接触
玄関で、家の中の暗闇と静寂さをしばらく感じてからりんごは自分専用の小さいドアをカタンと鳴らして外へ出た。
この家の者たちは鈍いところがあるので、近くで起きた例の事件は他所事としてあっという間に忘れ去られるものだと思っていたが、やはり自分たちのよく知っている場所での出来事のせいか気になるものらしい。
「ふふん、誰に感謝されるわけでもなく皆が寝静まった時に一人で原因を突き止めようと寒空の下に出ていく僕に感謝しろニャー」
りんごは階段を下ってマンションの外へと出る。人が寝静まる時間帯だと、本当に静かなものだ。
「草木も眠る~丑三つ時~♪ハァ~コラサのサ」
子供の頃、自分を育ててくれた猫又のオババの歌っていた歌だ。あれ以上の歌声は自分には出せないだろうとりんごは思っている。
りんごは元々野良猫である。
気づいたころには猫又のオババに育てられていた。
りんごの実の親ではないのは分かっていたが、穏やかで愛情深いオババであったのでりんごもよく懐いていた。
そのオババはその地域一番の猫又であり、そのオババの使う術を見様見真似でやってみたらりんごは同じように術を使えた。
それを知ったオババはりんごに次々と術を教えた。それと同じくらい様々な妖怪の存在や妖怪の歴史や理を叩きこまれた。
そしてオババは旅立った。
猫は自分の死期を悟ると自ら姿を消すだの、猫の山へ行くとも言われているから、オババも一定の年齢になったら猫山へ行くだろう、その時がオババとの別れだとりんごは思っていた。
しかし、オババは本当にこの世から旅立った。
周りの心無い老猫たちは、オババは自分の死期が近づいていても幼いりんごを残して猫山に行けなかったのだろう、りんごがいなければ猫山で高い地位につけただろうにと噂した。
りんごはその地域から抜け出た。
周りの老猫たちの陰口が堪えたからではない。
悪口は一切言わなかったオババとは違ってその地域の猫たちは陰口が多く、一緒に居るのがアホらしくなったのだ。
そうしてりんごは各地を漂流する迷い猫をしているうちに屋久島家の末っ子、八重に拾われて現在に至っている。
食う寝る所に住むところを提供してきた八重には恩を感じているのだ。
オババに教えてもらった唄を口ずさみながら公園までたどり着いた。
やはりこの公園もこの時間帯だと人はほとんどいない。多いのは元がつく人間の方か。
それでも、いつもより元・人間…すなわち霊と呼ばれる存在は少ないように思える。
昼間に多くの人が訪れたからか、それとも。
「良くないモノが出てきたから掻き消されたか…」
りんごは呟きながら目隠しのブルーシートを眺めた。
見張りの人間が居るが、一人きりだ。
こんなうすら寂しい丑三つ時に事件現場で一人立っていなければならないとは、なんと大変な仕事だろう。
しかし、猫であるりんごには一切関係のない事である。
「ま、人間がやりたいなら勝手にやれば良いのニャ。別に止める義理もないし」
りんごは見張りの人間から視線を逸らして外から軽く探ったが、昼間と違ってブルーシートの中には人は居ないようだ。
りんごは座り込み、辺りを見渡しながら広範囲の気配を探る。しかし感じるのは元々のこの場所の気配だけだ。
人を一人殺めたような力のありそうなモノの気配は感じない。
もっと意識を集中してみる。
(どこにいる、どこにいる、どこにいる…)
あの目隠しのブルーシートの後ろか、それとも元々封印されていた地面の中か、木立の影か、木の上か…。
と、りんごの耳に低い音が聞こえた。
りんごは目を見開いた。目を開いてから先ほどの低い音の正体は見張りの男の声なのだと気づいた。
しかしそこに居た見張りの男の姿が見当たらない。
りんごは駆け出し、辺りを見渡した。居ない。
と、のどの奥から絞り出すような恐怖を感じているような唸り声がする。
上だ。
りんごが見上げると街路樹の上で、見張りの男の下半身が苦し気にもがいてばためいている。
最初は木の葉っぱで上半身が隠れているのだと思った。
しかし、違う。
人間の体をした何かが男に覆いかぶさっている。
りんごは助走も無しに木に爪を引っ掛けて木の上に登った。猫であるからこれくらいは容易いことなのだ。
と、男に覆いかぶさっていたモノが顔をあげて近づいていくりんごに目を向け、そして木の上へと逃げた。
りんごは追いかける。その逃げていくモノの先は小枝ばかりしかない。
これ以上登っても体の重みで落ちるだけだ。
追い詰めた、と思った瞬間、そのモノは枝も何もない空中へと身を躍らせた。
りんごは空中に身を躍らせるモノに対して優越感を抱いた。
きっとあいつは自分の力が怖くて逃げるのだろうと。心配するほどの事でもない。やはり自分はあいつより強いのだ。
「馬鹿め、落ちるだけニャ!」
りんごはそういうと力を溜めた。
「空気の術!」
空気が震え、木の枝や葉が鋭利な刃物で切られたかのように飛び散っていく。
空気の術とは人間界でも有名な、かの昔話にて猫又が披露した術の一つである。
年老いた猫又が世話になった貧乏な和尚のために一計を案じ、亡くなった庄屋の娘の棺を猫が空中に浮かべる。
そして予め貧乏な和尚に教えていた呪文を唱えさせ、他の僧侶が下せなかった棺を下ろしたということで、貧乏な和尚の株を上げるという物語だ。
この術は猫又の中では基本中の基本の技であり、これができないなら猫又にはなれぬと言われている程一般的かつ手軽な術である。
これは物を浮かび上げる、手を使わずに物を動かすという技で、りんごがチビを叱り飛ばした時にふっ飛ばしたのもこの技だ。
あまりに手軽な術なので、感情が高ぶると勝手に出てしまうことがある。
そして、りんごはそれを応用して空気を震わせ、風を起こす事を覚えた。
いや、実をいうとりんごが自分で考えたわけではないのだが、その話は今は関係ない。
りんごの放った空気の術は空中に身を翻したモノに向かって一直線に進んでいく。
刃のような空気が当たったら、相手はそのまま地面に落下する。
そのあとに息の根を止めてやれば妹も安心して暮らせるだろうし、お父さんもこの道を通れないと困ることもないだろう。
ずいぶん簡単な仕事だった…。
とりんごが気を緩めた瞬間に、予想外の事が起きた。
空気の術がぶつかる直前、相手が急激に何も無い空中を駆け上がっていったのだ。
「ニ゛ャッ!?」
りんごは驚きの声をあげて、空中を駆け上がっていくモノを目を見開いて視線で追いかけた。
りんごの放った風は逃げていくモノには当たらずに通り過ぎ、向かい側の木の枝を薙ぎ払いながら幹の一部をギャリギャリとえぐって辺りに木っ端を散らす。
逃げていくモノは空中でゆんゆんと揺れながら移動し、一段と高い木の裏へと消えて行った。
木の葉を揺らす音がしばらく続いたが、次第に音もなくなり、元の夜の静けさに戻っていく。
「………」
空中を逃げていくモノを呆然とりんごは見送っていたが、うめき声でふと我に返った。
もはや耳にも、感覚的にもモノの存在感は無い。
下を見ると、見張りの男が程よいバランスで木の枝に引っかかり、辛うじて落下はせずに呻いている。
「お、生きてる」
てっきり先のモノに襲われて即死したと思っていたのだ。
だからと言って楽観視もしていられない。
りんごの鼻にかすめる匂いは明らかに血の匂いであり、木の枝から滴り落ちている液体もこの男の血だろう。
正直りんごにしてみれば、顔も素性も分からない人間がどこぞで死のうが全く気にならないが、こうして目の前で死に瀕しているのを放っておくのはやはり多少気が引ける。
「やれやれ、しょうがないニャ」
りんごは男の服のポケットを一つずつ確認し、スマホと呼ばれるものを取り出した。
実際に使ったことはないが、お父さんが使っているのを肩の上からよく見ているので大体は分かる。
そして警察へは110番というのも覚えている。
お母さんが家の電話機の目の前に「警察110番、救急車119番」と主要な公共機関の電話番号を書いたものを張っているのだ。
りんごは110番を押し、電話に出た。
何度かのコール音のあと、人が出た。
りんごは猫又であるので、人間の言葉も話せる。なので一気にしゃべった。
「あ、もしもし?僕ニャ、僕僕。は?事件か事故?えーと、事件ニャ、事件。そんで昨日一人死んだ所…は?当事者か目撃者か?目撃者ニャ、目撃者。
そんで例の場所で一人死にそうだからさっさと救急車でも呼んで助けてやれニャ。ん?いつ?今ニャ。
…え?場所?だーかーらー、昨日人が死んだ…公園の脇の小道の…そうそう、谷地区駅前の公園脇の気持ち悪い場所の小道…。
は?犯人の年齢と服装と逃げた方向?知るか、葉っぱで隠れててよく見えないし今空中とんで逃げてったニャ。
…え、ヘリコプター使ったのか?そんなもん使うか、アホか。常識的に考えろニャ……被害状況?だーかーらー、一人死にそうな奴がいるって何度も…えーと、血が出てるニャ。出血がひどいニャ。…え?僕の連絡先と住所?」
りんごは尻尾を揺らしながらしばらくスマホを眺めていたが、プツッと切った。
「猫にそんなものあるか」
りんごはスマホを元の位置に押し戻しながら男を見る。
うめき声は発していないが、かすかに腹は上下している。どうやら気絶しているようだ。
すると遠くから救急車のサイレンが徐々に近づいてきている。
「よし、帰るか」
あとは人間に任せれば良い。りんごはそう判断してその場を後にした。