TS100ものがたり 09:異動
新年が過ぎたころ、新年度の異動・配属希望調査がある。私は独身で特に家庭内の問題がないということもあり、新人研修の終わった二年目から、北海道の釧路へと転勤となった。地元の関西の支店ならまだしも、北海道、それも札幌ではなく釧路というのは想定外だった。
始めの一年は、仕事も新生活も慣れるまでが大変で、飛ぶように時間が過ぎていった。二年目になると余裕も出てきて、北海道の大自然も満喫できるようになった。しかし段々と田舎の生活に飽きが回ってきた。そして三年目。都会とは隔絶された何もない生活が、ただただ苦痛と化した。早く地元か、少なくとも都会に戻りたい。ただそればかり思うようになった。
昨年、初めて異動の希望を出した。何とかして、少なくとも本州に戻りたい。そういう気持ちだったが残留が決定した。また一年、この何もないところで暮らすのかと思うと気が重かった。何とかモチベーションを保ち頑張ろうと思ったが、次第に色々なことにやる気を見いだせず、うつ病予備軍のようになった。しかしここで成果を残せないと再び残留する。そういう焦りが余計に自分をだめにした。
そして今年度の異動・配属希望調査の季節がきた。今年こそはと気合を入れて提出したが、こっちが地元でもない限り、誰の思いも同じだ。狭き門であることは間違いない。今年もダメなんだろうか。それなら寧ろ退職して地元で転職を考えるか…。そんなことを考えながら喫煙室にいく。大学時代以来タバコはやめていたのだが、一年前からストレスで再び吸い始めてしまった。誰もいない喫煙室で煙草を吸いながら、昨日まではなかったポスターがふと目に止まる。
『女性活躍推進社員募集! 本社の女性管理職を増やすため、若い皆さんの応募をお待ちしています!!』
なんだ、これは?最近、総理大臣だか何だか大臣だかが、女性の活躍だの、女性の管理職割合をどうするだの言っていたが、その影響なのだろうか?別にこうやって無理して女性を引っ張ってくる必要はない気がするのだが。家庭を守ることや育児なんかも立派な仕事だと思うけどな…、そう思いながら何となくそのポスターの下を見る。
『勤務地 東京本社 大阪本社 応募資格 29歳以下の大卒社員。(一般職可。男性の応募可)』
???印刷ミスかと思い、よく見てみるが、間違いなく書いてある。『男性の応募可』意味が分からない。女性管理職の候補を募集しているのではなかったのか?ポスターにも、いかにもわざとらしく顔を上げて空を見上げる若い女性が使われている。それなのに、なんで男性でも応募できるのだ?
『採用方法 書類審査、筆記試験、面接試験、健康診断。応募締め切り、1月末』
なぜ男性でも応募可能なのか、理由を示す記述はない。しかし、勤務地が本社のみというのは魅力的だ。もしかしたら最後の手段として使えるかもしれない。
煙草を灰皿に捨てると職場に戻った。
数日後、管理職との面談があった。異動の意思を確認するものだ。
「君はまだ若いんだし、子どももいないんだから、もう少しこっちで頑張ってみたらどうだい」のっけから引き留めムードである。去年もそうだったのだから予想はできた。しかし今年は譲る気はない。
「都心で大きなプロジェクトに参加して、自分を磨きたいのです。それに今まで身に着けた語学力を活かして、国際的な部分でも貢献したいんです」こっちも取って付けたような動機だが、とにかく必死にアピールする。
「釧路でも、来年度からロシアとのジョイントプロジェクトが始まるぞ」
「・・・」なんか墓穴を掘っている気がする。その時、先日喫煙室で見たポスターがふっと頭に浮かぶ。「女性活躍推移社員なんですけど…、応募してもいいでしょうか?」
「え?」課長の表情が止まる。しばしの無言の時間が流れる。間違いなく、男性応募可…とあったよなぁ。それとも単なる印刷ミスなのだろうか。
「す…推薦はできるけど、本当にいいのかい?」課長の声は引きつっている。
「はい、本社に戻れるんなら何でも」
その日の面談はそれで終わった。再び煙草を吸いたくてムズムズし、禁煙室に行った。事務の鳥居さんがいた。
「鳥居さんは、これ、申し込まないの?」私は壁のポスターを指しながら言った。
「あたし、地元こっちだもん。別に大変な思いをして偉くなりたくないし」
「ふーん、俺、さっきの面談で申し込んじゃった」
「えー、だってこれ、女性向けじゃないの?」そう言いながらポスターを見る。「あれ、ホントだ。男性も応募OKだって。意味わかんない」
「俺も意味わからん。女性活躍推進に関する業務をするってことなのかな?」
「違う気はするけど・・・」
結局何だかわからず、時間は流れた。2月上旬、課長から呼び出された。
「例の応募、書類審査に通過した。次は東京本社で健康診断と面接、筆記試験らしい。来週の金曜だから、急いで飛行機取りなさい」
私は実施要項を受け取った。午前中に面接、その後筆記試験。そして午後から全部使って健康診断だった。なんか、健康診断の時間が長い気がするが、こんなにかかるのだろうか。健康診断のため朝食、昼食は食べてはいけないと書いてある。
何はともあれ、久しぶりの都会だ。自然と胸が躍る。釧路から羽田へは飛行機で1時間45分。意外と近いが、この心理的な遠さは何なのだろう。
前日の仕事終了後、釧路空港から東京に向かった。前日の飲酒も禁止とあったので、都会の眠らない夜もそう楽しめなかったが、幾つかの専門店を覗いて、その品ぞろえの格段の差に驚いた。そして人の多さ。どこにこんな沢山の人が隠れていたのだろうと思うぐらい、多くの人が、色々なところに溢れている。
都会の刺激にくらくらしながら、その日は早めにビジネスホテルで眠った。そして翌日。新人研修で一度だけ訪れた本社ビルへと向かう。20階建てで子会社なんかも入りながら一棟すべて使っている自社ビルだ。最新のガラス張りのオフィスビルに比べれば見劣りするが、白いタイルの外壁はそれなりに風格を感じる。
受付で試験に来たことを伝えると、社員証を首からかけて、ゲートを通って15階の控室に行くように言われる。社員証…。カバンをあさってやっと見つける。あってよかった。釧路では一度もつけていない。勿論、ゲートなどもない。社員証を、自動改札のように、センサーに近づけると、入り口が開いた。この社員証にこんな力が隠されていたのか…と驚く。そしてエレベーターで15階へ。階数がずらっと並ぶボタンも本当に新鮮だ。釧路では5階以上に行ったことがない気がする。そして勝手な思い込みなのかもしれないが、一緒に乗っている女性はおしゃれで美人だし、男性はびしっと決めて仕事が出来そうに見える。言われた通り、控室と貼られた部屋にいく。ノックして入るが中には誰もいない。ボツンと椅子に座りながら窓の外を見る。このビルより遥かに高い高層ビルが乱立し、多くの車がその間を流れていく。ヘリコプターなんかも飛んで、躍動感に満ちている。こんな風景、少し前までは当たり前だったのに、今では感動している自分がいる。そんな自分が嫌だ。
コンコンっとか弱いノックが響く。
「斎藤紀夫さんですか?」ファイルを持ったスーツ姿の女性が顔を出す。私は返事をして彼女に続く。少し歩いた先の会議室へと通される。会議室には典型的な面接会場のように、椅子が一つとその前に面接官の席が5つ。この面接会場が唯一特殊なのは、面接官がすべて女性ということだった。50代ぐらいのおばさんから、さっき呼びに来た20代ぐらいの女性までずらりと並んでいる。今まで女性が面接官だったことは数えるほどしかなく、それもこの数だと、ちょっと異様な感じはする。
簡単に自己紹介と自己PRをする。
「斎藤さんはまだ独身ですよね。この募集に応じることに、ご両親の同意は得られてますか?」
いきなりの変化球だった。なんでこんなことを聞くのか全く分からなかった。
「家族には特に相談していませんが…、少なくともすぐ行ける場所で働ければ喜んでもらえると思います」
「結婚、出産は考えていますか?」
「今のところはまだ…。少なくとも20代のうちは考えていません。30ぐらいになったら、勿論結婚もしたいし、子どもも二人ぐらいいればいいなとは…」
なんでこういう質問ばかりぶつけてくるのだろう。一応用意しておいた台本がばらばらと崩れていく。
「女性がより活躍するには、男性の視点というのも必要だとは思うんです。あなたから見て、今の社内の女性の活躍を妨げているものは何だと思いますか?」
「外部的な側面としては、育児休業の取りにくさや結婚による退職の慣例、あと長時間労働の必要性等があると思います。一方内部的な側面としては、女性社員そのもののやる気の問題があると思います」
「やる気ですか?」
「初めから諦めてしまっている女性が多い気がします。そのモチベーションをどうやって高めていくのかが大切だと思います」
「そのやる気、このプロジェクトであなたに見せてほしいですね」
これは用意していた回答だったのですらすらと出てきた。ただ最後の言葉の意味がよく分からなかったが、特に気に留めなかった。その後、月並みな質問が続き、15分ぐらいで面接が終わった。そしてさっきの控室に移り、そこで筆記試験を受けさせられた。
筆記試験の情報が全くなく、いったいどんな問題がでるか分からなかったので、飛行機の中で就活時代のSPIのテキストなんかを流し読みしたが、実際に用意されていたのは、性格テストみたいな、二択や五択の並ぶ、マークシートの問題だった。
『博物館より劇場が好き』とか『二人で話すより集団で話している方が好き』とかそういう質問が並ぶ。あと『生まれ変わったら異性になりたい』『異性の立場になって考えることができる』みたいな、女性に対する共感力を測るような質問も沢山あったので、すべて『はい』で答えた。
試験が終わり、次は健康診断だった。会社の近くの病院で検査の予約をしてあるので受けるように言われた。検査が終わったら現地解散でいいらしい。しかしお腹がすいた。お昼時のいい匂いのするビジネス街を抜けて、別のビルの中にある病院に行くのは辛かった。
午前中の試験がすんなりと終わった一方で、午後の検査は時間がかかった。混んでいるからというのもあるが、普通の健康診断ではしないような多種多様な検査をしなければならなかった。生まれて初めてCTを撮影したし、脳波やアレルギー検査、そしてなぜか精子の検査まであった。すべて終わった時には外は夜、6時を過ぎていた。しかし長い試験と検査の拘束から解放された喜びで、勇んで街に繰り出した。
一日東京で遊び歩いた後、釧路に戻ってきたときの絶望感は半端なかった。まず凍てつくように寒い。そして空港の周りには、白銀の大地がどこまでも広がっている。これが二泊三日の旅行なら、なんて雄大な自然だろう…ですむが、ここに住むとなると話は別だ。空港の駐車場に止めてあった車で自宅に帰る。
正直掴みどころのない試験だったので、上手くいくかは分からなかった。ただこの極寒の地で生き延びるためには、受かっているに違いないという希望が必要だった。
試験のことも忘れかけた3月上旬、私は支店長室に呼び出された。支店長室に入るのは、一年目に道路交通法違反をして以来だ。もしかして、なにか大変なミスをしたのでは・・・と冷汗が流れる。
「斎藤君、本社から辞令がきた。『女性活躍推進社員として東京本社での勤務を命ずる』詳細は別紙にあるからよく読んで、準備しなさい。男性での希望者は君だけだったそうだ。頑張ってきなさい」
私は支店長から辞令と封筒を受け取った。あぁ、東京に行ける!そのことだけが湧き上がる感情とともに頭を支配した。引っ越しはどうしよう、住むところはどうしよう。いまある仕事も片づけて引き継がなければ。
色々な考えが頭をめぐる。そんな中、渡された資料を見る。驚いたことに異動日の4月1日の二週間前、つまり3月17日から研修が始まるため、それまでに東京へ引っ越しておかなければならない。もう二週間しかない。いまから不動産屋に頼んで間に合うのかと思ったが、社員寮への入居が可能らしい。というか、このタイムスパンだと、それ以外選択肢はない。引っ越し業者に予約を入れて、荷造りして…。いや、仕事は?得意先に挨拶して、今ある仕事を終わらせて…。やらなければならないことが、洪水のように襲ってきたが、ある種嬉しい忙しさだった。
いざ、お別れとなると、大嫌いだった釧路も愛おしく感じる。ただそんな暇もないほど忙しかった。とにかく送れるものはみんな段ボールに詰め込んで送り、向うで分別すればいい。最低限の着替えだけをスーツケースに入れて、慌ただしい引っ越しは終わった。
約3年間住んだ家ともお別れだ。荷物の積み出しが終わり、初めてここの賃貸に入った時のように、ガランと何もない空間に戻った。自分の3年間が跡形もなく消え去ったような、そんな寂しさを感じる。しかし感傷に浸っている時間はない。ここに来たとき買った中古車も処分してしまったので、バスで会社まで行き挨拶をして、その後空港に行かなければならない。13時40分の羽田行だ。
釧路支社は1フロアだけの小さなオフィスなので挨拶はすぐに終わった。「女性活躍推進社員」に申し込んだ唯一の男性として、それなりに有名になっているようだった。挨拶を終えて出口に向かおうとしているとき、喫煙室に鳥居さんの姿を見た。
「鳥居さんともお別れだね」
「本当に申し込んだんだ。勇気あるわ」彼女は煙を吐きながら言う。「女って、あなたが思っているほど楽じゃないわよ」
「同じ人間さ、何とかなるよ」
申込期限が切れたのにまだ貼ってあるポスターに目を落とす。都会での勤務ばかり目が行って、肝心の仕事にはあまり目が行っていなかったのは事実だ。そして他に採用されたのがすべて女性ということは、彼女らと仕事をしていくことになるのだろう。
確かにあまり楽ではない気もするが、もはややるしかない。私は空港に向けて歩き出した。
3月の東京はもう暖かかった。まだ氷点下の日が続く釧路とは、外国のように寒暖の差がある。空港についたその足でまずは本社に行かなければならない。人ごみの中、キャリーバックを転がすのは大変だ。電車を乗り換え本社につく。以前とは違う小さな会議室に通された。誰もいないが、すぐに書類を持った女性社員が来た。
「幾つか書類があるので、サインと押印お願いします」
宣誓書とか、社員寮賃貸契約書とか、そういう感じの書類だった。内容もよく確認せず、次々とサインをして印を押した。
「ありがとうございます。では、こちらの用意はしておきますので、虎山病院の方へ行かれてください。一週間後、またお会いしましょう」彼女は思わせぶりな笑みを浮かべた。
「はぁ…」
私は上司から受け取った書類は一応ばっと目は通した。スケジュール上、最初の一週間が『矯正入院』となっていたのが不可解だった。どこか検査の結果、異状があったのだろうか?そもそも『矯正』って?歯並びの矯正等は聞いたことがあるが、それで入院とはどういうことなのだろう。
まぁ、ここで彼女に聞いても仕方がないと思い、書類の地図を見ながら虎山病院へ行った。ここはこの前身体検査を受けた病院とは違い、15階建てぐらいのビル一棟すべてが病院になっていた。診療科と入院病棟に分かれていて、入院病棟の方へ向かう。受付の事務の女性に名前を告げると、書類上の手続きをして、部屋番号を教えてもらった。入院病棟だけあって、点滴を横に同伴させながら歩いていたり、車いすを押しながらノロノロと歩いていたりする見るからに具合の悪そうな患者が沢山いて、一応健康体の自分には場違いな感じはする。しかし入院ということは、私にも何か重大な疾患が見つかったということなのだろうか。
病室は一番端の個室だった。ベッドとトイレ、そしてシャワーがある。小さいながらもテレビもあった。景色は周りのビルに塞がれているが、わずかな隙間からスカイツリーが見えた。ふぅ、と一息ついてベッドに腰掛ける。
「こんにちは、斎藤紀夫さんですね。これを腕に巻きます」部屋に入ってきた看護師が、私の手首に赤いバンドを巻いた。バーコードと私の名前が書いてある。
「もうすぐ先生が来ますから、待っていてください」
彼女は忙しそうにいなくなった。一体体のどこが悪いのか聞こうと思ったが、多分彼女に聞いても仕方がないだろう。もうすぐ医者が来るならそれを待つか。
そう思ってごろんとベッドに横になった。見慣れない白い天井を見ていると、朝から忙しく働いていたので、睡魔が襲ってくる。
「斎藤さん、斎藤さん。起きてください」女性の声が私を呼ぶ。ゆっくりと目を開けると、さっきの看護師がいた。気だるいなか体を起こす。彼女の後ろにはカートのようなものが置かれ、その後ろの白衣を着た若い医者がいた。
「注射を打つので、腕をまくりますよ」何となく寝ぼけてぼんやりしている私の裾を捲りあげていく。そしてゴムのひもで上腕を結んだ。彼女はその後注射器を用意し、医者に渡す。結構な太さの針で、見るからに痛そうだ。
医者は無言のまま、血管を探り当て静脈注射をした。起床後のぼんやりとした感覚が一気に覚めるような痛みだった。中の無色透明の薬品が体の中に注入されていく。
医者が針を抜くと、看護師がガーゼで押さえる。
「血が止まるまで五分ぐらい押さえていてください」
そう言われて右手で押さえる。
「明日、効果を見るために検査をするから。安静にしていてください」医者はそう言うと看護婦を連れていなくなった。注射をされた腕がピリピリ痛む。結局、何が悪くてなんでこの注射を打ったのかも分からない。インフォームドコンセントなんてイの字もなかった。
まぁいいや。疲れた。寝よう。そのままベッドに横になった。その後夕食の時間に目を覚まし、病棟の真ん中の広いミーティングルームのような場所で、他の患者さんたちと一緒に夕食を食べた。食事は学校の給食みたいで、健康的な感じだった。
「にーちゃん、あんた、どこ悪いんだい?」前に座った60代ぐらいの頭に包帯を巻いた男性から声をかけられた。
「いや、分からないんですよ。会社の指示で入院するように言われて」
「なんだ、あんた、自分の病気も分からないんか」その男は愉快そうに笑った。
食器を片すと部屋に戻り、Tシャツとジャージに着替えて、歯を磨いたり顔を洗ったりした。テレビを付け、ぼんやりと見たりスマホをいじったりする。
ノックが響き、再びあの看護師が入ってくる。
「血圧と体温を測ります」言われるまま、彼女にゆだねる。「体調の方は変化はありませんか?」
「別に、普通だけど」
血圧も体温も正常値。
「ちょっと」私は出て行こうとする看護師を呼び止めた。「俺、どこか悪いのかな?」
彼女は不思議そうな顔でこちらを見る。
「大丈夫ですよ。きっと変化は順調に進みますから」
彼女はそう言っていなくなった。いったい何が何だかさっぱり分からない。もういいや。今日は寝よう。トイレに行ってそのまま寝た。
真夜中、体に違和感を覚えて目が覚めた。体全体が熱っぽい。そして下半身、具体的には金玉のあたりがズキズキと痛んだ。体中火照っていてあせもかいていた。何か飲みたいと思ったが水がない。洗面台まで歩いて、水道の水を飲んだ。鏡を見ると汗をびっしょりかいていた。そして下半身。ジャージのズボンを下ろして見てみるが、陰嚢が萎縮して皴皴になっていた。内側からズキズキする。
なんなのだろう…。再び横になるが上手く寝付けない。テレビなどで気を紛らわしながら、しばらくしたら眠れた。
翌朝も体調が悪く比較的早く目が覚めた。服は汗でびっしょり濡れ股間の痛みもより強くなっている。ぐりぐりと掴まれつぶされているような痛みである。
なんとか痛みに耐え、窓の外が明るくなってくるのをみていると、いつもの看護師がやってきた。さすがに見た目からして体調不良に見えたのか、心配して駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「夜から体調が悪くて…」
「熱を測ってみましょう」
電子体温計で測ったら38度3分あった。37度ちょっとかと思っていたが思っていたより高く驚いた。
「薬の性だとは思いますが、他に痛みはありますか?」
「・・・」やはり女性相手にはあまり言いたくない場所である。
「股間ですか?」彼女はズバリ言い当てる。「それも薬の効果だと思います。9時ぐらいから検査をしますので、それまで食事を取らずに待っていて下さい」
薬の効果の意味がすぐには掴めなかったが、よく考えると昨日の注射のことを言っているとしか思えなかった。確かに薬には副作用があるとは聞くが、こんな形で現れるとは思ってもいなかった。というか、そもそも何の薬なのだろうか?
熱のせいで空腹は感じなかったが、時間が経つのがとても長く感じた。テレビの内容も頭によく入らず、半分寝ているような状態で時間が過ぎるのをまった。
九時過ぎに看護師がやってきて、検査室へと案内された。まず採血、そしてCT、身長体重と検査した。午後には結果が分かるので、医者からの診察があるということだった。
殆ど受け身で検査をしていただけなのにどっと疲れた。入院病棟の一階にコンビニがあることが分かったので、そこでペットボトルの水を何本か買った。
歩くと股間が擦れて痛みが増す。ただ金玉の痛みが体の中の方に移動している気がする。トイレに行くとき股間を見てみたら皮が収縮して玉が体の中に入っていた。
昼頃からまた病室で寝て、目が覚めたときは三時を回っていた。すこし体調もよくなっているようだった。そう言えば昨日から風呂も入っていない。シャワーがあったはずだ。すこしさっぱりしようと思いシャワーを浴びた。
室内の鏡を見ると、病気のせいか、一晩で大分ゲッソリしている気がする。股間の方も玉は袋に戻っておらず、その袋も縮んで萎びている。竿の方も元気がなく、だらんと皮を半分ぐらい被っていた。
その一方で、胸のあたりに何となく違和感があった。痒いようなムズムズするような…。
体をタオルで拭いていると、タオルに体毛が付いていた。脱いだ服を見ると同じように毛が付いている。脱毛の作用があるのだろうか。慌てて鏡を見るが、幸い髪の毛は抜けていないようだった。その一方で、髭もまったく伸びていないことに気が付いた。
湯上り後の時間をのんびり過ごしていると、看護師がやってきた。
「体温を測りますね。体調の方はどうですか?」
「さっきよりはいいです」
体温は37度5分。その後、彼女に連れられて診察室まで行った。そこには昨日の注射を打った医者がいた。
「検査結果を見ましたけど、正常な範囲内ですのでこのまま続けましょう。ちょっと下半身の方、見せてもらっていいですか?こっちのベッドへ」
「え…」と思ったが、大事な場所だし、診察してもらった方がいいだろう。ベッドに横になり、看護師の手伝いでジャージのズボンを下ろした。
「ちょっと触りますよ」
ペニスを掴み、陰嚢の様子を確認する。そして指を入れて睾丸を探り当てる。するどい痛みが体を貫く。
「おっと、ごめんなさい」医者は指を抜く。そして今度は外から睾丸の位置を確かめる。「午前中より大分進捗しているなぁ」と独り言のようにつぶやく。
「ありがとうございます。起き上がっていいですよ」彼は机に戻ると何かを入力している。「注射、40%に変更して持ってきて。多分これでいらなくなるわ」
看護師はそとに消えていく。また注射を打つのだろうか。
「あの、すいません、どこか悪いんでしょうか?」私は恐る恐る聞く。
「いえ、どこも悪くないですよ。とても順調です」
どこも悪くないのに何の治療をしているのだ。
「股間が痛いんですけど…」
「今晩辺りには痛みはとれると思いますよ」
それならいいが…。下腹部を摩る。少しして、看護師がトレイを持って戻ってきた。昨日と同じ太い注射器が入っていた。
「これも今日で最後のはずです」医者は私の腕に同じように注射を打った。ガーゼで止血する。
何だか煙に巻かれたような気分で診察室を後にした。
大きな変化は、真夜中に起きた。体中の節々が痛い。骨そのものが削られているような強烈な痛みだった。すこし動いただけでもビリビリと痛む。さすがに耐え切れずナースコールを呼ぶ。
やってきたのはいつもと違う中年の女性看護師だった。彼女は病状を聞くと、何か錠剤を用意してくれた。それを飲んでもしばらくは痛みが続いたが、急に眠気が襲ってきて眠りに落ちた。
目が覚めたときには外は明るくなっていた。時計を見ると7時を過ぎている。昨日以上に汗で服はべったりだ。気持ちが悪いのでさっさと服を脱いでシャワー室に入った。
まだ体の節々が痛むが昨夜ほどではない。そして股間の痛みが、下腹部の方に移動している気がした。のぞき込んでみると、陰嚢の方は収縮を止め、普通にだらんと空の袋がぶら下がっていた。そして竿の方が皮を完全にかぶってしまっている。
体を洗っていると、昨日以上に体毛が抜けているのがわかる。そのためか、手足がとても華奢に見える。相変わらず髭は生えてくる様子がない。それどころか、殆ど抜け落ちてつるつるになっている。
訳が分からないなぁ…と思いつつ、体を拭いて外に出る。着替えをスーツケースから取り出し着てみると、びっくりするぐらいブカブカで全く体のサイズに合っていなかった。どうしてこんな服を持ってきてしまったのだろう…と思ったが後の祭り。そもそも着替えがあと一日分しかないのだから仕方がない。洗濯のことも考えなければならない。
ブカブカのジャージを引きずりながら朝食会場にいく。
「あれ、兄ちゃん、随分痩せて、それに小さくなったんじゃないか?」
いつもの前の席の頭に包帯を巻いた男からそう言われてはっとする。服がデカいのではない。体が縮んだのだ。でも、まさか。昨日の激しい痛みを思い出す。確かに言われると、昨日より世界が大きくなっている気もする。しかし身長が縮む?それもたった一晩で?
俄かに信じられないが、今日の検査を受ければ分かるだろう。
次第に体の痛みは減っていったが、それにつれてより体格が華奢になっている気がする。ズボンも紐で結ばないとずり落ちてしまう。Tシャツもブカブカで肩からずり落ちそうだ。副作用にしても程がある。それに元にもどるのだろうか。
検査は今日は夕方にあった。昨日と同じメニューだった。身長はなんと10センチ、体重も5キロも落ちていた。不安な声を上げる私に「大丈夫ですよ、正常な変化ですから」と看護師が平然と答える。何が大丈夫なのか。もう彼女と殆ど同じ身長になっているじゃないか…。
検査のあとは怠くて寝て過ごした。下腹部は睾丸から続いていた左右両側のツンとした痛みは引いたのだが、逆に中心部でかき混ぜられるような腹痛が起き始めていた。そして昨日から続いていた胸部の違和感がどんどんと大きくなっていく。無意識のうちに掻きむしってしまうこともあった。
翌朝、トイレの前に立ちいつものようにペニスを引っ張り出したのだが、どう見ても小さくなっていた。昨日までは縮んでいるだけとも思えたが、明らかに体積が減っている。そして尿の切れも悪く、詰まった水道管からやっと水が出ているような感じだった。このまま消えてしまうのではないかという不安が襲う。陰嚢はまだ空のままで、それも中心でわかれ二つの襞のように変化しつつあった。
そして再び検査。身長は昨日と同じだったが、体重がさらに3キロ落ちていた。どうも体中の筋肉が退化しているようで、力も上手く入らない。しかしその一方で、胸のあたりにだけは、妙に肉がついている気がする。
訳の分からない体の変化を感じながら、午後の診察を待った。看護師に連れられていつもの診察室にいく。
「変化は順調のようですね。体の中の方も順調です」
「・・・」私は変化が順調の意味が分からなかった。身長が縮み、体重が落ち、金玉が体の中に消えたのに順調?この医者は何を言っているのだろう。
「こちらを見てください」医者はパソコンの横にあるスクリーンをこちらに向けた。そこには男性の下半身だと思われるCT画像が映されていた。「こちらが投与前。そして投与1日経過後。精巣が体内に移動しているのが分かりますね。そして2日経過後。精巣がほぼ卵巣の位置に移動し終わり、前立腺や精嚢の萎縮が確認できます。そして3日目。つまり今日ですが、恐らく卵巣への転換が終わり、卵管の成長も見られます。そしてこの白っぽいところは子宮の元になる部分です。海綿体の収縮によって大分陰茎も小さくなっていますね」
私はその説明をよく意味も分からず聞いていた。しかし次第に頭の中が整理されてくる。これは、自分のことを言っているのだと。
「まさか、これって…。つまり…」私は動揺して上手く言葉が出なかった。しかし下半身の痛みも、身長が縮んでいることも、そして胸の膨らみもすべてが一つの答えを示している。
「俺は、女になっているということですか?」
医者も看護師も唖然とする。
「え…、知らなかったんですか?会社の方からは?」
「そんなの、まったく聞いていません!!すぐに中止して下さい!!」私は叫んだ。
約一時間後、電話で呼び出され会社の女性担当者がやってきた。小さなミーティングルームで、私とその女性担当者と医者の三人が机を挟んで座る。
「私は女性になるなんて同意していません」
「でも『女性活躍推進社員』に申し込んだでしょう。それなら当然、女性になることは想定内では?」
「確かに申し込みましたけど、だからと言って女性になるなんて…」ふっと、今まで会社で浴びてきた奇異な目を思い出す。そうか、みんな知っていたのだ。私だけ、何も気が付かずに申し込んだのか。
「そうは思わなかったんです。分かりました、辞退します。だからこの治療を中止して下さい」私は女性担当者と医者の両方を見ながら言う。
「いや、もう女性化は止められません」医者は首を振りながら言った。「もう注射をしていないのに、一般女性と変わらない女性ホルモンの数値が確認されました。精巣から卵巣への転換を終えて、女性ホルモンの生成を始めたということです」
「そんな…」私は自分の体を見ながら言った。
「そして男性的な部分を破壊し、女性的な部分に置き換える変化も進んでいます。子宮は確実に成長していますし、男性器も明日のうちには女性の物に置き換わるでしょう」
「止める方法はないってことですか?」悲痛な叫びに沈黙が支配する。まさか自分がこれから女として生きていかなければならないなんて。夢にも思えなかった。しかし体の変化は着実に進んでいる。股間の小さくなったペニスを絶えず引っ張るような感覚があるし、胸の痒みは痛みとなり、乳首が目に見えて肥大化している。
『もう止められない』
その言葉が実感を伴って、体全体を支配していく…。
そして私の体は予定通り女になった。そしてその後、会社のおかげで法律的にも女になった。性別の訂正という形で家庭裁判所の審査を受け、戸籍や住民票、パスポートなどはすべて訂正された。しかし社会的、精神的に女性になるには多くの壁が立ちはだかっていた。会社の女子寮に入り、女性の先輩たちのなかで色々な指導を受けながら、なんとか一人の社会人女性として通用するまでになるには一年以上の月日を要した。
女性であることを完全に受け入れられたわけではないけれども、座っておしっこをすることもメイクをして外出することも毎月の生理と付き合っていくことも、そして社会的に女性として認知されていることも、自分のものとして受け入れられるようになった。そしてそれは逆に、男だった自分が一つ遠くなることでもあった。
自分が女性であることは紛れもない事実だけれども、それによって会社での生き方が決まってしまうのはおかしいという思いは、他の女性社員より人一倍強くなった。確かに男性の時には感じなかった多くの壁を感じる。それを一つ一つ壊し、女性でも男性でも関係なく働ける会社を作っていくこと。それが自分の仕事だし、それが肉体的には決して不可能だった男性に戻るということの実現にもつながると思った。
そのために私は今日もメイクをし、ストッキングを穿き、スカートをなびかせながら会社にいく。聞き慣れたコツコツというハイヒールの音が心地よく響いていく。
おしまい