りんごの弟子と
その頃、りんごは家をでて外の廊下をのびのびと歩いていた。
りんごの暮らす家というのは、俗に言う動物マンションである。りんごが住むのは三階でよく猫が廊下をウロウロしたり、稀に脱走した犬がマンションの非常階段を上り下りして飼い主と追いかけっこしているときもある。
どうやら他にも様々なペットを飼っている家はあるようだが、家から一歩も出ないペットもいるようで全ては把握していない。
外は大変いい天気で、散歩するにはもってこいの日和だ。りんごはうーん、と伸びをした。
「あ、師匠!」
「おお」
りんごが声をかけられた。
無論、この猫同士の会話は人間には聞こえない。
傍目には猫がニャゴニャゴ鳴いてるように見えるだろう。
声をかけてきたのは隣の家の飼い猫のチビである。
チビと名前がつけられているが、チビはがっちりとした体型で図体がりんごの三倍はあろうかというほどの巨体であり、遠目から見ると小型犬に見えなくも無い。
「今日も御機嫌っすか」
「まあまあ、堅苦しい挨拶は抜きニャ」
図体のでかいチビは、自分よりも小さい、子猫ほどの大きさのりんごにヘコヘコと頭を下げている。
対するりんごは小さいわりに態度が大きく、偉そうな口ぶりだ。
「またお母さんが遊ぼうって言ってきたんすか?」
チビがそういうと、りんごは「やれやれ」と眉をしかめて首を振った。
「そうなのニャー。どうもお母さんは僕にべたべたしてきて鬱陶しいニャー」
「確かに、俺もあのお母さんに見つかったらすっげーモフモフされて困るっすよ。それより師匠…」
チビはりんごに向き直った。
「今日こそは猫又の術を教えてほしいっす!」
「いんや!お前にはまだ早い!」
りんごはキッとチビを睨みつけた。チビはふて腐れながら口からブフー、と息を噴き出す。
「けど、特別に俺を弟子にしてくれるって言ったじゃないっすか。いつになったら猫又の術とやらを教えてくれるんすかー!?」
そう。
外で働く父、専業主婦の母、高校生の長男、中学生の長女の四人が平凡に暮らす家庭には、一つだけ異質のものが混じりこんでいたのだ。
飼い猫であるりんごが、猫又だということである。
体こそ子猫のように小さく性格も子供っぽいが、これでも御年十歳という老猫なのだ。
「だってお前、まだ三歳ニャ。猫又になる十歳まで、あと七年あるニャー」
りんごは、しょうがないじゃん?とでも言いたげな表情で首をかしげた。
「えーじゃあ、なんでこの前、弟子にするとか、術を教えてやるとか言ったんすかー!嘘ついたんすかー!酷いっすよー!」
「隣の家のよしみニャ。ありがたく思えニャー、力のあるこの僕の一番弟子になれるなんてお前は幸せ者ニャー」
「そんなこと言われても教えてもらえないんじゃあ…」
文句言いたげなチビを見て、りんごはフン、と鼻を鳴らした。
「しょうがないニャー。術を教えるのは無理だけど、代わりに猫又の歴史でも教えてやろうニャ」
「えー、俺頭使うの苦手っす、術教えてくださいよ術ー」
「黙りゃー!」
りんごの一喝でチビの体に謎の衝撃がぶつかり、そしてチビ自身も飛ばされて空中を舞った。
人間だったらそのまま壁に激突であろうが、チビは猫なので空中で一回転してその巨体とは裏腹に四足で静かに着地する。
「な、なんっすか今の!」
目を輝かせるチビを無視して、りんごは歩きながら話し始めた。
「生まれながらの妖怪じゃない奴は余計頭を使うべきニャ!お前みたいな体力馬鹿の知能無しがそのまま猫又になったらと思うと…!
おー怖い怖い!妖怪の理なんぞそっちのけで自分のやりたいようにやって、この世の中の理を片っ端から無視して最終的には保健所行きニャ!」
正直、チビからしてみたら保健所行き以外の言葉はよく理解できなかったが、とりあえず何かしら頭を使わないと保健所行きだというのは理解できたのでここは素直に師匠の話を聞こうと黙り込んだ。
むしろりんごもなぜ保健所行きと口走ってしまったのか分からないが、チビが黙り込んだのでまあいいか、と思った。
りんごは話し始めた。
「僕が知っている限り、猫又が有名になったのはあれニャ。悪代官と越後屋ってのがいた時代ニャ」
「それってどれくらい昔なんすか?」
チビに質問されたりんごは、一寸動きを止めてから口を開いた。
「悪代官と越後屋ってのがいたくらい、すごーく昔の時代ニャ」
りんごはキリッとした表情でチビを見た。
どう頑張っても十年しか生きていない猫なので、人間の世界の歴史はそこまで詳しくはないのだ。
「そんで昔ながらの猫又を大雑把に分けると、人を食い殺す魔性タイプと人を助ける恩恵タイプ、後は化けててもそのまま変わらず人間の傍に居る日和見タイプがいるニャ」
「どっちが多いんすか?」
「ま、多いのは日和見タイプだろうけど、それでも有名なのは魔性タイプだろうニャ。今も昔も良い話より悪い話の方が大きく取り上げられるもんニャ」
二匹は話しながら歩き続けて、マンションの外に出た。
りんごたちの住むこの町は都市の郊外に建てられていて、ほぼベッドタウンという位置づけだ。
なので出勤通学の時間帯が過ぎると辺りは比較的静かになり、猫を見つけては追いかけてくる子供もいないという、猫にとっては大変好ましい環境である。そのせいか、この界隈で動物を飼っている家は多いように思える。
りんごはマンションの敷地内の芝生に箱座りをした。
その隣にチビがデンと座るが、巨体なので箱座りができずにスフィンクスのように前足を前に突き出す姿勢で座っている。
「それでも最近は魔性タイプは少なくなってきたんじゃないかニャー。
大体にして猫又だと正体がばれたら今まで快適に過ごしてた家を出て行かなければならないニャ」
「え?どうしてっすか?」
「何ニャ、お前そういうことすら知らないのニャ?勉強不足にもほどがあるニャ!」
「分かんねーもんは分かんねーっす。僕そういう話とは無縁っすし」
「ま、それもそうニャ」
りんごもあっさりと理解して一呼吸おいてから話し始めた。
「正体がばれたら消えないといけないのは猫又だけじゃなくて世の中の化け物全てに当てはまるニャ。例えばお前にはチビと名前がつけられて、僕にはりんごと名前がつけられてるニャ」
「っす」
チビはうなずいた。それくらいなら理解できる。
「名前ってのは一種の呪いニャ。言葉を操る『者』が『存在』に名前をつけると『存在』は『者』によって一個の『所有物』になるニャ。
だから、仮に僕が家族の誰かに『お前は猫又だ』と正体を見破られたとする。
そうしたら僕は『りんごという名前の飼い猫』ではなく『猫又』という一個の『存在』に戻る。
だから猫又だけでなく、他の化け物や妖怪たちも、正体を明かされたらそこから去らないといけないのニャ。…分かったニャ?」
りんごはチビの方へと顔を向けるが、チビはモゴモゴと口を動かし、何とも言えない微妙な表情で首をかしげている。
「…どうやら分からなかったみたいだニャ…。やっぱり三歳には猫又の話は早いのニャー」
ほーれ、見たことかとでも言わんばかりに、りんごはチビを茶化すように笑った。
「はぁ、すみませんっす…。けど、師匠はどこでそんな意味分からないもん習ったんすか?」
「僕ニャ?」
りんごはそういわれると、目を空に向けて遠い眼差しになった。
「僕は小さい頃は野良猫で、当時、その界隈で一番の猫又と言われた猫のオババに育ててもらったニャ。眠るときには子守唄代わりにそういう話を聞いていたもんニャ」
りんごは懐かしいニャ~、と言いながら空を見上げている。
チビはその話は初耳である。てっきり昔から屋久島家で飼われていた生粋の家猫だと思っていたからだ。
「あ、そういえば自然と猫又になれる猫が絶滅したのは知ってるニャ?」
「それは師匠から前に聞いたっす!」
そう、一昔前までは長生きできる猫は極わずかで、十歳まで生き残った猫には霊力が宿り自然と猫又という妖怪へと変化していた。
しかしこの現代では、ペットの医療の発達で十歳、二十歳まで生きる猫などざらに居る。
なので自然と猫又になる猫はあるときから激減し、ついには自然と猫又になる猫は絶えてしまった。
その代わり猫又になりたい猫は猫又である老猫に術を教えてもらいに行くのである。
同じ家にいる猫が猫又ならば自然と同じ家に飼われている猫も猫又になろうが、一匹のみで大事に家の中でずっと育てられた猫は猫又にはならず、ごく普通の猫として一生を終える。
もちろん、猫又になる、ならないは猫の自由である。
しかし猫の間では猫又になるのは一種のステータスであり、一人前の猫又になるために足しげく老猫の元へ術を習いに行く猫が後を絶たないのだ。
「(けど、師匠は見かけが子供だから弟子希望者が来ないんすよね…)」
正確には来ないというより、りんごの見た目が幼過ぎて猫又だと気づく者がこの界隈にいないだけなのだが。
チビは一ヶ月ほど前にこのマンションへ飼い主と引っ越してきたのだが、最初会った時、りんごは生後三ヶ月ほどの子供だと思っていた。
そして、話をしているうちにりんごが猫又だと知り、弟子にしてくれと頼んだのだ。
それでも先ほども自分に理解のできない話をペラペラと話せる程の知識がある。
それに先ほどは一喝と共に衝撃が来て飛ばされてしまった。やはり、見かけは子供でも立派な猫又なんだ、とチビは言い知れぬ感動と興奮を味わっていた。
「ま、僕は子供のころに猫のオババに教わって基本の基本は一歳たらずでマスターしたのニャ。並の猫だと二、三年はかかるやつをニャ。
つまり僕は生まれながらのエリートなのニャ。そんな天才の弟子になれるなんて、ほんとーにお前は幸せ者ニャー」
「うっす、ありがてぇっす!」
チビも素直に自分の幸運を噛みしめる。
それを聞いたりんごは自慢げにフフン、と鼻を鳴らして頭をそらす。何だかんだ言って良い師弟関係を維持しているのだ。
「けど…師匠が子供のときに一年たらずで基本をマスターできたなら、俺にもできるんじゃないすかね?」
チビは期待のこもった目でりんごを見た。
りんごが一歳でマスターできたものならば、三歳である自分にもできるのではないかと思ったが、
「さっきの話が理解できないようじゃ、駄目ニャ」
りんごはあっさりと首を横に振り、チビはがっくりとうな垂れた。
「あと七年あるんだから頑張れニャ。お前頭悪いから手間はかかるだろうけど」
りんごは小さい前足でポンポンとチビの背中を叩いた。
「あざっす!お願いするっす!」
頭が悪い発言にも怒らない。チビはそんな少々お馬鹿で温厚な猫である。