03
月明かりが煌々としている。
今夜は満月だ。
リゼットの日記を書く手が止まる。
帳面にはほんの数行しか文字が書かれていなかった。
書きたいことなどほとんどなかった。
机の端に置いた本を手に取り、そっと表紙に書かれた文字に指を這わす。
(せめて、これを返しに行きたいわ……)
図書館はリゼットにとって逃げ場でもあった。喋る必要のない、安全地帯。
同時に言葉の宝庫だ。
言葉は消費するものだが、あそこは、言葉を保存する場所だ。
たくさん使われることで、価値をすり減らしていく言葉は、あの場所では価値を積み重ねることができる。積み重なった歴史が魅力的な香りと味を出すワインのように、あの場所は言葉を熟成させていくのだ。
そこで働く司書というのは、本の管理者であると同時に言葉の管理者でもあるのだろう。
(……結婚、ね)
リゼットは目を伏せる。
結婚したいとは思わない。記憶にない程幼い頃は、結婚に夢を見たこともあったのかもしれない。
だが、今のリゼットには結婚はそんなにいいものに思えない。
リゼットは学びたかった。しかしそれと結婚は両立できない。
女性でも博識な人はいる。知識深い人は教養があると好まれることもある。
しかしそれにも限度はある。
男性は大学を出るほどの教養を女性に求めてはいないのだ。彼らは女性が自分たちよりも優位に立つことを嫌う。
本来、大学を出るということは男性にとっても簡単なことではない。
家が裕福であれば金の力でどうとでもできるが、そこに中身は伴わない。
そんな男性たちからしてみれば、自分の力で大学を出た女など可愛げがないだろう。
もしもリゼットが大学を出たら、結婚はもう望めない。適齢期は過ぎてしまうし、賢しらな女だと嫌われることだろう。
一方で、結婚をするとなると大学などと言っている暇はなくなる。子爵家の娘であり議員の娘でもあるリゼットの結婚相手は、おそらく相応の身分の人になる。そうなるとリゼットは社交に出ないわけにはいかないだろうから。
(わたしが、男だったら……)
こんな苦悩をしなくても良かっただろう。
だが、それはそれできっとまた別の苦悩が生まれるだろう。三つ年の離れた兄のディオンを見ていればよく分かる。
ディオンは貴族が嫌いだとよく言っている。窮屈で仕方がないからと。
だからだろうか。ディオンは国外の大学を選んだ。革命で王も貴族も滅んだ隣国の大学を。
ディオンもまたリゼットが大学へ行くことに反対していた。大学の勉強が如何に大変かわざわざ語ってきた。そんなことでリゼットのやる気は削がれなかったが。
日記帳を閉じて本の表紙をめくる。
頭のいい人が考えることは難しいことばかりだ。
一度読んだだけで全て理解できる程、リゼットは秀才ではなかった。
ぺらぺらとページをめくっていると、ふっと陰が差した。
満月が雲に隠されたのだ。
薄暗くなってしまった部屋で、リゼットは本を閉じて伸びをする。
(そろそろ寝ましょう)
蝋燭の先で揺らめく赤にふっと息を吹きかける。室内には暗闇が下りた。
翌日は曇りだった。
今にも雨が降り出しそうな憂鬱な天気に、思わずリゼットの口から溜息がこぼれる。
図書館の本を胸に抱いて石畳の街を歩く。
母親にも使用人にも内緒で出て来たせいで、気分が重い。とんでもなく悪いことをしている気がする。
通りを行く人たちは、本一冊だけを抱えて歩くリゼットを奇異な眼差しで見ていた。
リゼットがいくら質素なワンピースドレスを着ているといっても、つばの広い帽子を被り、レースの手袋をはめ、華奢な靴で歩く姿は、どう見ても上流階級のお嬢様だった。故にそんなお嬢様が何故一人で出歩いているのかという疑問が人々の胸に湧くのだ。
普段のリゼットは一応、メイドに図書館までついて来てもらっていた。
だから一人きりで街を歩くのは、初めてだった。
初めはドキドキしていたリゼットも、街の建物の中でも一際大きく壮麗な国立図書館が見えてくるとほっと胸をなで下ろす。
国立図書館の装飾は凝っている。知らない人から見れば王宮にも見えるだろう。
今やこの国の王に権力はほとんどない。だが、それでも権威や威厳は消えたわけではなかった。国の政策決定に力を持たないというだけで、国民への影響力は未だ小さくないのだ。故に王宮は昔の形を保ったままどっしりと構え、国王は依然としてそこにいる。
リゼットは一度だけ王宮に行ったことがある。王家が力を奮っていた時代に造られた住居は、豪華で美しかった。何より広かった。
国立図書館は王宮の一部分を真似た造りになっている。規模も装飾も当然一段劣るが、王宮を想像するのは自然なことだった。
ふと前から人が来ていることに気づく。
リゼットは避けようと身体を道の脇に寄せるが、相手もまた同じように動く。まるでリゼットの道を塞ぐかのように。
紳士帽を被った若い男はにこりと微笑んでリゼットに近付いて来た。
「ごきげんよう、ドゥシー子爵家のお嬢さん」
男が帽子を取り、大げさな礼をする。一つに結ばれた金の巻毛がふわりと肩に落ちた。
「――で、あってるかな?」
顔をあげ、帽子を被り直した男は片目を瞑った。
道化のようにふざけた動作だとリゼットは思った。
一歩、距離を置く。
相手はリゼットのことを知っているようだが、リゼットは相手のことを知らない。警戒するのは当然だ。
身を守るようにぎゅっと本を抱え、首を横に振った。
男はにこり、と愛想よく笑った。
「怖がらなくとも、怪しい者じゃないよ。私はフェルナン・アデール。しがない商家の息子だ。一度お嬢さんと話をしてみたかったんだ。こんな道端で偶然会えるとは、どうやら私は運が良いみたいだ」
一歩、距離が縮まる。フェルナンが長い足を踏み出したのだ。
にこにこと愛想の良い笑みは親しげだが、リゼットは信用ならないと思った。
この出会いが偶然なはずがない。
リゼットの生活パターンは単純だ。調べれば簡単に、リゼットが図書館に通っていることも、この道を通る時間帯も予測がつくだろう。待ち伏せをされていた可能性が高い。
少なくともフェルナンは、リゼットについて調べたはずだ。
でなければ、道を歩く令嬢がリゼットだと分かるはずがない。
リゼットとフェルナンに面識はないし、幼い頃以来、リゼットは社交界に一度も顔を出していない。リゼットの顔を知るには、意識して情報を集める必要があった。
知らない内にこそこそ探られていたというのは、決して快いものではない。
「良かったらお嬢さんの名前もお聞かせ願えるかな。私たちは仲良くなれると思うんだ。同じ色を持つ者同士、ね」
フェルナンは自分の髪とリゼットの髪を指差し、垂れがちな目で甘く笑った。
確かに同じ金髪だが、色味は違う。フェルナンの髪は蜂蜜のような甘ったるい色だが、リゼットは陽だまりの光を溶かしたような淡い色だった。
それに金髪の人間などどこにでもいる。髪色が同じというだけで仲良くなれたら苦労はないだろう。
リゼットは首を振った。名前を言う気はなかった。
「それは残念」
大げさに肩をすくめる。
大して残念そうでもない口ぶりだ。
「それなら話をするのはどうだろう? もちろん、立ち話じゃないよ。今にも雨が降りそうな天気だからね」
リゼットの返事も待たず、フェルナンはリゼットの手を強引に引いた。
突然のことに、リゼットは本を取り落としそうになった。
女であるリゼットが男であるフェルナンに力で適うわけもなく、引きずられるように数歩、歩く。
首を振り反対の意思を示すも、フェルナンは甘く笑みを深めるだけだった。
「カフェって、知っているかな。お気に入りの店があるんだ。ああ、貴族のご令嬢にはあまり馴染みがないかもしれないね。でもきっと、気に入ると思うよ。だから安心して」
気に入るとか気に入らないとかそんな心配は一欠片もしていない。
抵抗するリゼットをまるで無視して、無理矢理手を引いていく。
(この人、どうでもいいんだわ……)
リゼットがどう反応しようと、嫌がっていようとどうだっていいのだろう。
尊重する気がないのだ。リゼットのことを。
単純に自己本位な性格なのか、他に目的があるために敢えてそうしているのかは分からない。が、一緒にいたいと思える人ではなかった。
踏ん張り、引きずられながら、フェルナンの背を睨む。すると、くるりとフェルナンが振り向いた。
「それ、お嬢さんは、そんな本を読むのかい? 読めるのかい?」
女なのに? と馬鹿にされた気がした。
リゼットはプイッとそっぽを向いた。
「恥ずかしがることではないよ、そんな難しいもの、女性に読めないのは当たり前だ」
リゼットは目を見開く。
リゼットの態度が、読めもしないのに本を借りて恥じているように映ったというのだろうか。そのことも屈辱的だったが、もっと屈辱的なのは。
(当たり前!?)
衝撃だった。
少し難しい本を読めないことが、女だから当たり前だと言うのか。
――女だから。
そんな思い込みは、今の世の中にありふれたこと。リゼットも重々承知しているつもりだった。
だが、直接そんなことを言われたのは初めてだ。リゼットの夢に反対する家族にだって、一度たりともそんなことを言われたことはなかった。
リゼットは掴まれた腕を滅茶苦茶に振った。
(――不愉快、だわ……!)
急に激しくなったリゼットの抵抗に、さすがにフェルナンも立ち止まり、困り顔になった。
しかしすぐに、笑みを貼り付けた。恐ろしいまでに笑みを崩さない。
「それも気になってったんだよ。本当に、驚く程声を出さないんだね、君は。そんなに嫌そうな顔なのに、悲鳴の一つも上げない。さすが――『口無し令嬢』だ」
「!?」
パッと放された手が今度はリゼットの顎を掴む。
フェルナンの暗い青の瞳が怪しく光る。
「駄目だよ、嫌ならきちんと言わなくちゃ、ねぇ?」
(――なっ!?)
試すような表情でゆっくりと近付いて来る顔にリゼットは青ざめた。
フェルナンはリゼットにキスをしようとしているのだ。
リゼットの反応を見る、ただそれだけのために。
フェルナンは甘い笑みでリゼットに迫る。それは一見恋人に向けるような表情でいて、どこか冷ややかだった。観察するかのような。
――玩具になどなってやるものか。
ギュッと本を握る。気が引けるが、今のリゼットの武器はこれしかない。
(躊躇ったら、負けよ。こういうのは、思い切り――)
フェルナンを睨み付けたリゼットが本を振るおうとした瞬間だった。
「こ、こんにちは! リゼットさん!」
リゼットは挨拶をされた。
……この、声は――。
知らず、リゼットは安堵していた。よく知っていた声だったから。
「誰かな、君は? 見ての通り取り込み中なんだけど」
つまらなさそうに冷めた顔になったフェルナンの注意が逸れる。
リゼットはその隙を逃さなかった。
躊躇なく本を振るう。
ゴッと鈍い音がした。
横面を鈍器にもなり得そうな厚い本で殴られたフェルナンは、そのまま尻餅をついた。
頬を押さえ、リゼットを睨み上げる。
「――っ! 何を……!」
「リゼットさん、こちらへ!」
フェルナンの怒気にリゼットは少し身を強ばらせたが、次いで聞こえてきた声のおかげで、体が動かなくなるようなことはなかった。
リゼットは差し伸べられた手を取る。
その手に引かれ、顔を上げればもう、すぐ目の前が国立図書館だった。
どうやらフェルナンに引きずられ、国立図書館前まで来ていたらしい。
国立図書館に逃げ込んだリゼットたちは息を切らせて、大きな扉を閉めた。
「はぁ、大丈夫でしたか、リゼットさん」
助けてくれた司書の青年は心配そうにリゼットに問いかけてくる。
リゼットはこくり、と頷きかけて首を振る。
司書の青年は青ざめてわたわたと慌てる。
「そそそそうですよね、大丈夫なわけないですよね!? 司書室、司書室に行きましょう! お、落ち着けるはずです!」
司書の仕事をしているときとは打って変わって落ち着きのない様に、リゼットは目を丸くする。視線が自分たちに集まっているのに気づいたリゼットは、人差し指を唇に当て、小さく笑った。
「すすすみません!」
司書の青年は顔を赤くして、口を手で塞いだ上で声を抑えて謝る。
リゼットはくすくす笑う。
「こ、こちらへどうぞ……」
慌ただしい青年司書は、恥ずかしそうにしながらも司書室へとリゼットを案内した。
「おい、サミュエル、おまえサボるなって昨日言っただろ……って、何お嬢さん連れてきてんだ、おまえ?」
失礼しますと入っていった青年司書――サミュエルにかけられた第一声がそれだった。
「し、司書長! いえ、実は今図書館の前でですね……」
サミュエルは部屋の中でくつろいでいた中年の男性に先程のことを説明する。
「何? そういうことなら、まあ、大目に見てやろう」
司書長は立ち上がって部屋を出て行った。
いいのだろうかと思いつつ、リゼットは促されるまま椅子に座っていた。
司書室は、司書たちの休憩スペースであり、物置でもあるらしかった。
部屋の中央に置かれた机の上にはたくさんの本が積み重なっている。数脚の椅子が机をぐるりと取り囲むように置かれていた。リゼットはその椅子の一つに座っていた。
ちょうどリゼットの前のスペースは本が置かれていなかったので、持っていた本を置かしてもらう。
窓のない壁際には、荷物を収納できる扉つきの木棚が置かれ、その上にはさらにいくつも本が積み重なっていた。くたびれた本が多い。
リゼットは正面に座ったサミュエルの顔をじっと見つめた。
少しもっさりとした髪は、明け初めの空のように淡いオレンジ色。毛先が無造作にはねている。顔立ちはほどほどに整っていて柔和な雰囲気だ。どこかリゼットをほっと安心させる。
一方で凝視されるサミュエルは困ったようにその栗色の瞳を泳がせていた。
しかしリゼットには彼の様子に気を配れる程の余裕はなかった。
先程サミュエルに大丈夫かと問われてリゼットが首を振ったのは、頷くだけでは足りないと思ったから。こういう時こそ今まで価値を守ってきた自分の言葉できちんと伝えるべきだと思ったからだった。
(言わなきゃ……)
息を吸っては、吐く。
リゼットが極力声を出さないようにしてきたのは、大事なときに言葉が軽くなってしまわないようにするため。こういうときのためなのだ。
言うべきだと思いつつも、大切に守ってきたからこそ、なかなか言葉は声にならなかった。
どうしても、怯えてしまう。
また、薄っぺらいだとか嘘くさいだとか言われるのではないかと、怖くなってしまう。
大切なことこそ、そんなことを言われたくなくて、口を噤んでしまうのだから矛盾している。
「ど、どうしました? 無理しないでくださいね。あの、あ、ほ、本! 本読みますか?」
辛そうに顔を歪めるリゼットに気づいたサミュエルは慌てた様子でリゼットのことを気遣う。
リゼットは困らせてしまっていることが申し訳なくて、キュッと眉を寄せて首を振る。
サミュエルはリゼットの反応を見て、少し考える素振りをした後、部屋を出て行った。
(え……どうして? 仕事に戻ってしまった? わたしが何も言わないから?)
言うべき時に言うべきことを言えなかった臆病な自分が嫌になる。
これでは何のために口を噤んで生きてきたのか分からない。
俯いたリゼットの視界に紙が差し出される。
顔を上げるとサミュエルがいた。
インク壺を置き、リゼットにペンを差し出す。
「もし何かあったら書いてください。あ、でも全然、何も書かなくてもいいですよ! リゼットさんの好きにしてください」
柔らかな笑みと共に差し出されたペンをリゼットは受け取った。
「――ありがとう」
すんなりと声が出た。
こんなにも屈託なく言葉を発せたのは久し振りだ。リゼットは驚き、口元に手をあてた。
「いいいいえ! あの、こちらこそありがとうございます!?」
慌てたように何故か礼を返すサミュエルに、リゼットは小さく笑みをこぼした。
張り詰めていた糸が緩んでいく。
サミュエルは顔を赤くして誤魔化すように頭をかき、それからふにゃりと力の抜ける笑みを浮かべた。優しい笑みだった。
リゼットはペンを取る。
『助けてくれて、ありがとう。本を武器にしてしまってごめんなさい。あなたの名前は、サミュエルと言うの?』
そう記した紙をサミュエルに見せた。
サミュエルはリゼットの記した言葉一つ一つに丁寧に答えてくれた。
「お役に立てて良かったです! いえ、リゼットさんの身の安全が第一です。その本だってリゼットさんを守れて誇らしく思っているはずです! それから、ええと、名乗るのもおこがましいですが、自分は、サミュエル・ヴィトリーといいます」
きっと真面目な性格なのだろう。
この人はリゼットの言葉を蔑ろになどしない気がした。
リゼットはくすりと小さく笑う。
「……ありがとう、サミュエルさん」
感謝の気持ちを言葉にする。助けてくれたこと、心配してくれたこと、紙とペンを用意して気遣ってくれたことへの感謝。
「い、いえ! もったいない言葉です!」
もったいないなどそんなことはない。少し大げさだ。
けれどリゼットは嬉しかった。
リゼットの気持ちはきっと伝わったから。
リゼットが恐れるのは言葉が――そこに込められた思いが軽く取られることだ。きちんと伝わらないこと。言葉を消費し薄っぺらくなることそれ自体ではない。
だからサミュエルの反応が嬉しかったし、安心できた。
「――わたしは、リゼット・ドゥシーといいます」
リゼットは大切なことこそ言葉に、声にしたい。
けれどいつも、自分が大切だと思うからこそ相手に届かないことが怖くて、結局言葉にできなかった。
リゼットの自己紹介に、サミュエルは少しの間、瞬きをして。少し迷ったあとに手を差し出した。
リゼットは差し出された手の意味が分からず首を傾げる。
「あ! すみません。握手なんてしませんよね!?」
サミュエルが手を引っ込めそうになったので、リゼットは慌てて首を振りその手を握る。
握手を求められているとは思わなかったのだ。
(! 全然、違うのね……)
手を引かれて逃げるときも触ったけれど、あのときはそんなことを考えている余裕はなかった。改めて触れたサミュエルの手は自分の柔い手とは全く違っていて、大きくて、少し骨ばっていて、柔らかさなんてまるでなくて、不思議だった。
ギュッと握って違いを実感していると、サミュエルの顔が真っ赤になっていることに気づく。慌てて手を放し、リゼットも恥じらいから頬を染めた。
「よ……よろしくお願いします、リゼットさん」
リゼットは赤くなった頬を押さえて、こくこくと頷いた。
ありがとうございました。