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残酷な描写注意です。
(……あ、れ……?)
リゼットは自分が無事なことに困惑する。
確かに鈍く響く嫌な音を聞いたのに。痛みも衝撃もなかった。
――では、あの音は何だったのか?
どさりと何かが落ちる。
視線を向ければ、人が倒れていた。薄汚いボロ布を纏った姿はどう見ても貴族ではない。今、この場において襲う側だったはずの人。
その人の頭に男物の靴が乗る。違う、靴ではなく足。頭を踏みつけているのだ。そんなことをされているのに、呻き声の一つもあげない。事切れてしまったのだろうか。それとも気絶しているだけ――?
リゼットはゆっくりと視線を上げる。蜂蜜色の金髪がゆらりと揺れた。
「やあ、お嬢さん。また会えたね」
フェルナン・アデール。
彼は片手に剣を握りしめ、相も変わらず甘い笑みを貼り付けている。
恐ろしい混乱の最中にあって、とても落ち着いているように見えた。武器を手にした余裕のためかもしれない。
フェルナンはリゼットの腕をぐいっと引っ張り立ち上がらせた。足に力が入らなくて、少しよろけた体を支えてくれる。
「逃げるよ」
リゼットは首を振った。
どうして自分一人が逃げられる? ここには家族がいる。皆を置いて行くことはできない。
「……うぅ……」
「!」
足下に横たわるベアトリスから呻き声が聞こえ、思わず膝をつく。ベアトリスはうっすらと目を開け、再び苦しそうに呻いた。
――ああ、良かった。生きている!
「――り、ぜ……?」
喜べたのも束の間。弱々しくリゼットの名を呼ぶベアトリスの目はどこか虚ろで、焦点を結んでいなかった。いつも気丈なベアトリスの弱っている姿に不安が加速する。早く、助けなければ。
リゼットと目の合ったベアトリスは愛おしそうに優しく笑った。
「……無事、なのね、良かった……」
無事ではない。何も、無事ではない。だって、リゼットは今にも失おうとしている。家族を。
身を起こそうと伸ばした手が、逆にベアトリスに掴まれる。簡単に振り解けそうな程弱い力。
「リゼ、逃げ、なさい…………」
「え――?」
苦しそうな吐息と共に吐き出された言葉は、掠れていてよく聞き取れなかった。聞き返したけれど、再びベアトリスの唇が空気を震わすことはなかった。リゼットに何かを伝えることはなかった。
ずる……とリゼットを掴んでいた手が力なく落ちる。瞳が閉じられる。
「おかあさま……?」
リゼットの呆然とした声に返事はなかった。何の反応もなかった。
――何? これは、どういうこと?
何もかも意味が分からない。分かりたくなんてなかった。
「おかあさま……おきて……」
眠っている人を起こすように体を揺する。けれど目は閉じられたままだ。
――怖い。ただ怖い。
「……ねぇ、嫌よ。こんなの、嘘よ……! なんで、こんな……!」
涙がとまらない。倒れ伏すベアトリスの輪郭がぼやけて曖昧になる。
なんで、どうして。疑問が頭を埋め尽くす。
(どうしてわたしたちがこんな目にあわなければならないの――?)
こんなことに何の意味がある?
時代は既に王侯貴族の手から離れた。貴族の特権などたかが知れているではないか。
権力は議会が持った。市民も参加できる議会が。
何か不満や要求があるというのなら、力をぶつけるべき相手は王や貴族ではなく、議会ではないか。
今、この国を動かす力を持っているのは議員たちなのだから。
「お母様、逃げましょう……だから、起き――っ!」
再びフェルナンがリゼットの腕を引き、立ち上がらせる。痛いくらいに強い力で引っ張られて、リゼットは顔をしかめる。
「しっかりしなよ。そのまま君が死んだら、君の母君が犠牲になった意味がない」
「……」
――犠牲?
そうだ、犠牲。ベアトリスはリゼットを庇ったから、倒れているのだ。
リゼットはぎゅっと唇を噛みしめ、足を踏み出した。
視界の端ではシャンデリアが揺れていた。ぐらりぐらりと不安定に。
豪華で華奢なそれは今にも落っこちてきそうだった。
落ちてしまったら、繊細な細工は粉々に砕けて、ろうそくの火が王宮を焼き尽くすのだろうか。王国を崩壊へと導くのだろうか――。
フェルナンに手を引かれ、大広間を出る直前。
リゼットはちらりと背後を振り返り、その光景を見た。
たくさんの人間が床に横たわり、たくさんの血が大広間を汚していた。
悲鳴と雄叫びと罵声と、それから痛々しい打撃音に、人が物のように落ちる音。
鼻をつくのは血の悪臭。ただそれだけ。
凄惨だ。
何もかもが血に染まり破壊されていく。
美しさなど見る影もない。
唯一美しさを見出せるとすれば、それは――天井。
天井には楽園が描かれている。小さな天使たちが戯れる美しい楽園。人の手が届かないあの場所だけは、確かに楽園だと思った。
いくつかの部屋を抜け、どこをどう通ったのか。気づけば、王宮の裏手の庭のようなところに出て来ていた。
襲撃者はいなかった。けれど高い塀の外から騒がしい声が聞こえる。
足が竦んだ。
無理だ。行けない。ここから出たところで、また彼らに襲われるのは目に見えている。
それならば、襲撃者がいないここにいた方が安全ではないか。
「ああ、疲れた? それなら背負ってあげるよ」
首を振る。
疲れたけれど、そうではない。疲労は今更だ。
外へ出るべきではない。出たくない。
「それなら、これで我慢して」
「!」
フェルナンはひょいとリゼットを肩に担いだ。お腹のあたりが圧迫されて苦しい。
「――こんなところはさっさと出て行ってしまいたいね。君もそう思わない?」
「……」
思わない。だってここには家族がいるのだ。ディオンはまだ戦っているかもしれない。それに、脱出したとしてどこへ行けばいい? ひとりきりで家に帰って、戻ってくるかも分からない家族を待つなんてどれだけ恐ろしいことか。
「まあ、君はそう思わないだろうね。何も知らされず、幸せに生きてきたんだから」
「……」
含みのある言い方に眉をひそめる。
何を知らされずに生きてきたというのだろうか。反対にフェルナンは何を知っているというのだろうか。
フェルナンが足を止めた。
「怖いのなら、目を閉じていなよ。耳も塞ぐといい」
門が開く音がした。
喧噪が大きくなる。
がなり立てるような声があちこちから耳を突き刺す。
「彼らは騒ぎたいだけ。何もできないよ」
何かする勇気があるのなら、とうに門を破っている。フェルナンはひとりごとのように言った。
リゼットは目も耳も塞がなかった。今更、目を閉じたところで、耳を塞いだところで恐怖が薄らぐことはないから。むしろ、目を閉じて耳を塞いだ方が、頭に焼きついた凄惨な光景が思い出されそうで怖い。
リゼットは門の前に集まった人々をぼんやりと眺めていた。
(思っていたより、少ないわ……)
もっとたくさんの人が騒いでいるのかと思っていた。
けれどよく見れば騒いでいるのは少数。大半は不安げに王宮を見て、たまにちらりと盗み見るようにこちらを見る。そこに怒りはなく、この先どうなってしまうのかという不安と暗い空気が漂っていた。
意外なほどあっさりと人の群れを抜け、リゼットは知らず息を吐く。
急に喧噪が遠のいて、まるで夢から覚めた気分だった。夢と言っても悪夢だが。
しかし全ては現実だ。たくさんの血が流れたのは紛れもない現実。
(わたしは、何もできなかった……)
誰かを守ることも、きちんと逃げることすらも。
リゼット一人だったら、きっと今ここにはいない。あの地獄のような場所で血だまりの一つでも作っていたかもしれない。
唇を噛みしめる。
リゼットは守られて、助けられてここにいる。それは何も今夜に限ったことではない。
いつだってリゼットは家族に守られて助けられてきた。リゼットが思っている以上に。
(これから、どうなるの……)
王宮が襲撃されたことはこの国にどれだけ波紋を及ぼすだろうか。
もしも家族の中でリゼットだけが生き残ってしまったら、どう生きていけばいいのだろうか。
不安が胸に渦巻く。
「ああ、迎えが来たね。いいタイミングだ」
馬が蹄を鳴らす音と、車輪の回る音が聞こえた。
(馬車……?)
立ち止まったフェルナンはリゼットを横抱きに抱え直す。
近付いてきた馬車がリゼットたちの近くで止まると、フェルナンは躊躇なくその馬車に乗り込んだ。リゼットを抱えたまま。
フェルナンが扉を中から閉めると、すぐに馬車は動き出した。
(なんで馬車がこんなところに――)
ハッと気づく。
急いで扉を開けようとした手がフェルナンに掴まれ、座席に押し戻される。
フェルナンはリゼットを腕の中に閉じ込めるように、座席の背もたれに両手を置いた。
「駄目だよ。逃がさない」
甘さを含んだ囁きは、けれどリゼットを絶望にたたき落とす。一つの答えへと導いていく。
(ああ――)
フェルナン・アデールという男は、やはり信用ならなかった。
何故リゼットを助けたのかということに疑問を持つべきだったのだ。
助けられることは当たり前ではない。自分の命すら危ういあの場では尚更だ。
(ごめんなさい、お母様)
ベアトリスの最後の言葉。あれは、忠告だったのだ。今になって理解する。
――逃げなさい、アデールから。
ありがとうございました。