りんご、動く
「おはよー…」
八重が眠そうに目をこすり、ダラダラと歩いてくる。
相変わらずゾンビみたいな動きだな、と龍二が洗面台に向かう八重を見送り、痛む頬を撫でる。
「テレビくらいつけないか?」
和義がそう言いながらテレビをつけた。
「あ、お父さん。炊飯ジャー持ってきて」
味噌汁を運ぶ良子が和義にそう声をかける。
極めて普通の朝の風景だ。
りんごはこの家の中で誰よりも先にキャットフードを与えられるので、一人であぐあぐと食べ、顔をこすりながら皆の集まる居間に歩いていった。
そしてテレビの前に座り、黙ってテレビを見る。
「…あれ?」
良子が素っ頓狂な声を上げた。
「これって、この辺りじゃない?」
その言葉に屋久島家の全員がテレビに集中した。テレビの中のかしこまったような顔のアナウンサーが淡々と言葉をつづる。
『今日未明、東京都藪川区谷地町一丁目で、男の変死体が発見されました』
「ええ!?」
和義、良子、龍二、八重の全員が声を合わせて叫んだ。
「うそ、谷地町の一丁目って本当にこの近くじゃないの!」
良子が信じられないとばかりに目を見開いた。
事件現場を見ていた八重がそういえば、と口を開いた。
「この道、痴漢がよく出るから夕方から夜遅くに通らないようにって、学校から注意されてた道だよ!友達もよく痴漢に遭ってたの!」
「っつっても、今の死んだの男だろ?何だ、返り討ちか?」
ケケッ、と龍二が薄ら笑いを浮かべる。
「こら、不謹慎!」
と良子が龍二をいさめ、龍二はむっつりと黙った。
と、和義の顔が妙に強張っている。良子はそれに気づき、
「どうしたの?」
と声をかけた。
和義は、黙って事件現場の映像を見てから、重々しく口を開いた。
「父さん…ここ毎日通ってる…」
「っええーーー!」
良子が叫んだ。
「そんな危ない道通らないで!」
良子は和義にすがりつきながら言うが、和義は、
「けどこの道、駅に近いんだよなぁ…」
と何ともいえない表情で答えた。
今まで毎日近いからと通勤に使っていた道だから捨てがたいのだ。
「事件起きたんだから今は通りたくても通れねぇだろ」
龍二はもう話題に飽きたようで、冷静にそう言いながらさっさと自分の茶碗にご飯をよそっていた。
「あ、そっか」
屋久島家の中は、その一言で家の近くで変死体が発見された話は終了し、また毎日の朝の忙しいモードに切り替わった。
しかし、一匹だけまだテレビに釘付けになっている者が居た。
りんごである。
りんごは何度も繰り返される事件現場の映像をジッと見て、慌しく動く家の中の者たちを振り向いた。
テレビの中では、
『犯人はまだみつかっておらず…』
と淡々と事件の詳細を伝えるアナウンサーが喋っている。
「やれやれ、近くで事件が起きて犯人も見つかってないのに、いつも通りの日常を送ろうとする人間は逞しいのやらヌケてるのやら…」
りんごはフー、と鼻でため息をついてテレビ画面に視線を戻した。
と、りんごの視線が一点に集中した。
雑木林に続く植木から妙な物が見えたのだ。
よく見ようと立ち上がって身を乗り出すが、画面が切り替わってしまった。
「あ、ちょっと待てニャ!」
りんごはテレビに飛び掛った。
後ろでは「テレビにりんごが飛びついてるよ」「ニュース番組で飛びつくなんて、珍しいねぇ」とほのぼのとした声が聞こえる。
りんごはもう一度今の映像が流れないかと待ち構えたが、ややもすると天気のニュースに切り替わってしまった。
りんごは軽快な音楽と共に流れる天気を見ながら、呟いた。
「…ヤバイ感じがするニャー…」
今、一瞬だけみえたもの。
最初は木の根っこかと思った。が、それはよくよくみると人間の倍はあろうかと思われる、細くスラッとした指であった。
* * *
「で、それって結局何だったんすか?」
りんごは隣の家に遊びに行って、チビに今朝見たニュースの話をした。
大抵チビの飼い主は朝早くから仕事で居ないが、りんごはよく猫用の出入り口を利用して隣の家へと遊びに来ている。
チビの問いかけにりんごは「うーん」と唸った。
「とりあえず、良いものでない事は確かニャ」
「じゃあ悪いんすね!」
「うん、悪い。確実に悪い」
りんごは断言した。
「元々あの道は昔から色々とあった場所だから、そういう悪いのが集まりやすい場所なのニャ。分かるニャ?」
そう聞き返されたチビはうんうん、と頷く。
「確かにあの道は色々と怖いのがいて通りたくないっす」
チビは猫又ではないが、生きてるものと死んでるものの判別はうっすらできる。
散歩がてらその小道を散歩しようとした時、あまりにも集中的にこの世のものじゃないモノが大量にうごめいていて、ここは駄目な所、とチビの小さい脳みそは記憶した。
「じゃあ、その事件はあのウジャウジャした幽霊が原因ってことっすか?」
りんごはじっくりと考え事をした後にゆっくりと首を振った。
「いいやそれは無いニャ。そりゃあ、恨みを残して死んでいった奴らの思いってのは残ってて、それに引っ張られる奴もいるニャ。
けど大半は成仏したいけどできない奴らニャ。それに今朝のあれは…」
りんごは一旦言葉を区切ってチビを見据えた。
「あの元々あった古い石碑と同じ気配がしたニャ」
チビはその新しい石碑と古い石碑が二つあるのはりんごから聞いて知ってはいるが、実物を見た事は無い。
それがある場所に行かず帰ってしまったからだ。
「師匠はあそこに二つ石碑があるとか言ってたっすよね?たしか古い方はちゃんと碑の役割をしてるけど、新しいのは役割を果たしてないとか…」
「そうニャ」
りんごはよく覚えていた、という顔つきで頷いた。
「新しい石碑はただの飾りニャ。置物ニャ。そんでその古い碑ってのは、何かを封じ込めている物だと思うのニャ」
「へえ」
「きっと、僕たちが生まれるずーっと前…。きっと悪代官と越後屋ってのが居た時代に力のある人間が凶悪な何かを封じ込めたんだと思うのニャ。
で、何かがあって、封じ込められてるモノが外に出て、人を襲った…」
りんごはそこまで言ってから、チビを見据えた。
「っていうことだと思うのニャ」
りんごはいつももったいぶった割にはあっさりと結論を言って話を終わらす。
「さっすが師匠、何でも分かってるっすね!」
りんごは何もかも分かってるように言うが、チビはりんごがどうやってその事が分かるのかまるで分からない。ただそれが凄いと思っている。
りんごは、いつも通りふふん、と自慢げに鼻を鳴らし、
「霊視ニャ」
と答えた。
「レイシ…?」
キョトンとした顔で聞き返すチビに、りんごは知らないか、と説明し始めた。
「霊視とは、その場をみて色々と探る事ニャ。僕はその場にいるモノ、その土地であったこと、幽霊の生きているときに遭った出来事…色んなものが見えるニャ。
もちろん現場で見たほうがしっかりと分かるけど、テレビ越しでも何となく分かるのニャ」
二本足で立ったりんごは自慢げに踏ん反り返る。
二本足で立つ猫の動画などはよくテレビで見ているが、それとは比較にならないほどりんごの二足歩行は安定していて人間的である。
安定した二足歩行ができる、それが猫又である証だ。
「その霊視って自分にも出来るもんすか」
チビはワクワクと輝かせながらりんごに目を向けた。
しかし、りんごはたしなめるように口を開く。
「んなわけないニャ。これは僕の生まれ持っての才能ニャ。僕は生まれたころから天才なのニャ。お前とは格が違うのニャ」
チビはガッカリしながら質問を続けた。
「ちなみに、それってどんな風に見えるんすか?」
と質問した。
そういうものが見えないチビにとって、りんごがどのようなものを見ているのか興味がある。
りんごは手を広げた。
「こう、スーッと見えるニャ」
「分かんないっす」
「ま、僕は生まれつきそんなのが見えてたからニャー。分かる奴にしか分からないものってのがこの世にはあるのニャ」
フッフッフッ、とりんごは含み笑いをしながら続けた。
「けど、あの石碑は近くによるだけで『寄るな!見るな!触るな!』っていう念が伝わってきて体中がゾワーってなってたのニャー。
多分封じ込めた人が何かを二度と外に出さないようにって、きつーく封じ込めたのニャ。あの碑の下にはよっぽど悪いもんが入ってたんだニャー」
りんごはおお怖い怖いと体をゆすって見せ、チビは「ん?」と首をかしげた。
「あれ…?ってことは、この町によっぽど悪いものがうろついてるって事っすね?」
「ニャ」
りんごは頷いた。
「マジでヤバイんじゃないっすか?」
チビは驚いたように声を上げるが、
「うん、ヤバイのニャ」
とりんごはケロっとした顔で答えた。
ヤバいというのに、慌てもせずにケロッとした顔のりんごをチビは見つめた。
そして、
「(こんな危険な状況なのに動じない師匠マジかっけぇ…!)」
と尊敬の目でりんごを見つめる。
「どうしたニャ」
りんごは急に目を輝かせて自分を見ているチビをみて聞いた。
「師匠はその封じ込められていた奴と戦ったら勝てるんすよね!」
「ま、僕くらい強いと余裕だろうニャ」
またりんごは踏ん反り返る。
「じゃあ世界征服の第一歩ってやつっすよね!」
「むっ…」
りんごはそう言われて顔を引き締めた。
今まで世界征服すると心に決めていたが、特に何をするわけでもなく今の今まで食っては寝て、寝ては起きて、起きたら散歩して、散歩したら家に帰って、家に帰ったら食って…という毎日を過ごしてきた。
チビの一言で、今の今までそれらしい活動を全くしていない事にりんごは気づいてしまった。
「そ、そうだニャー。今までも色々やってたけど、これを足掛かりにちょっとずつ勢力を広げていくつもりニャー」
しかしそんな事は弟子であるチビには言えない。
チビから目を逸らしながらモソモソと決意表明をする。
「マジっすか、じゃあ僕もできる限り手助けするっすよー!」
目を輝かせるチビの目が見られずに、りんごは目をそむけたままだ。
「じゃあこれから倒すんすよね!」
「ええー、けどニャー」
その迷惑そうな顔と声を見てチビは、ん?とりんごを見た。
「だって人一人死んでるっすし」
りんごはうーん、と顔をしかめた。
りんご自身、その封じ込められていた悪いモノ自体は放っておこうかと思っていたのだ。チビの家に遊びに来てこの事を話したのだって、ただの日常会話だ。
確かに人は亡くなったが、その亡くなった人自体一度も会ったことのない人間であって、そんな見ず知らずの人間のために戦う正義感はりんごは持ち合わせてもいない。
確かにあれは周りに居る者に悪をなす類のモノだろう。だが、いつまでもあの場所に留まるだろうか。
自分だったら自由の身になったらとっととその場所から立ち去る。
だから放っておいても他の場所に行くだろう。
あのモノが行った土地ではまた今回のような事件が起きるだろうが、まあ、そうなったらそうなったでしょうがない。
見知らぬ土地の見知らぬ人間にそこまで肩入れするほどの愛情は持ち合わせていない。
しかし、こうも考える。
仮にこれから世界征服を開始して、勢力を広げたら別の所へ逃げたそいつとは結局鉢合わせするのでは?
相手の行動次第では衝突するかもしれない。
それなら今のうちに組み伏せて傘下に収めるかどうかしても良いのではないだろうか。
そうだ、それがいい。それで今まで何もやって居ない事をチビにも悟られない(はずだ)。
「よし、一肌脱ごうニャ。世界征服、一歩前進ニャ!」
「いよっ師匠かっこいい!」
二匹は颯爽と猫用の出入り口を通り抜けて外へと飛び出して行った。
人間のために動く気はないが、自分のためならすぐ動く。それがりんごである。