そういう身分の人からはほど遠い。
大学の門戸は平民にも開かれているが、裏口入学がある以上、お金を持たない者のための枠は自然小さくなる。その狭い門戸をくぐり、さらには首席にまで上り詰めたサミュエルは本当に優秀なのだろう。
興味がむくむくと湧いてくる。
どうして、大学に入ろうと思ったのだろうか。
司書になるためだろうか。
それとも高度な水準で学問を学びたかったからだろうか。
話が、したい。
もっと知りたいとそう思った。
じっと見つめられたサミュエルはたじろいで小声で司書長に助けを求める。
「し、司書長……!」
「良かったな、関心持って貰えたみたいじゃないか」
「へ、変なやつだと思われてたらどうするんですか……」
「事実じゃないか」
「司書長だって同じ大学じゃないですか。なんで自分だけ……」
「俺は底辺学生だったからおまえとは全く違うだろ」
司書長とこそこそ話をするサミュエルの服の裾をリゼットはくいっと引いた。
「え、あ、わわ、すみません、リゼットさん」
サミュエルの視線がリゼットに戻る。
リゼットは首を振り、小さな声で言う。サミュエルにだけ聞こえるように。
「――素敵、だと思う」
驚いたけれど、変だとは思わない。
リゼットには眩しかった。
サミュエルは司書という仕事を選んだ。自分の意志で。選ばされたのではなく、選んだのだ。それが眩しかった。
選ぶことができたのは、サミュエルが選択肢を広げる努力を怠らなかったからだろう。
リゼットも選びたい。選べる人間になりたい。
「えぇ!? いいいいえ、その、はい、あ、ありがとうございます」
サミュエルは一瞬にして顔を真っ赤にし、それから照れくさそうに笑った。サミュエルの浮かべる笑みはいつも柔らかい。リゼットもつられて笑った。
「で、だな……お嬢さん。お迎えが来ているぞ」
(え……)
明るかった気分がするするとしぼんでいく。
もう帰らなくてはならないのか。
もう少し、話をしたかったのに。
次に会えるのはいつになるのだろう。
残念に思いながらも席を立つ。駄々をこねて迷惑はかけられない。
「――あ!」
そこでサミュエルが何かを思い出したのか大きな声を出す。
びっくりしたリゼットは肩を跳ねさせ、サミュエルを見る。
「少し待っていてください、リゼットさん!」
「どうした、サミュエル?」
司書長も不思議そうにサミュエルを見遣るが、返答することなくサミュエルは壁際に設置された木棚の一つを開ける。
荷物が入っているかと思いきや、ほとんどが本だった。
サミュエルは本に追いやられるようにして収まっていた大分使い古された革製の鞄を引っ張り出す。その中から取り出したのは一冊の帳面。
リゼットのもとに戻ったサミュエルはそれをリゼットに差し出した。
「これは、哲学の講義をまとめた自分の帳面です。大学の講義なので内容は難しいかもしれませんが、基礎的なことも書いてあるので、勉強の役に立つこともあると思います。良ければお貸しします。ですので、あの……また、是非……本を借りに来てください!」
リゼットは目を見開く。
こんなにも誰かに大学へ行くことを応援して貰えるのは初めてだったから。
嬉しさのあまり、思わず涙がこぼれた。
サミュエルと司書長がぎょっとした顔で慌てる。
「お、おい。何やってんだおまえ」
「だ、大丈夫ですか、リゼットさん!」
リゼットは笑った。いや、笑っていた。蕾がほころぶように。
「――嬉しい。ありがとう、サミュエルさん」
サミュエルの手から帳面を受け取り、ぎゅっと胸に抱え込む。
サミュエルと司書長はその様子に安堵したように息を吐いた。
「はい。リゼットさんのお役に立てたのなら、自分も嬉しいです」
サミュエルは柔らかく笑った。
――なんて優しい人なのだろう。
毎日顔を合わせてはいたが、ほとんど話したことのないリゼットにここまでしてくれるなんて。
リゼットは少し迷って、ペンを取る。声に出して伝えたかったけれど、恥ずかしくて勇気が出なかったから。
書き終えた紙をひらひらと振ってインクを乾かした後で、リゼットは数回折り畳んでサミュエルに渡した。
「――また、来ます」
受け取ったサミュエルが開く前に、リゼットはぺこりと頭を下げて、部屋を出た。
ありがとうございました。
本日はもう一話更新予定です。