01
(ああ、もう日が沈むのね)
日は沈む時が一番美しい。
赤と黄の絵の具を塗り混ぜたかのようなカンバスの空が窓の外に広がっている。
しばし窓の外を眺めていた少女――リゼット・ドゥシーは手元の本をパタンと閉じた。
重い椅子を引いて立ち上がる。
机の上には、三冊の分厚い本。その内の二冊は既に読み終えた本だ。
一度、その二冊を抱え、書架へと向かう。
壁や柱に埋められるようにして設置された書架には、上から下までぎっしりと本が詰まっている。
壁際の大きな書架に、手に持っていた二冊の本を苦労しながらしまう。
一冊一冊が重いので、非力なリゼットにはなかなかの重労働なのだ。
なんとか本をしまい終え、くるりと振り返ると、館内にまばらにいた来館者や司書たちと目が合った。
(――? こっちに何かあるのかしら?)
彼らの視線を追ってみても、今自分が本をしまった書架があるだけ。
彼らが何に注目していたのか首を捻りつつ、もといた座席に戻る。
先程閉じた読みかけの本をパラパラとめくり、残りのページ数を確認する。
(持ち帰って読めば、明日には返せそうだわ)
本を抱え、貸出手続きのために貸出カウンターへ向かう。
すっと本を差し出せば、カウンターに座っている司書がにこりと微笑んだ。
「お疲れ様です。貸出ですね。少々お待ちください」
リゼットはこくりと頷く。
司書は本を受け取り、貸出の記録を素早く記録紙に書き付ける。
何度も来ているため、もう覚えられてしまったのか名前を問われることはない。
その司書は貸出のカウンターによくいるため、リゼットも彼の顔を覚えてしまった。優しい笑顔と、明け初めの空のような淡いオレンジ色の髪が印象的だ。
ペンを置いた司書は顔を上げる。再びにこりと笑って、返却期限の記されたカードと共に本を差し出した。
「またのお越しをお待ちしております」
リゼットは本を受け取り、カードをなくさないように本に挟んでから、ぺこりと頭を下げる。
司書もまた頭を下げる。
重厚感のある一冊の本を大事そうに抱え、リゼットは国立図書館をあとにした。
外はもう夜闇が差し迫っていた。鮮やかな夕焼けは暗闇に呑まれようとしていた。
石畳の街を、人々は迫る夜に急かされるように歩いて行く。
図書館の前には大通りがある。馬車が余裕を持ってすれ違えるような大きな通りが。
図書館を出たリゼットはその大通りの側できょろきょろと辺りを見回す。すると、そのタイミングを見計らったかのように一台の馬車が少しリゼットを追い越して、止まった。
「リゼット!」
(お父様!)
停車した馬車から顔を出したのは、リゼットの父親のエドガールだ。リゼットと同じ、優しい日差しの色をした髪が風に揺れる。
リゼットはぎゅっと本を抱え直し、小走りになって近寄る。
馬車の前まで来てエドガールと顔を合わせたリゼットはぺこりと頭を下げた。
(お仕事、お疲れ様です)
子爵の地位を持つエドガールは議員を務めている。国の方針に携わる重要な仕事だ。
エドガールはリゼットの後ろに建つ大きな建物に一度目を遣ってから、困ったように眉を下げて笑う。
「帰ろうか、リゼット。お乗り」
こくり、とリゼットは頷き、御者が開けた扉から馬車へと乗り込んだ。
隣に座った娘にエドガールは尋ねる。
「面白い本はあったかい?」
リゼットは小さく笑って、抱えていた本の表紙を見せる。
ガラガラと進み出した馬車の中で、エドガールは表紙に書かれていた文字をまじまじと見つめる。長いタイトルではない。
「『フィロソフィア』……哲学か」
こくこくとリゼットは頷き、ギュッと本を抱え直す。本特有の紙とインクのいい匂いが鼻腔をくすぐる。
幸せそうに目を細めるリゼットに、エドガールは呆れたような困ったような視線を投げかける。
「……本当に、大学に行くつもりかい?」
リゼットはただこくりと頷き、眉を下げた父親の顔をじっと見つめる。
(わたしは、学問に生きるの)
声には出していないが、リゼットの瞳から強い決意が伝わったのか、エドガールは額に手を当て深い息を吐いた。
「……リゼットの幸せのために何度も言うが、決して楽な道ではないよ。女性が結婚もせず大学で学ぶことも、学問を仕事にすることも」
父親が心配してくれていることは、リゼットにも十分分かっている。
だがもう、決めたことなのだ。
(どんなに厳しくても、わたしは)
一瞬たりともぶれることのない瞳を受け止めたエドガールは、再び息を吐き、参ったというように表情を緩めた。
「頑固だね、リゼットは。私は、応援しない。だが、邪魔もしないよ。リゼットの決めた道を歪めた先に幸せがあるとは思えないからね」
それは厳しくて優しい言葉。
リゼットのことを思うが故に出た温かい言葉だ。
リゼットはエドガールとは何度も似たような言葉を交わしていた。その度に、リゼットは自分は恵まれていると父親に感謝し、同時にほんの少し罪悪感を抱く。
自分の行為が貴族の令嬢として、はみ出していることは自覚しているから。
(お父様もわたしに結婚して欲しいのでしょうね)
本当に大学に行くのかと、何度もリゼットに尋ねてくるのが良い証拠だろう。
父親がそう願うのは、古い慣習のように結婚が貴族の務めだから、ではなく、純粋にそれが娘の幸せに繋がると信じているからだ。
リゼットもそれが一番楽に幸せになれる道なのだと、疑ってはいない。
今の時代、女性が一人で身を立てるのはとても厳しい。生きていくためには、男性の庇護下にあるべきなのだ。
けれどリゼットは、一人で生きていくことを選ぶ。厳しいというだけで、不可能ではないのだから。
リゼットは苦く笑う。
(それに、言葉を発することができないわたしに貰い手なんてないもの)
声が出ないというわけではない。
リゼット自身が言葉を口に出す気が無いだけだ。
リゼットには言葉を使うことに躊躇いがあった。他の人たちのように気軽に口に上せることに躊躇いが。もちろんそういった人々を否定する気は無い。これは、彼女自身の問題であり、指針であった。
言葉について慎重になったきっかけは、幼い頃に言われた言葉。
――嘘つきと言われた。大好きだった友人に。
相手にとってはほんの些細な言葉だったかもしれない。けれど、幼いリゼットの心には小さくない傷がついた。傷はじくじくと痛みを増し、閉ざした心の奥深いところまで広がっていった。幼い心は柔らかい。研ぎ澄まされていないナイフだって簡単に深部に到達するのだ。
(わたしは言葉を使いたくない)
言葉というのは、消耗品だ。
使えば使うほど薄っぺらく軽くなっていってしまう。
だからリゼットは気軽に喋らない。自身の口から出る言葉の価値を守るために。
屋敷に到着した馬車が止まる。
外はすっかり暗闇に覆い尽くされていた。
♢
「おーい、サミュエル。まだ片付けは終わらないのか?」
カウンターに座ったサミュエルと呼ばれた司書は、ビクリと肩をはねさせた。ぼんやりと見つめていた閲覧用の座席からさっと目を離し、慌てた表情で振り向く。
「し、司書長……! すみません、ぼーっとしてました!」
「お、おう、そうか。素直なやつだな。早く終わらせろよ、帰りが遅くなるぞ」
「はい!」
サミュエルが慌ただしく業務終わりの片付けを始めると、司書長は短く息を吐いた。
サミュエルが先程まで見つめていた、閲覧用に設置された窓際の席を見遣る。
閉館の少し前に去った女性が座っていた席だ。
「……気になるなら声くらいかければいいだろ」
ガタタッ! と派手な音がした。
サミュエルがカウンターの椅子に足を引っ掛けた音だった。
「ななな、何のことですか、司書長!?」
分かりやすい反応に司書長はにやりと笑う。
「あのお嬢さんが来るようになってもう一月ぐらいか? あそこの席もすっかり定位置だな?」
図書館に女性が訪れるのは、珍しいことだった。
勉強熱心でそこそこの財力がある市民であったら、可能性がないわけでもないが、彼女は見るからに上流階級の人間だった。
大人しく従順であることが求められる上流階級に属する女性が、足繁く図書館に通うというのはかなり珍しく、彼女は良くも悪くも館内の人間の目を引いていた。本人は気づいていない様子が多分に見受けられるが。
「そ、そうですね、それがどうかしたんですか?」
「こら、手を止めるな。俺はさっさと帰りたいんだ」
「あ、は、はい!」
国立図書館の司書たちを束ねる司書長は、愛妻家で有名だ。
まだ小さな子供もいるため、早く家に帰りたいといつも言っている。
「おまえ、いっつも見てるだろ、あの貴族のお嬢さんのこと」
ドサドサドサッ。
数冊の本が落ちる音に、司書長は頭を抑える。
素直で分かりやすい、が。
「本は大切にしてくれ」
「はい……すみません」
本を落としてしまったことに、すっかりしょげて一冊一冊丁寧に拾い集めるサミュエル。彼に本を粗末に扱う気はないのだ。ただ大いに動揺してしまったというだけで。
だが、サミュエルがあの令嬢に気があるというのは、司書たちの誰もが知るところであった。故に最近ではサミュエルのカウンター業務が増えているのだが、サミュエル自身は同僚たちに気を回されていることには気づいていなかった。
「で、さっきも言ったが話しかけてみないのか?」
真面目なサミュエルは、彼女をこっそり見つめながらも、軽々しく彼女に声をかけることはしない。業務以外で関わりを持つことはなく、同僚たちの気遣い虚しく二人はいつまでも司書と図書館の利用者だった。
もちろん司書長も仕事をさぼって女性を口説けと言いたいわけではない。ただ、業務範囲内で利用者に声をかけることは可能だ。例えば、本を探す手伝いをするとか、反対に本を戻す手伝いをするとかである。今日だって彼女は危なげな手つきで書架に本を戻していた。あれだけ彼女のことを見つめておきながら、そういった機会を利用しないサミュエルが不思議だった。奥手と言えばそれまでだが。
「そんなことして、邪魔に思われたら嫌じゃないですか! 図書館に来なくなってしまったらどうするんです!?」
奥手と言うよりへたれであった。
声を少しかけたぐらいで、そこまでの反応をするとは思えないが、恋するサミュエルにはきっとどんな変化も怖いのであろう。
「それに……彼女は声が出せないのかもしれません」
「ああ、そういえば一度も声を聞いたことがないな」
彼女は図書館内で一度も声を発したことはない。
図書館はそもそも騒がしくする場ではないが、小声で挨拶を交わすぐらいは許される。しかし彼女は貸出の際も頷いたり頭を下げたりするだけで、声を発することは絶対にしない。彼女自身の体質なのか、単に規則を遵守しているだけなのかは、図書館でしか交流のない司書たちには分からない。
「喋れないのに話しかけたら煩わしく思われるかもしれません。そうなったら……やっぱり図書館に来なくなってしまいます……」
「後ろ向きだな……。確かにしつこく話しかけられたら嫌だろうが、困っているときに手伝うぐらいはいいんじゃないか。仕事の範囲内だ」
会話にはならないだろうが、些細なアピールにはなるかもしれない。運がよければ顔も覚えてもらえるだろう。そこから先に進めるのかは果たして分からないが。
「……迷惑じゃないですかね、助けを求められたわけでもないのに」
「なんだ、おまえは今俺が片付けを手伝っているのを迷惑だと思ってたのか?」
司書長は自身の仕事を既に終え、後はもう戸締まりをして帰るだけだった。しかし帰るにはサミュエルの仕事が片付かなければならない。図書館を閉め、最後に退館するのは責任者である司書長の仕事だからだ。早く帰りたい司書長は、自然サミュエルの仕事を手伝っていた。
サミュエルは慌てて首を横に振る。
「いえ! すごく有り難いです」
「だろう? そういうことだ。それともおまえは彼女が親切を迷惑と受け取るような人に見えるのか?」
ハッとした顔になるサミュエル。
「そうですね、彼女に申し訳ない考え方をしてしまいました……」
声をかけること、手助けを申し出ることが、迷惑に思われるんじゃないかと考えることは、彼女をそういう人間だと見ているようなものだ。怖くて踏み出せない言い訳のために彼女に失礼なことをしてしまったとサミュエルは反省する。
「ほら、終わったなら荷物まとめてさっさと帰れ。おまえが帰らないとこっちはいつまでも帰れないんだ」
「はい、ありがとうございました。お疲れ様です!」
手早く荷物をまとめたサミュエルは頭を下げてから、壮麗な国立図書館を退館した。
すっかり暗くなってしまった大通りをサミュエルは歩いて行く。
――明日も彼女は訪れるだろうか。
司書長のアドバイス通りに彼女に声をかけることはそう簡単にはいかないだろうが、困っている彼女に手を差し伸べることを躊躇わないようにしたいと、そう思いながら。
闇夜に染まった空には、煌々とした月が輝いていた。
ありがとうございました。