第百三十三話 未来
――今までの喧噪が嘘のように途絶え、
誰ひとり声を発しない、舟の上。
自分たちが身を預けているこの巨大な魔法道具がちゃんと正常に作動しているか、誰もが固唾を飲んで見守っている。
ふと、スロウは甲板の上を忍ぶように歩いた。
怖いものをのぞき見るような感覚でそろりと右舷に近付き、
船下の森を見下ろす。
地上に広がる豊かな緑はどこまでも続いていて、
地平線の先まで見通せそうだった。
この舟がまだ昇っているのかそれとも止まっているのか……。
それすらも分からないほどの高度まで到達していたらしく、無意識に乾いた笑みがこぼれる。
ほんとうに飛んでいる、という事実に目を見開き、
途中でいきなり落ちたりしないよな……? と冷や汗をかき、
そして絶えず前方から吹き抜けてくる涼風が、それでもこれは現実だと火照った身体を優しく冷ましてくれていた。
空の上にあったのは、静寂そのもの。
地上の大森林で豊かに繰り返されていた鳥たちの鳴き声や、川の音、
さらには半獣人同士が競争しあう激しい戦闘音も、なかった。
聴こえるのは風の音だけで、そこに舟のプロペラの回る駆動音が唯一の人工音として乗組員の全員に不思議な安心感を与えていた。
「……逃げ切れた、よな」
「……そうみたいね」
いまだに警戒態勢を維持していたエフィールが、ふぅっ、と息を吐いて大弓を下ろした。
それでようやく、里の人たち含め全員から緊張の糸が解かれたらしい。
こちらも甲板の上にへたり込んで天を仰ぐ。
これで、天樹会から舟やセナの家族たちを守るという目標は達成できただろう。
空の上なら連中もそう簡単には手出しできないはず。
ようやく肩の荷がひとつ下りた感覚がして、涼しい風にしばらく身を委ねた。
「——舟の中、見に行きましょう!」
やがて、セナが待ちきれないといった様子で口を開いた。
はしゃぐ彼女に引っ張られる形で船内へつづく狭い階段を降りると、思っていたよりも中が広いことに気付かされる。
数人が横並びになっても余裕をもって通れる幅の廊下を進み、
手前のほうから順番にドアを開けていく。
一つ目の部屋は倉庫、その向かいが食糧庫。
ふたつ目が居住区……。
さらにその向かいを開けると、驚いたことに水飲み場が広がっていた。
部屋の中心にそびえる大きな樹木が天井を突き破って空へと伸び、その太く分厚い幹の奥からきれいな水が染み出している。
その清涼な液体は足元に設置された石桶に集められ、静かに波紋を揺らしていた。
「……うまい。
やっぱりちゃんと飲めるみたいだ……」
「スロウさん、これ!
果実が実ってます!
……すごく甘いですよ!」
手ごろな大きさの赤い実にむしゃぶりついたセナが、ぱっと目を輝かせる。
食べ物まで手に入るのか。しかもかなりの量がある。
ほかの部屋も見てみたが、この水と果実を生み出す樹木は複数用意されているみたいだった。
いったいどうなっているんだ、この舟は。
ほんとうにここだけで生活が成り立ちそうじゃないか。
樹の根っこが船内の壁や床に深く食い込んでいるけど、まさかそこから栄養を得ているのだろうか……。
その後、寝室と思しき部屋を発見。
ツタでできたハンモックの寝床に興味本位で横たえると、まるでそのツタが自分を守るかのようにふわりと丸まる。
蕾の中に寝床を確保する虫のような気分だった。
その不思議な仕組みに感心していると、疲れがたまっていたのか、それともそういう効果があるのか……。
いつの間にか、眠りに落ちてしまっていた。
――ふっと目を覚ますと、部屋の中は暗かった。
心地良い倦怠感に息を吐き、寝返りを打ちながら薄目で見回してみると、部屋につるされた緑のハンモックはすべて丸まっていた。
おそらくフラントール族の人たちが休んでいるのだろう。
いま起きているのは……自分だけか。
上体を起こし、ツタのハンモックから静かに下りる。
音を出さないようにゆっくりと廊下に出ると、
羽音のしない虫がゆったりと漂い、青い光を発して船内を照らしていた。
足元は見えやすい。つまづく心配はなさそうだ。
機械仕掛けのプロペラの回る音をかすかに耳にしながら、ひっそりとしている船内を歩いて甲板へと昇っていく。
「……あら、ゆっくり休めた?」
甲板にはエフィールがいた。
手すりに身を寄りかからせながら、こっちを見ている。
「ああ。
横になったらいつの間にか寝ちゃってたな」
「あの寝床、すごいよく眠れるわよね。
一瞬だったわ……」
「なんだ、そっちもちゃんと休めたのか。
寝ろって言おうとしてたのに」
エフィールの横に立ち、自分も景色を眺めた。
風のなびく音だけが繰り返される、無音の世界……。
セトゥムナの大森林を眼下におさめ、穏やかな暗闇に目を凝らす。
満月のおかげで地上の様子は把握しやすい。
見覚えのある地形を見つけて、「あの辺りがフラントールの里だな」と予想を立てる。
そこから今まで自分が通ってきた道や場所を視線でなぞった。
(……あれ? 森林学院のあたり……。
灯りが多いな……)
ひときわ大きな大樹の付近には、目に見えて光源が集まっている。
妙だと思った。
あの近辺は木々が密集していたのに、どうして空からでもはっきり灯りが見えるのか。
(結晶洞窟から逃げ延びた奴隷たちが集まってるのかな……?
いや……でも、あんなきれいに木々が切り倒されてるし……。
あそこにいたほとんどの奴隷にそんな体力残ってたか……?)
と、そこでふと気が付いた。
天樹会の拠点だ。
やつら、森林学院を新しく根城にしている。
思えばあの研究施設には、イズミルという天樹会への内通者がいた。
その時にはすでに連中の息がかかっていたのだろう。
で、自分たちが結晶洞窟で足止めを食らっている間に拠点を築いていた、と。
あり得る話だ。
――しゃく、と気持ちの良い音がしたので顔を横に回すと、
赤い果実を口に当てたエフィールと目があった。
いつの間に持ってきていたのだろうか。俺の分はないのかと聞くと「これ一個だけ」と短く返された。
「……あの青い髪の人、何者だったの?
あんたのこと知ってるような口ぶりだったけど」
エフィールはこちらには目を向けないまま聞いてきた。
「メレクウルクは覚えてるだろ? 砂漠の大陸の。
あいつと同じ追放者で、デューイの剣の師匠ってことだけは確かだ」
「……」
「ただ、いつ会ったのかは正直、俺にも分からない。
記憶喪失になる前か、なってから一番最初のころに会っていたのは確実なんだと思うけど……」
でなければ、彼女が使っていたのと同じ水の像を生み出す能力を再現できるはずがあろうか。
あの能力には何度も命を救われている。嘘であるわけがない。
疑問なのは、なぜこの瞬間に彼女が現れたのか……。
会うべきなのは弟子であるデューイなのではないか。
ずっと消息不明だったはずなのに、どうして今になって、デューイではなく自分の前に姿を見せたのか……。
同じイストリア出身というつながりはあるにしても、だ。
絶体絶命の状況で助けてくれたことは事実だが、落ち着いて考えてみると謎な部分が多い。
「……でも……
驚いたけど嬉しかったな……。
もうすぐ帰れるんだ、ってようやく実感できるようになったっていうか」
意味もなく手のひらを握って、握りこぶしを固める。
移動手段は手に入った。この舟の性能ならほんとうにどこへでも行ける。
何日もかかる遠いところであっても、食料の供給は十分。
水や寝床だってある。
しかも空を飛んでいるから魔物に襲われる心配すらない。
甲板に流れゆく涼しい夜風も気にならないくらい身体が熱くなっていた。
今までの旅の苦労がもう少しで報われる。
そのことに、どうしても浮足立ってしまう自分がいた。
「——早く、帰りたい?」
ふと彼女が果実を食べる手を止めてこちらを見上げてくる。
沸き上がってくる興奮に流されるまま肯定しようとして、
すぐに、彼女が寂しそうに眉尻を下げているのを見て、火照っていた身体が固まった。
「い、いやいや!
まだすぐには行かない!
ほら、デューイとか、拾いに行かなきゃだし……!」
焦って弁明するかのようにまくし立てた。
自分の無神経さに呆れてしまう。
そうだ、故郷に帰るということは、仲間たちと別れる可能性をも意味しているじゃないか。
『旅が終わって、仲間たちとはそれ以来散り散りに……』なんてよくある話だ。
そのことをちゃんと考えないまま旅を終わらせようとしたら、不安になって当然である。
「そうなの?」
「ああ!
それに、もうちょっと、この国に留まりたいし……」
こちらがそうつぶやくと、エフィールは訝しげに眉を寄せた。
「嘘。
そんなこと考えてないでしょ」
「いいや、ほんとうさ!」
「奴隷にされたりとか、ひどいことあったのに?」
「ああ!」
エフィールはさらに怪訝そうな顔をした。
場の勢いだけで言っていると思っているのだろう。
そんなことはない。
いや、ちょっとはある。半分くらいは彼女を不安にさせないためだ。
しかし同時に、このまま逃げることに抵抗があるのも、事実だった。
「だって、セナの故郷だし……」
急に気まずくなって視線をそらした。
故郷には帰る。それは曲げない。
けれどその過程で、誰かの――
特にいっしょに旅をしてきた仲間たちの居場所が損なわれたり、奪われたりするのを黙って見過ごすのは、何かが違う気がする。
「もしいつか彼女の記憶が戻ったときに、
自分の居場所が……故郷がなくなってたなんてつらいだろ?
だから、もうちょっと、何かできないかやってみたい」
「本気なの?」
「まあ、どうせ俺ひとりにできることなんてたかが知れてるけど」
何しろすでに一度、敗北して奴隷にされた身である。
セトゥムナを救うなんて大層なことは言えないが、
まあまだ何かひとつくらいはできることがあるだろう。
焦る必要はない。
ミラとの短い対話でも伝えられたことだ。
最短距離で目的地に行かなくてもいい。
もう少しだけ寄り道をしてもバチは当たらないはずだ。
「そう……。
あんたらしいわね」
エフィールは優しくほほ笑むと、またぼんやりと地上を眺め始める。
会話の休息ととらえて涼しい夜風に身を委ねていると、
ふと、赤い髪の少女が真剣な表情で呟いた。
「決めた」
「うん?」
「あたし、明日の裁判に行ってくる」
一瞬なにを言っているのか分からなかった。
しかし、彼女の妙に強いまなざしを受けて、眠気のまじっていた狭い視界が急にくっきりと鮮明になってきた。
「おっ、おい待て待て待て……!!」
「地上から逃げる時、あんたにも聞こえてたわよね。
あのジャッジの男が、明日森林学院でやるって。
エーデルハイドの魔人を――あたしを裁くための裁判を」
「お前、自分が何を言ってるのかわかってるのか!?」
俺は大声で問いただした。
「裁判だなんだって言ってるけど、要するにただの処刑だぞ!?
そんなところにわざわざ首を差し出しに行くやつがあるか!!」
「でも、あたしがちゃんとケジメつけないと、
ほかの人たちに迷惑がかかるでしょう?
たぶん、これからずっと……」
「そういう話じゃない!」
エフィールの肩につかみかかり、真正面からにらみつける。
「お前の人生はどうなる……!?
冤罪だったんだろう!? 全部!
一族の人たちが勝手に暴走して!
お前はそれを食い止めようとしただけじゃないか!
なのにどうして……これ以上苦しむ必要が……!?」
大声でまくし立てても、彼女は臆することなく睨み返してきた。
彼女がかじっていた果実が、甲板の上に転がっていく。
下手したら……あの果実のたったひとつが、彼女の最後の晩餐になるじゃないか。
「離して。
あんたの言葉を借りるなら、あたしと同じ魔人たちの『居場所』がずーっと奪われたままになるのよ?
『魔人』なんて魔物と同じみたいに言われてるけど、そのほとんどは止むにやまれぬ事情で水の太陽の雨水を口にしただけの普通の人。
そういう人がたぶん何百何千とこの世界にいる。
あたし一人の命で救えるなら、十分釣り合う」
「それでも……!!」
「——どうしたんですか? こんな夜中に……」
ハッとして後ろを振り返ると、何人かの兎人族が甲板に上がってきていた。
自分のあまりの大声に、目を覚まして来たようだった。
その中にはセナも含まれていて、困惑する半獣人たちの先頭に立って視線を投げかけている。
すると、エフィールがこちらの腕をほどいて彼女のもとに近付いていった。
「……ごめんなさい、セナ。
あたしたちは今日でお別れよ。
明日、いや、夜明けには地上に降りるわ」
「え、な、どういうことですか、いきなり……?」
エフィールが、セナと両手をつないだ。
兎人族の少女は意味が分からないといった様子で首をかしげていた。
「ごめんなさい。
向き合わないといけないこと残ってたから……」
「そんなの無視すればいいじゃないですか!
わたし、まだエーフィちゃんと一緒にいたいです!
ほかのみなさんもそれを望んでます! そうでしょう!?」
セナの言葉に、甲板に上がってきていた兎人族たちは頷く。
「セナちゃんの言う通りだ。
この舟は一種の独立地帯だ。地上での噂や評判なんか関係ない。
たとえあんたがエーデルハイドの魔人でも、わたしたちを救ってくれたことに変わりはないんだ。
残ってくれたほうが助かる」
「……そういうわけにはいかないの」
セナはさらに困惑したように眉根をよせた。
「だって、だって……みんな幸せになれるじゃないですか!?
わたしも、エーフィちゃんも。この空の上でならずーっと楽しく生きられます!
地上に戻りさえしなければ、ずっと……!」
「ねえ、セナ。
魔人がほんとうは危険な存在じゃないってなったら、どういう世の中になると思う?」
……いつの間にか、夜が明け始めているようだった。
姿をくらましていく満月と、代わって顔を出してきた朝焼けに照らされる大森林に視線を落としたエフィールが、優しく笑った。
「人と魔人が手を取り合う世界になったら、まず魔物の被害が一気に減ると思うの。
魔人の重力魔法は強力だもの。
ひょっとしたら、水の太陽っていう強ーい魔物さえどうにかできちゃうかも。
……あと、そうね、重いものをたくさん運べるようになるわ。
地味かもしれないけれど、けっこうすごいことよ。
遠い街への……輸送効率って言えばいいのかしら。
そういうのがどんどん良くなるわ。
新しい街がたくさんできて、すぐに大きくなっていくかもしれない」
俺はふと思い出していた。
かつてエフィールが、砂漠の大陸で配達員の仕事を始めようとしていたことを。
好きなだけ重力魔法の使える魔人としての身分を、隠す必要のないまま暮らそうとしていたことを。
――そして、その世界に残れたにも関わらずこっちの世界に戻ってきたことも。
「そういう、魔人と人が共存する世界を作るには……
まずはあたしが顔出さないと。
だってすべての元凶でもあるエーデルハイドの魔人が逃げてるままだったら、
誰も安心できないでしょう?」
「けれど、エーフィちゃんがいなくなったら、わたし……!」
「大丈夫よ。
あたし一人があなたたちを守り続けるよりも、
みんなでお互いを支えあう世界を作り上げたほうが、
あなたたちの居場所は守られやすい。
そうでしょう?」
俺はハッとした。
「エフィール、まさかお前、俺と同じことを……」
『セナの故郷を守る』。
ついさっき話したばかりのささやかな夢を、彼女は彼女なりのやり方で……。
「やっぱり、ダメね。
ちゃんと覚悟して砂漠の大陸から戻ってきたはずなのに、これじゃ決心が鈍っちゃう」
トッ、とエフィールが舟の手すりの上に立った。
穏やかな夜風に赤い髪をなびかせながら、彼女がゆっくりと振り返る。
夜と朝の境界線となる紫色の空を背にこちらを見渡すその両目は赤色に輝いていて、重力魔法で降りるつもりなのだとすぐに理解した。
「気が変わる前に行ってくるわね」
「待て、エフィ――!」
力づくで引き留めようと走り寄った瞬間、
急に手すりの上でしゃがみこんだエフィールに驚いて足が止まった。
彼女のまつげの一本一本まではっきりとわかるくらいの距離で互いを見合い、
ふと……穏やかに瞳を閉じた彼女が、コツンと額を突き合わせてきた。
「……さよなら」
息を呑んだ直後には、もう遅かった。
あっという間に小柄な少女は身体を傾けて地上へと落ちていく。
手すりに身を乗り出して覗くと、あの鮮やかな赤い髪がすぐに見えなくなっていった。
「スロウさん……!」
「ああ……!
すぐに追いかけよう! このままじゃ終われない……!」
「——操舵は我々にお任せください! 行先は!?」
こちらの意図を組んですぐさま出発準備を整えていく兎人族の人たちへ感謝の意を抱きつつ、声を張り上げた。
「エフィールの裁判が始まる場所——森林学院まで!
早く!!」