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02



 日の光というものは力強い。

 あんなにも暗かった世界を隅々まで照らしていく。神に見立てられるのも納得の力強さと神秘を内包している。

 半分程顔を出した太陽は、それでも力強くリゼットの部屋に差し込んだ。


(……いつの間にか寝てしまっていたのね)


 机に伏せていた頭をゆっくりもたげ、眩い光にしぱしぱと目を瞬かせる。

 下敷きにしてしまっていた紙が、リゼットの瑞々しい頬に貼り付いてぺらりとめくれる。


(あ……そうだ、日記を書いていたところで寝てしまったんだわ)


 一瞬、図書館で借りた本を下敷きにしてしまっていたかとひやりとしたが、見慣れた文字の並ぶ帳面にほっと息を吐く。

 日記とは言ってもリゼットの生活は単調だ。

 朝起きて、支度をして、朝食を摂って、国立図書館へ行き、本を読む。昼は食べない。時間がもったいないから。夕方まで本を読み、日が沈むころに屋敷に戻り、夕食を摂って、寝支度をして、本を読んで日記をつけて眠るだけ。

 だから、日記帳の内容はほとんど読書録。

 どんな本を読み、何を思ったか。そんなことが書かれている。

 端から見たらとても日記帳には見えないだろう。

 リゼットは昨夜記したページを確認する。書き終えた記憶がないが、どうなっているのか。


(ああ……全然読めないわ……)


 昨夜は図書館の本を読み終えるのに随分かかってしまった。

 そのために、日記を書くのもいつもより遅い時間となってしまい、半分船を漕ぎながら書いた文字は、文字になっていない。ところどころインクが滲んでしまっているし、あらぬ方向に線が走ってもいる。かろうじて読めたのは最初の数文字と日付ぐらい。

 ――美しい夕焼け空の日

 それがかろうじて読めた文字。言葉。

 リゼットはその日がどんな日だったのか短い言葉で日付と共に記すのだ。その箇所だけが彼女の日記帳の唯一日記らしいところである。

 リゼットはペンを取る。

 インク壺の蓋はきちんと閉めていたらしい。蓋を開け、ペン先を黒い液体に浸す。

 追記、と書き加え、さらさらと昨日読んだ本について簡単にまとめた。


(これで、よし。あと――朝日は力強い、と)


 寝不足の目に入る朝日は、いつもより眩しく感じた。



「おはよう、リゼ」


 支度を終えて向かった朝食の席には母親のベアトリスが座っていた。

 優雅な所作は子爵夫人の地位に恥じない。

 代々子爵位を受け継いできたドゥシー家は、貴族や上流階級と呼ばれる裕福な家だ。

 先祖は領地も持っていたと聞く。だが、世襲貴族が領地を治めるという制度は廃止された。領地だった場所は国の役人が管理している。領地持ちの貴族はこの国にはいなくなった。

 そのために没落した貴族も多くいたが、上手に立ち回って生き残った貴族もまた多い。ドゥシー家もそうだ。


「どうしたの、リゼ。挨拶は?」


 リゼットはぺこりと頭を下げる。

 ベアトリスは子供をあやすような声で言う。


「違うでしょう、リゼ? 貴女は由緒ある子爵家の令嬢なのよ。挨拶ぐらいしっかりして見せて」


 貴族制は既に廃れていた。

 けれど、爵位を保持したまま国の改革を乗り切った貴族たちは、未だその血に誇りを持ち、爵位に価値を見出す。

 平民たちは以前よりも自由な生活が約束されたというのに、貴族は変わらず窮屈なまま。血と名誉に囚われたまま。根拠のない誇りと貴さにまみれたままだった。

 隣国と違って比較的平和に政治制度の転換を行えたこの国では、貴族が一掃されなかった代わりに、そんな歪みが残っていた。

 リゼットは質素だが質のいいワンピースドレスをちょんと軽くつまむ。裾にあしらわれた薄いレースがひらりと揺れた。


「おはようございます、お母様」

「ええ、おはよう、リゼ」


 ベアトリスは満足そうに頷く。

 リゼットはスカートの裾を払ってから、ベアトリスと向かい合うように席に着いた。

 メイドが手際よく朝食を配膳していく。裕福な子爵家であるドゥシー家は料理人やメイドなど使用人を何人か雇っているのだ。

 リゼットは配膳を終えたメイドに頭を下げて感謝の意を示す。


「ねぇ、リゼ。もっと素敵なドレスを着たくない?」


 優雅に紅茶を口に含んだベアトリスはそんなことを言った。

 リゼットは首を横に振る。


(お母様、また仕立てるのかしら。でも、わたしは着飾る必要なんてないわ)


 着飾るという行為は誰かに自分をよく見せたいという思いの表れだ。『誰か』とは意中の人であったり、知り合いであったり、ただ通りすがっただけの人であったり、もしくは自分自身であったり様々だが、リゼットにとっての『誰か』はいなかった。

 必要最低限身ぎれいにしておけば十分だと考えていた。不快にさせない程度で十分なのだと。

 そもそもリゼットにドレスを着る機会はない。

 貴族の集まりに出て行く気がまるでないのだから。

 ベアトリスは含みのある笑みを浮かべた。


「ダメよ、リゼ。伝えたいことがあるのなら言葉で伝えなくちゃ。喋る口も喉も言葉も機会も持っているんだからふいにするなんて、もったいないことなのよ?」


 ベアトリスは、カチャリとティーカップをソーサーに置いた。


「リゼ、今日は図書館に行っては駄目よ。仕立屋さんがいらっしゃるからね」

「――っ!?」

「お先に失礼するわね、リゼ。逃げちゃ駄目よ?」


 紅茶を飲み終えたベアトリスは、既に朝食を終えていた。リゼットが拒絶の声をあげるより早く席を立ち、逃げるように食堂を去って行ってしまった。軽やかな身のこなしに、年頃のリゼットよりもずっと華やかなドレスがひらりひらりと翻っていた。

 残されたリゼットは涙目になって、朝食のパンを口の中に押し込む。


(当日に言うなんて酷いわ、お母様)


 仕立屋が来ることが既に決まっているのなら、こっそり抜け出すわけにもいかない。そんなことをしたら、仕立屋に迷惑がかかるだけだ。おそらくベアトリスは何度でもしつこく同じようなことを、もっと巧妙に仕掛けてくるだろう。

 今後の安寧のために今日は大人しく母親の人形になる方がいいだろう。


(分かってたら、もっと本を借りてきたのに……)


 今日読める本がない。そのことが時間を無駄にしているようでただただ残念だった。



「まずは採寸致しますね、楽にしていてくださいな」


 にこにこ穏やかな笑みを貼り付けた、ベアトリスよりも年上の婦人がそう言って、リゼットにとっての虚しい時間が始まった。

 婦人とその弟子たちが薄着になったリゼットの身体を手際よく測定していく。

 身体の隅々までサイズを測られたリゼットは、それだけでもはやぐったりと椅子の背もたれにもたれていた。


「さて、どんなドレスにしましょうか。いくつかデザイン案は持ってきましたけれど。ご希望は何かございますか?」

「そうね、この子もうすぐ十六で成人なの。だから少し大人っぽいものもいいかもしれないわ」


 張り切ったベアトリスが楽しそうに婦人と言葉を交わす。

 リゼットはそれを眺めているだけだ。

 たまにどの色が好みか聞かれたり、持ってきたドレスを試しに着せられたりしたけれど。

 赤、ピンク、紫、青、水色、薄緑、緑、黄色、オレンジ、白に黒。さまざまな色が視界を掠めていった。


「ではこれでいきましょう。仕立てが終わりましたらまた伺いますね」

「ええ、よろしくお願い致しますわ」


 ベアトリスと婦人がにこにこ言葉を交わし合う後ろで、リゼットは婦人にぺこりと頭を下げた。

 婦人は笑みを返して、弟子を引き連れ屋敷を去って行った。


(ようやく終わったわ……今からでも図書館に行けるかしら?)


 窓の外の日は少し傾きかけていた。なんとか時間はありそうだ。

 しかしベアトリスはリゼットの考えを見通したように言った。


「リゼ、しばらく図書館は禁止よ。本ならメイドに返しに行かせなさい」


 リゼットは愕然とする。

 目を見開いたリゼットの顔には「信じられない」という悲愴感が漂っていた。

 ベアトリスは、物わかりの悪い子供を前にしたかのように困った顔をする。


「貴女は成人するのよ? 社交界に出て、結婚相手を探さないと。そのためには社交界に馴染めるように今から特訓しなくちゃいけないでしょう? 大丈夫、結婚するまでの間よ。いい相手と結婚できれば、屋敷に本を揃えてもらえるかもしれないわよ?」


 青ざめた顔でリゼットは首を振る。


(結婚……? わたしは、しないって。したくないって)


 伝えたはずなのに。


「貴女が結婚する気が無いのは知ってるわ。でも、母親として貴女を結婚させないわけにはいかないの。この先結婚もしないで不幸になる貴女を見て後悔したくないもの」


 ベアトリスもまたリゼットのことを心配している。

 分かっている。嫌がらせでリゼットの意思を無視しているのではないと。


(でも……わたしは)


 このまま、社交界に出て、貴族やそれに見合う地位を持つ男性と結ばれたら。きっと今まで通り衣食住何にも不自由せず、人並み以上の幸福が得られるのだろう。貴族の女性らしい幸福が。

 だが、違う。

 そこにリゼットの望む未来はない。


(わたしが、望む未来は――)


 大学へ行くこと。

 学問で身を立てること。

 そのためには結婚などしている暇はない。社交に出ている暇も。

 リゼットはベアトリスを見据えて首を振る。

 しかしベアトリスは強引だ。


「ひとまず一度行ってみたらいいわ。結婚とかは置いておいてね。だってせっかくお金をかけてドレスを仕立てたんだもの!」


 リゼットは結婚の話を抜きにしても、夜会に出ることはあまり気が進まなかった。

 リゼットとベアトリスの意見は平行線を辿る。


 その日は結局、図書館へ行くことは叶わなかった。



 ♢



「おい、あからさまに落ち込むなよ」

「何の、事ですか……」

「分かりやすく覇気がねぇなあ」


 昨日とは打って変わって元気のないサミュエルに司書長はため息をこぼす。

 サミュエルの元気がない理由は明白。

 ここ一ヶ月休館日以外は毎日訪れていた貴族の令嬢が今日は来なかったためだ。


「ま、そういう日もあるだろ」


 上流階級の人間というのは、お茶会やらパーティーやら華やかな付き合いに忙しいものだ。むしろ毎日通えていた今までが異常だった。

 昔よりは平民との階級差が縮まったとはいえ、未だ雲の上の人であることに変わりはない。サミュエルは障害の多い恋をしているのだ。

 司書長にはどこまで本気かは分からないが、今日一日中、かなり鬱陶しいため息を吐き続けていた様子からして、相当重症のようだ。


「落ち込むのは自由だが、仕事に支障を来すのはやめてくれ」

「すみません……」

「おまえ、明日もその調子だったら追い返すからな」


 いつまで経っても暗い調子のサミュエルに苛つく司書長。

 今日も今日とて彼は早く家に帰りたいのだ。家で妻子が待っている。

 恋というのは厄介だ。

 サミュエルとて、一流の大学で学問を修めたエリート。優秀な部類の人間だ。学問だけできるという人間もいるが、サミュエルは司書としても優秀だった。彼女と出会うまでは。

 いや、彼女が来館しているときは、業務の合間に見つめていただけだったので、仕事の優秀さは変わらなかった。

 ただ今日は酷いものだった。

 とてもカウンターに置いてはおけなかったので、本の修繕作業の方に回したが、ぼんやりとした手つきで仕事を増やすだけという使えなさ。しかも図書館の扉が開く音を聞く度に、仕事の手を止めて同僚に彼女が来たか確認して、来ていないことを知り、深いため息をつくのだ。この上なく鬱陶しい。

 彼が今日した仕事は三冊の本を修繕しただけ。全く使い物にならない。


「司書長、彼女は元気でしょうか……今日来ないのはもしや、病気なのでは……」

「知るか。明日来たら本人に聞いたらどうだ」

「来てくれますかね……もう来ないんじゃ……!」


 サミュエルから立ち上っている気がする鬱オーラを司書長は払いのけるように手を振る。実際にはそんなオーラは出ていないが、空気が重いのだ。


「だから俺が知るか。だが、本を借りて行ったならいつかは返しに来るだろう」

「あ……そうだ、そうですね!」


 司書長は使用人を使う可能性について言及するのは控えた。

 そのうちサミュエルも気づくだろうが、今は少し元気の出たサミュエルをこのまま帰したかった。

 昨日とは違い、サミュエルは仕事が片付いてなくて遅いのではない。彼が最後まで居坐っていたのは、ぼんやりとして動こうとしなかったから。今日は始終この調子だ。

 少し気分の上がったサミュエルにすかさず司書長は帰宅を促す。


「よし、帰るぞ、サミュエル」


 既に館内の戸締まり確認を終えていたので、自分も帰る気満々である。


「はい、司書長。本日もお疲れ様でした」


 ようやくいつもの調子で動き出したサミュエルと図書館の扉をくぐり、司書長はしっかりと鍵を閉める。


「あ……司書長……気づいてしまいました」


 そこでサミュエルの暗い声が響く。

 あと少しだったのにと、司書長は顔を歪める。


「代理人の方が返却しにくる可能性もありますよね……?」

「本当に鬱陶しいやつだな……おまえ、もう家に来い! 嫁さんの手料理食わしてやる! 上手くて元気が出ること間違いなしだ!」


 じめじめとした空気を醸し出したサミュエルの腕をぐいぐい引っ張って夜の街を進む司書長であった。



ありがとうございました。

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