荷台に棲む猫/夢篇
電車の荷台には夢を見せる猫が棲んでいる。
猫が見せる夢は、荷台の下に座った人たちの夢である。遠い昔に失ってしまった夢、忘れていた夢、叶えられなかった夢…
猫は無数の夢を叶えて生きる。
猫は手招きするが誰にも見えない。
ゴロゴロ喉を鳴らすが誰にも聞こえない。
日長一日、あちこちの電車の荷台を散歩してるが誰にも気づかれない。
しかし猫は確かにそこにいる…
少年の夢
《幻想電車》
4月4日、東京は一昨日の晩から続いた、爆弾低気圧による暴風雨が嘘のような快晴。山手線内回りを上野方面から池袋に向かう電車の荷台で、その猫は昼寝をしていた。
電車が池袋駅に到着すると沢山の人の乗り降りがあった。丸の内線、有楽町線、環状副都心線、南北線、埼京線、東武東上線、西武池袋線、そして山手線というように、池袋駅は首都圏と郊外を結ぶ大ハブステーションとなっており、新宿駅を上回るほどの乗降客数である。
電車のドアが開いて沢山の人が降りてゆき、一瞬車内はガラガラに空いた。しかしその後今度は新しい乗客が一斉に車内に乗り込んでくる。
そして最初に乗り込んだ客から我先に空いている座席へと座っていった。
だが荷台にいる猫の真下の二席は空いたままであった。その時母親に連れられて少年が乗り込んできた。猫が手招きをすると、その母親と少年は吸い寄せられるようにその座席に腰を掛けた。
「亮くんのお母さん可哀想だったわね。」
「うん…」
「さっき朋也くんのお母さんから聞いたんだけど、亮くん、妹の果歩ちゃんと近くの川で遊んでたらしいわ。そしたら果歩ちゃんが突風に煽られて川に落ちたみたい。それで亮くんが助けようと川に入ったんだって。亮くんは果歩ちゃんを川岸に押しやったんだけど自分は川の流れに飲み込まれちゃったらしいわ。」
「…」
「かなり強い風が吹いていたもんね。春は天気が変わりやすいのよ。祥ちゃん、あなたも気をつけなさいね。」
「うん…」
(どうしてお母さんはそんなにペラペラと無神経に話すんだろうか…。それにもう中学生なんだから、いい加減ちゃん付けは止めてほしい。)
祥と母親は埼玉の大宮で行なわれた同級生のお通夜に行った帰りであった。。祥の同級生、名前は柏木亮太。皆は亮くんとか亮ちゃんとか呼んでいる。
明日一緒に中学生になるはずであった。亮太は1週間前から埼玉県大宮にある母親の実家に行っており、一昨日の夕方に実家の裏にある川で妹と遊んでいて溺れてしまった。
葬式は明日だが、祥の中学の入学式とだぶってしまうために今日のお通夜に行ったのである。
祥と亮太の母親同志は大のつく仲良しというわけではなかったが、祥と亮太自身は6年間同じクラスで同じサッカー部、二人は大の仲良しだった。
中学に入っても一緒にサッカー部に入部する約束をしていたくらいであった。
「祥ちゃん、お母さん新宿でちょっと買い物して行きたいんだけどどうする?」
「1人で帰れるよ…」
「そう、じゃあ気をつけて帰るのよ。」
「わかってるよ。」
新宿駅で母親はさっさと電車を降りてゆき祥は1人になった。車内を見渡すと営業中のサラリーマンや老人、中年のおばさん達や学生など色んな人達が乗っている。
しかしどれも知らない顔ばかりで祥は今1人であることを実感した。祥はふと亮太のことを考えた。
本当は今日、亮ちゃんと遊ぶ約束をしていたんだ…
予定では亮太は昨日には東京の自宅に戻っているはずであった。二人は春休み最後の日に初めて秋葉原電気街にあるアニメショップに行くはずであった。
既に行ったことのあるクラスメイトから聞いていて、二人とも親に頼んでいたが、親たちは小学校を卒業するまでは子供たちだけで行くことは許してもらえなかった。
それで祥と亮太は唯一中学校の入学式前日のこの日を決めて二人で約束していたのである。
祥は混み合う車内で、見るともなく視線を前方に向けていたが、体が重くなりふと真っ暗になった。
寝過ごしてしまう…
祥はハッとして頭を振った。そして辺りを見回すと先ほどと変わらない車内の様子があった。
祥がほっとため息をついた時、電車は原宿駅に到着した。車内の乗客たちはざわざわとドアに向かい、ドアが開いてプラットホームに押し出されて行った。ガランとした空間。しかし誰も乗る客がいない。車内は祥だけとなった。その時車内アナウンスが入った。時間調整の為に5分停車するという。
電車の外から原宿竹下通りの雑踏の音が遠く聞こえていた。
《友人との再会》
「二ャーオ。」
猫?
祥は涙を拭いながら辺りを見回すが猫の姿はない。
視線を隣の車両に移すと車両連結部分のドアが開いて少年が祥のいる車両に入って来るのが見えた。
「えっ?」
祥は自分の目を疑い手で目を擦った。そしてもう1度こちらに歩いてくる人をじっと見つめた。
「亮ちゃん!?」
紛れもなく祥の友達、そして2日前に亡くなった亮太だった。
亮太はすました顔をして近づいてきて、祥の座る座席の横に腰を下ろした。
その間祥は唖然とした顔をしながら亮太を見ていた。
亮太が座席に腰を下ろすと同時に発車時間を知らせる車掌の笛の音が鳴り響いて、電車のドアが閉まった。車内アナウンスが車両天井から聞こえてきた。
「次の停車は〜、秋葉原、秋葉原。」
次は渋谷駅のはずである、しかし祥の頭には全く入ってこなかった。自分の横には亡くなったはずの亮太が座っていて気が動転していた。
向かい側の座席には猫が1匹、祥と亮太にその姿を晒して座っていた。
《線路脇の桜》
今この電車に乗っているのは祥と亮太、そして1匹の猫だけである。不思議な沈黙が流れた。
聞こえたのは電車のモーターと枕木を規則正しく通過してゆく音だけであった。祥は何を話していいのか分からなかったがそれでも沈黙が我慢が出来ず口を開いた。
「あ、あのぉ…」
「間に合ってよかった。祥ちゃんがお母さんと新宿で降りてたら二度とあの約束が果たせなかった。」
「…」
祥には一体全体何が起こったのか理解出来なかった。
「祥ちゃん、ほら窓の外を見てごらん。桜が満開だ。」
窓の外の景色は一面桜だけである。家もビルディングも全く見えない桃色一色に染まった世界。花びらは窓を開ければ手が届くくらい近くにある。
「祥ちゃん、窓を開けよう!」
「えっ」
わけが分からぬまま、祥は亮太と一緒に窓を開けた。すると桜の花びらが一斉に車内に舞い込んできて目の前が桃色に染まった。
「わぁ、亮ちゃん、凄いよ!」
「うん!春だね。入学式は綺麗だろうな…」
「えっ」
祥は何と言っていいのか言葉が見つからなかった。
向かい側の座席では猫が車内を舞う桜の花びらを捕まえようと踊っている。
「そうだ!外の桜の枝を1本取ろうか?」
祥は胸が躍って亮太を見ながら言った。
「駄目だよ。もう花びらは全部散って木だけになってしまった。」
祥は窓の外に向き直って外を見ると、既に桜の木は枝だけになって、その向こうに街の風景が見えるようになっていた。
「あっ」
意気消沈した祥が窓を閉めて車内に向き直ると、たった今車内を舞っていた桜の花びら達は床にも座席にも、何処にも見当たらなかった。
そして向かい側の席には猫があくびをして座っていた。
《名前のない少女》
(本当に亮ちゃんだろうか…)
不思議がる祥の顔を見て亮太が微笑んだ。
「楽しいね。」
(やっぱり亮ちゃんだ。)
祥と亮太を乗せた電車は緩く大きなカーブに差し掛かった。すると前方に黒い塊が見え始めた。
祥が目を凝らして見ると西新宿のようなビルの塊であった。どれもお墓のようにそびえ立っており電車は明らかにそこに向かって走っている。
祥は唾を飲み込んだ。
やがて2人を乗せた電車は黒い高層ビル群の間に入って行った。
祥と亮太は窓を開けて顔を出した。ビルの群はどれも黒くそびえ立ち、2人は窓から身を乗りだし空を見上げたがビルのてっぺんは見えなかった。ビルの窓はどれも灯りに影が動き人の気配がした。
電車はその間を縫うようにゆっくりと走ってゆく。
「こんなの初めてだ…」
「僕もだよ…」
亮太がふと視線を車内に向けると向かい側の座席にランドセルを背負った少女がこちらを向いて座っていた。
「わっ!」
「私の名前を知りませんか?」
「えっ?」
「私の名前が何処にも無いんです。」
「無いってどういうこと?」
「ランドセルやノートや鉛筆や消しゴム…何処を探しても私の名前が見つからないんです。」
「じゃあ君の名前は何ていうの?」
「何を言ってるの!だから名前が無いって言ってるじゃない!」
「いや、君は自分の名前を覚えていないの?」
亮太は自分の頭を指差しながら優しく少女に話し掛けた。
「頭から無くなっちゃったの。だから私の名前を書かれた物を探してるの。
でも何処にも見つからないの。このままだと皆から忘れられてしまうわ。」
「そ、そんな…」
祥は言い掛けて止めた。また少女が興奮してしまうことを避けたのだ。
しかし今度は少女は顔を手で覆って泣き始めた。
「困ったなぁ。君は何処から来たの?」
すると少女は窓の外にそびえ立つ1つの黒いビルディングを指差した。
「このビルの108階に住んでるの。この電車に乗れば私の名前を知ってる人が見つかるかもしれないと思って来たのに…」
「お父さんや、お母さんは?」
少女は応えない。
「亮ちゃん、どうしよう?」
「うん…」
亮太の顔はこわばり、膝の上に載せた手が震えていた。
「亮ちゃん、どうしたの?」
それを聞いて少女はいきなり顔を上げた。
「あなた達は自分の名前が分かるの?」
「うん。」
「二人とも?」
「そうだよ。僕が祥でこっちが亮太。」
「何故?」
「何故って…分かっているから…」
「変よ!ほら、あのビルを見て。あのビルの中にいる人達は皆自分の名前が何処かに行っちゃって、朝から夜遅くまで探しているのよ!あなた達だけ名前があるってあり得ないわ。
もういい!あなた達にはもう頼まない。やっぱり自分で探すことにするわ!」
そう叫ぶとランドセルを背負った少女は座席を立ち、他の座席の下や荷台の上に名前の忘れ物がないか覗きながら隣の車両へと消えていった。
《動物園の飼育係》
ゴトン、ゴトン、規則正しい音が床の下から聞こえてくる。
「あの子は一体なんだったんだろう…」
「あの子は皆から忘れらてしまった子だ。」
「えっ?」
祥はその声にふと横に座る亮太を見た。
亮太は少し疲れた様子で床を見つめていたが、祥の視線に気づくと顔をこちらに向けて微かに微笑んだ。
しかし、まだ手の指が微かに震えていた。
「亮ちゃん、大丈夫?」
「うん…もう大丈夫だよ。」
電車は何処か見たことがあるオフィス街や繁華街や住宅街を走ってゆく。
祥と亮太は暫くして少女のことを忘れたように、ゲームや贔屓のアイドルやクラスのことなど沢山話しをした。
「あっ!そういえば…」
祥はおもむろに小さな肩掛けバックを開いて探しものをした。
「ちょうど4日前にさぁ、亮ちゃんがお婆ちゃんの家に行ってた時に、クラスの三千花が僕の家にやって…、あっ、これ、これ、持ってきて良かった。この手紙を渡してくれって。」
そう言いながら小さめの封筒を亮太に手渡すと、亮太は封を切って中から綺麗な便箋を出して読み始めた。
暫く亮太は黙って便箋に目を落としていた。
祥は気になってしょうがない。ドキドキして我慢が出来なくなった。
「なんて?」
亮太は祥を見てニッコリ笑顔を見せた。
「好きだって。中学でも同じクラスになれたらいいねって。」
「やったー!」
祥はまるで自分のことのように学年で一番人気の三千花から亮太に宛てられたラブレターに歓喜した。
するといきなり車両連結部のドアが開きドサッという音がした。
祥と亮太が音のする方向に振り向くと作業服に長靴を履いた男が大きな布袋を抱えて入ってきた。男は二人の前まで来て向かい側の座席を指差しながら、しわ枯れた声で話し掛けてきた。
「ここに座ってもいいかな?」
「えっ?はぁ…」
二人は突然の訪問者に戸惑った。
男は向かい側の床に布袋をどっかと置き、腰を掛けながら話し始めた。
「ふぅ、重たかったぁ。今の時期は動物たちにとっても嬉しい季節なんだ。」
「はぁ…」
「あっ、私は上野動物園の象の飼育係でね。象の名前は花子っていうんだが、象は温かい場所で生活している動物なんだよ。だから寒い季節は滅法苦手でね。今年の冬は特に寒かったろ。だから花子は見物客が来ても厩舎から出たがらなかった。でも動物園も商売だから園長もうるさくってな。でもそんな時は言ってやるのさ。じゃあ園長、あんたもこの寒空に花子と同じように裸で外を歩いてみろってさ!がっははは!」
「…」
祥と亮太は唖然とした顔で聞いている。
「そうやって花子を守ってやるから、花子は私にはなついているのさ。
象だって優しくすりゃあ人間の心も分かるってもんよ。だから何十年もの間、どんなに寒くたって毎日厩舎から出て芸をして見物客たちを喜ばせてくれたのさ。
でもな、その花子も歳を取ってしまった。具合もよくないんだ…」
「そうなんですか…」
「私がな、動物園働き始めるよりずっと以前から花子は動物園の人気者さ。私が担当になってもう20年。隣にいるのが当たり前のように私たちはいつも一緒だった。しかし私も今年で定年だ。もう一緒にいることはできない。どんなに仲がよくてもいずれ別れなきゃいけない時はくるもんだ。
私の人生は花子が居てくれたお陰でとても豊かなものだった。
だからな、私の感謝の気持ちなんだ。花子の大好物のバナナや林檎をこうして1日100往復、動物園と市場を行き来して運んでいるのさ…」
「えっ…100往復?」
それから動物園の飼育係は他の動物のことも話し始めた。
祥には少しうざったく感じてきた。せっかくの亮太との大切な時間を邪魔された気がしたからである。
祥は亮太を横目でチラッと見た。すると亮太が祥の視線に気がついた。
動物園の飼育係はまだ一生懸命に動物たちの話しをしていたが二人にとってはどうでもよかった。
気がつくと電車は動物園のゲートをくぐり、動物たちの檻の間をゆっくりと走っていた。
しかも檻の大きさが尋常ではない。1つ1つがばかでかい。3階建てのビルディングくらいはあった。
「わぁー!」
祥と亮太は思わず身体をのけぞった。
窓の外はライオンの檻だった。ライオンの背丈は高さ3メートルぐらいで窓いっぱいの顔で車内を覗き込んでいる。電車より高くまるで鯨のようなライオンだった。そのライオンが牙を剥いてこちらを睨んでいるのだ。
電車は更に進んである檻の前にやって来た。中を見ると山のような大きな灰色の盛り上がりがある。よく見ると盛り上がりから長い鼻が動いていた。
「象だ!」
象の大きさは尋常ではない。身長は優に5メートル以上はあるだろう。檻の名札を見ると花子とあった。
「あっ、花子だ!」
二人は同時に向かい側の座席に振り返ったが、あの飼育係の姿は無かった。
代わりにあの猫がいる。猫は窓の外を見ながら一声鳴いた。
二人がもう一度窓の外に目を移すと、そこにはあの飼育係が横たわる花子に向き合っていた。
花子は飼育係の身体に鼻を巻き付け宙高く持ち上げていた。飼育係は花子の鼻を撫でた。
そして飼育係の身体を地面に下ろすと、飼育係は布袋の中からバナナや林檎を鼻先に持ってゆき、花子は上手に鼻から息を吸って果物を取り、口に運んでいる。飼育係は優しい目をして何度もその様子を見つめていた。
電車はその花子と飼育係から次第に遠く離れていった。
「あの花子も寂しいって思うだろうか?」
「きっと寂しいと思っているよ。」
《天上の水族館》
向かい側の座席に座る猫は眠っている。
祥と亮太は沈黙して、車内に聞こえるのは電車のモーターと枕木を規則正しく叩く音だけである。
亮太が口を開いた。
「あの飼育員のおじさんがいなくなったら花子は寂しいって思うだろうか?」
「当たり前だよ。きっと寂しいと思っているよ。」
「僕にはわからないよ…」
その時電車の前方が持ち上がって枕木を叩く音が消えた。祥は電車は東京の空に向かって走り出しているのに気がついた。
「亮ちゃん見てごらん!街が下に見えるよ!
「本当だ!」
電車は東京の街でひときわ高いビルに向かって空を走っていた。
「あっ、サンシャイン60だ!この電車はあそこに向かっているよ!」
「あぁ、去年社会見学で行った場所だね。」
サンシャイン60は高くそびえ立ち雲の中にビルのてっぺんが刺さっていた。
電車は一旦雲をくぐって上に出て、ビルの最上階に激突するかと思われたが、ビル壁面に吸い込まれていった。
ビルの中は水族館だった。入ってみると何処までも水槽の壁が見えない。まるで本当の海の中を行くように電車は水槽の中をゆっくりと進んでいく。窓は開けると水が入ってきそうで開けられない。
「亮ちゃん、ほら、凄いよ!大きなサメが悠々と泳いでて、その周りに小さなサメが子分のように体をくねらせている!あれはアジの大軍だ!模様を作るように右に行ったり、左に行ったりしてる!わぁ、下の砂の所にはヒトデがいる!」
「本当だ…、わっ!」
祥と亮太が見ていた窓に何かがいきなり貼りついた。タコである。タコは足を放射状にしっかり伸ばして吸盤で貼りついていた。
「気持ちワルい!」
すると陰から潜水服の男が現れてタコを窓から引き離しにかかった。タコは必死に窓にしがみつこうとしている。それが祥と亮太には可笑しくて大笑いした。
「頑張れ!タコ負けるなー!」
二人は運動会の時のようにタコを応援した。
ふと、亮太が静かになった。祥が気になって亮太を見ると、亮太はタコと潜水服の男の格闘を見ながら、顔を崩して目から涙を流していた。
「亮ちゃん、どうしたの?」
「…」
「亮ちゃん…」
「僕、大きくなったら…この人のように…水族館で働きたかったんだ…」
「えっ…」
祥は初めて亮太の将来の夢を聞いた。
「小さい時…お父さんに何度か水族館に連れて行ってもらったんだ。イルカやオットセイのショーが大好きで、いつかショーをやる人になりたいと思っていたんだ…」
「じゃあ今からオットセイのショーを見に行こうよ!」
「駄目だよ。時間がない…」
潜水服の男は無事タコを窓ガラスから引き離すと、祥と亮太に手を振って戻って行った。
電車は暗い水槽の奥に引き込まれて行くように進んで行った。
その時、アナウンスが車内に響いた。
「間もなく秋葉原。秋葉原。秋葉原に到着致します。」
向かい側の座席で寝ていた猫はふと目を開いて大きなあくびをした。
《約束の街》
いきなり周りが明るくなって秋葉原電気街が窓の外に広がった。
勿論二人にとって初めての街である。二人は顔を見合わせてニッコリ微笑んだ。
この頃になると祥は不思議な感覚を覚えていた。
(亮ちゃんは本当は生きているんじゃないか)
そんなはずはないのだが、祥には何か温度みたいなものを感じてたのである。
電車は速度を落とし秋葉原駅に滑り込んだ。
ドアが開いて祥と亮太はプラットホームに降り立った。その後を追って猫も電車から飛び降りてきた。
「誰もいないね。」
「うん。」
「街に出てみようか。」
「うん。そうだね。」
二人はエスカレーターを降りて改札機をくぐり、そのまま秋葉原の中央通りに向かった。猫は二人の少し後ろを離れずついて行った。
中央通りは車が1台も走ってなくてガランとしていた。しかも道行く人もいない。だがメイド達が中央通りのあちらこちらに立っている。アニメキャラクターのコスプレをした者達もいる。二人ともテレビでは見たことがあるが初めて実物を見たのだった。
「歩行者天国だろうか?」
「分からないよ。でも秋葉原って変わった人たちがたくさんいるね。」
「はは、そうだね。」
「少し歩こうか。」
「うん。そうしよう。」
すると1人のメイドが近づいて来た。
「ようこそ秋葉原へ、ご主人さま!お腹は空いていませんか?」
「あっ、そうだ!まだ昼ご飯食べてなかった。」
「うん!空腹だ!」
「かしこまりました!とっても美味しいオムライスのお店にご案内致します!」
「本当!?大好物だ!」
「それはよかったわ。では私についてきて下さいね!」
二人はメイド服の女性に着いて行った。
そこは中央通りから路地を入った場所にあった。
『Candy』
いわゆるメイド喫茶である。
ドアを開けて店内に入った途端、「いらっしゃいませ、ご主人さま!」の声が一斉に店内に鳴り響いた。見渡すと店内は客でいっぱいだった。
「なぁんだ、いっぱい人がいるじゃないか。」
祥も亮太もこれには驚いた。
席に案内されて座ったところでメイドがオーダーを聞きにやって来た。
「いらっしゃいませ、ご主人さま!ご注文は何に致しますかぁ?」
祥と亮太はお互いに緊張していた。
メニューを見ながら二人ともオムライスとコーラをオーダーした。
「かしこまりましたぁ!」
メイドは不意にしゃがんだ。
「ガト様は、ミルクでよろしいですかぁ?」
「二ャー。」
「かしこまりました!ガト様、ごゆっくりなさって下さいねっ!」
そのメイドが今度は後ろの席に向きなおってオーダーを聞いた。しかしその態度を見て祥と亮太は驚いた。
「注文どうすんのよ!」
「えーっと…」
「ぼやぼやしてんじゃないわよ!忙しいんだから!」
「コ、コーラをください…」
「いいのね、コーラで!?ったくぅ、コーラぐらいでそんなに悩むんじゃないわよ!」
「すいません…」
暫くしてメイドがオムライスを運んで来た。
「お待たせしました、ご主人さま!それでは更に美味しくなるように私の愛情たっぷりのケチャップデコレーションをしますね!美味しく、美味しく、美味しくなぁ〜れ!」
メイドは二人のオムライスの上にハートを射る矢を描いた。
「さぁ、出来上がり!ご主人さま、どうぞ召し上がれ!ガト様はミルクをどうぞ!」
「二ャー。」
メイドはニコニコしながら二人を見ていた。
(恥ずかしいなぁ)
祥と亮太は恐る恐るオムライスをスプーンに救って口に運んだ。
「あっ、美味しい…」
「本当だ、美味しい!」
「二ャー!」
「嬉しいです!ガトさまぁ!」
そのメイドは次に隣の席にコーラを運んできた。しかし乱暴にコーラをテーブルに置いた。
「なんか言うことあるんじゃないの?」
「あっ、有り難うございます…」
「ふん!楽しんでけよ!」
「亮ちゃん、なんで隣の人と僕たちではメイドの態度が違うのかなぁ?」
「あぁ、あれはツンデレだろ。ほら、メニューについてるよ。」
「あぁ〜、あれがツンデレかぁ…」
「あの人が帰る時にはきっとメイドさんの態度が変わるから。見ていようよ。」
「そうだね!」
暫くすると隣の席に座っていた客が席を立って入り口横にあるキャッシャーに向かって支払いをした。するとメイドはお客の腕に自分の腕を絡ませてお客の目を見つめた。
「えっ、もう帰っちゃうのぉ?私のこと嫌いになっちゃったぁ?」
「い、いや。」
「また来てくれるぅ?」
「うん。」
「待ってるからぁ〜!」
男はニヤニヤしながら店を出た。
祥と亮太は可笑しかった。二人で顔を見合わせて笑った。
暫くして二人はメイド喫茶を出て中央通り沿いにあるアニメ専門ビルに向かった。このビルは1階から8階まで全てが漫画本やアニメのキャラクターグッズで溢れている。
このビルを効率的に回る方法がある。二人は以前にクラスの友人から聞いていた通り、先ずエレベーターで最上階まで行き、各階をゆっくり見て回りながら下りていった。
そこは祥と亮太にとっては天国のような場所であった。二人は時間を忘れて隅々まで見て回った。
祥と亮太はアニメビルを堪能した後、その足で同じ中央通りの並びにある、日本中で大人気のアイドル劇場に向かった。
そこはエスカレーターで最上階まで上るのだがエスカレーターの両側にはアイドルたちのポスターが所狭しと張ってある。そこでも二人は初めて見るその光景に興奮した。そして初めて見るアイドル劇場の公式ショップに興奮は頂点に達した。劇場に飾られているアイドル1人1人の写真を二人は丁寧に見て回り、公式ショップではグッズも買った。
この瞬間、祥は完全に亮太が死んでいることを忘れていた。
「あぁ、面白かった!亮ちゃん、また来ようね!」
「うん。」
二人はアイドル劇場楽しんだ後中央通りに出た。陽は暮れかかって広い中央通りには寂しくビルたちの影が広がっていた。二人の興奮とは裏腹に、メイド達もアニメキャラのコスプレ達も、もうそこにはいなかった。
「その時になって、祥はさっき自分が言った一言を思い出した。」
(また来ようね…)
そのまま二人は中央通りの真ん中に出た。
「さっきは、ごめん…」
亮太には祥が何を謝っているのかはすぐに分かった。
「いいんだよ。今日は有り難う。これで思い残すことは何もなくなった。」
何処かから再び猫が現れ、二人のことをじっと見つめている。
「祥ちゃん、僕は祥ちゃんと遊んだこの街に残るよ。」
「えっ…」
最後に来たこの街が、祥ちゃんの記憶の中に残る僕の最後の姿だからね。
「それなら僕も…」
亮太は祥の言葉を遮った。
「駄目だ!さぁ駅まで送るよ。祥ちゃんはお家に帰らなきゃ。」
「でも…」
「わかるだろ、僕はいつまで君と一緒にはいられないんだ。」
「うん…」
毅然とした亮太の声を聞いて、祥は亮太が大人びて見えた。
祥と亮太、そして猫は秋葉原駅に歩いて行った。祥は足が鉛のように重たく感じた。
秋葉原駅のプラットホームに立ち電車を待つ間、二人は無言である。
祥は亮太と目が合わせられない。暫くしてプラットホームのアナウンスが響いた。
「間もなく、電車が入ります。危険ですから黄色い線の後ろに下がってお待ち下さい。」
このアナウンスを聞いて、やっと祥は亮太に顔を合わせた。
「やっぱり…僕も、もう少しここに居ようかな。」
「駄目だよ。君のお母さんだって心配してるよ。」
「うん、でも…」
その時、電車がホームに滑り込んで来た。ドアが開いたが、祥の足は電車に乗ることを拒んで全く動かない。すると亮太は祥の前を横切って電車の中に乗り込んだ。
「亮ちゃん!」
「家まで送って行くよ。」
「えっ、本当に?」
「うん。」
亮太はニッコリ微笑んでいる。祥は足が軽くなった。自分も電車に乗り込み、続いて猫も飛び乗った。
二人は座席に腰を掛けた。猫はやはり二人の向かい側の座席の上に乗っかった。
(まだ一緒にいられる。)
ドアが閉まり、電車は秋葉原駅プラットホームを動き出した。
夕暮れの秋葉原の街を電車は進んでゆく。二人は窓から先ほどまでいた中央通りを見ていた。
すると夕陽に照らされた誰もいない中央通りの真ん中で、スーツ姿の若い男がたった一人こちらを見ている
祥は不思議な感覚を覚えて首を傾げた。
「あれは祥ちゃんだよ。」
「えっ?」
「祥ちゃんが大人になった姿だよ。」
祥はスーツの男に釘付けになった。
「あれが未来の僕…」
するとスーツの男の後ろから少年の姿が現れた。
「あっ!あれは…」
「未来にきっと僕たちは再開するよ。」
祥が横を振り向くと亮太の姿はない。
「亮ちゃん!」
祥は胸が張り裂けそうになった。
「亮ちゃん!」
亮太の名を叫びながら力一杯電車の窓ガラスをチカラいっぱい叩いた。
「亮ちゃん、いやだ!」
通りの真ん中、スーツ姿の男の隣で亮太は手を振っている。
しかし祥は溢れ出てくる涙にもうその景色は入ってこなかった。
次第に秋葉原の街は遠退いてビルの陰に隠れて消えていった。祥は身体を窓に向けたままうつむいて泣いた
涙は後から後から溢れ出て、いつまでも泣いていられるんじゃないかと思えた。
車内は差し込む夕陽に真っ赤に染まっていた。祥は身体中のチカラが抜けたようになっていた。
「二ャーオ。」
その時、向かい側の座席に座った猫が鳴いて辺りが真っ暗になった。
《明日への一歩》
祥は身体を揺すられて目が覚めた。
「どうしたんだい?」
「えっ…」
「涙を流しながら何か呟いていたけど、どこか具合でも悪いのかい?」
ひとりの老人が祥の顔を心配そうに覗き込んでいた。
祥が辺りを見回すと電車は人で混みあっていた。
「あっ…いえ…大丈夫です。」
その時車内アナウンスが聞こえた。
「間もなく渋谷、渋谷。お出口は右側になります。」
祥は涙を拭って窓の外を見た。人で混み合った渋谷ハチ公口の交差点の街並みが広がっていた。
電車は渋谷駅に滑りこんで行った。
祥は老人に礼を言い、席を立ってドアに向かった。渋谷駅ホームは乗る人も多いが降りる人も多い。ドアが開いて沢山の人が渋谷駅に押し出された。
祥もプラットホームに降りると、振り返って今降りてきた電車を見た。電車の中で白髪の老人が杖をついて立ちながら軽く頷いた。足が悪いのだろう。祥はもう一度頭を下げた。
山手線内回りの電車はプラットホームにいた沢山の客を乗せてドアを閉めた。
今僕は亮ちゃんとこの電車で山手線を一周してきたんだ。
僕は知っている。この東京で亮ちゃんがいる場所を。そしていつかあそこに行けば、きっと亮ちゃんに会えるということを。
老人の姿は既に見えなかった。祥は発車する電車を見送った。
そして電車が見えなくなると大きく深呼吸をして改札口へと歩きだした。
祥が座っていた、座席の上の荷台にいた猫は大きなあくびをした。
老人の夢
《老人のつぶやき》
今日は4月4日、猫は荷台の上で老人と少年のやり取りを見ていた。老人に起こされて少年が目を覚ました。そして少年は老人に礼を言うと他の客と共に車両のドアの外へ出て行った。猫が薄目を開けながら見ていると、少し足の不自由な老人が杖をつきながら空いている座席に向かって一歩ずつ歩いていた。猫は手招きをして老人を猫がいる荷台の下に座らせた。
「よいしょ…」
老人はゆっくり腰掛けてため息をついた。
駄目だなぁ。やはり無理をするもんじゃないな…
長年連れ添った妻の7回忌の法要を済ましてきたところであった。子供たちは来なかった。もうそれぞれ所帯を持ち地方に住んでいて、今日は孫の学校のことがあったらしく間に合わないだろうとのことだった。法要は親戚が集まって無事済ますことが出来た。後片付けを終えると親戚たちから帰りは車を勧められたが老人は断って歩いて帰ることにした。仕事があるわけでもない、待っていてくれる人がいるわけでもない。つまり急ぐ必要はないのだ。現在老人の家は目黒不動尊の傍はある。大きくて誰もいない家。
目黒駅から自宅までの権之助坂は坂がキツい。二年前、足が不自由になってからはあまり歩いていない。たまにはゆっくり歩くのもいいかと散歩がてら法要がおこなわれた鶯谷から歩いて帰ることにしたのだが混み合った電車は予想以上にキツかった。
息が収まって老人が辺りを見回すと渋谷まで混み合っていた車内は空いていた。がらんとした車内には色彩りどりの広告が間抜けに映えていた。
広告を見ながらふと首を回した時に、微かに線香の香りが鼻腔の奥に広がった。多分寺で自分の服に付いた線香の匂いだろう。老人はその匂いと共に家の仏壇に飾ってある妻の顔を思いだした。
長年連れ添ってくれた妻には今でも感謝している。結婚してから三十年間家事一切を任せっきりであった。自分は料理なんて全くできなかったし、生命保険証書や家や土地の権利証、印鑑なども何処にあるのやら一切判らなかった。そんな訳で妻が亡くなった時は不安だらけだったが、それでも何とかやってきて、やっと気持ちに余裕が出来てきたのだった。
最近では古いアルバムを引っ張り出しては若い頃に想いを馳せていた。
老人は思う。若いということは未来があるということであり、未来があるから期待や不安や驚きに満ちている。だから若者は妄想するのである。歳を重ねるということは期待や不安、そして驚きが少なくなるということである。何故ならそれらを若い頃に経験してきたからだ。そして人はその何も知らない未熟者だった自分を懐かしむ為にアルバムを眺めるのである。
しかし、老人はある日自分が写った写真が意外に少ないことに気がついた。特に妻と二人で写った写真は結婚式の写真以外にない。この三十年間色々なことがあったはずだし、色んな場所にも行ったような気がするのだが…
(そんなはずはない…)
老人は一所懸命に思い出そうと記憶を何度も辿ってゆく。
しかしやっぱり思い出すことができない。いや、思い出せないのではなくて、元々思い出を作っていなかったことに気がついた。
1930年に結婚し、二人の子供も授かった。しかしあの頃日本は高度成長期で皆よく働いて裕福になろうと一所懸命だった。昔、仕事休みなどは殆んどなく、流行り歌でも、月、月、火、水、木、金、金♪なんて歌が流行ったものだ。毎日昼は汗水垂らして働いて、夜は仲間と飲みに行き、まるっきり家族サービスなるものをした覚えがない。
子供も大きくなり親元を離れて定年退職。悠々自適の老後と称して家にいても夫婦の会話は殆んどなかった。そもそも何を話してよいのかが分からないのだ。黙っていたらお茶が出てきて食事が食卓に並ぶ。そんな具合だから二人で散歩や旅行だなんて考えられるわけがなかった。
このことが今こうして年老いた自分にとって、本当は大切なことであったような気がするのである。
妻もその思い出を持たずに逝ってしまった。
子供たちが法要に来なかったのも、きっと自分といても話すことがないからだろう。
(すまなかった…)
妻の7回忌法要の間も老人は妻に謝り続けていたのである。
(疲れた…)
「二ャーオ。」
老人は瞼が重くなる中で猫の鳴き声を聞いた。
《初めての旅立ち》
「あなた、あなた、起きて下さい。」
聞き覚えのある優しい声が耳元でした。
瞼を開くと乗り心地のいいリクライニング・シートにもたれて座っている。よく眠っていたのか身体が軽い。伸びをしながら窓を見ると山々の景色が広がっていた。
「ふふ、よく眠っていましたね。もうすぐ到着ですよ。」
声の主に振り向くと、妻が笑顔でこちらを向いていた。
「あぁ、お前か。」
(えっ、何故ここに?)
老人は内心びっくりしたが平静を装った。
「間もなく京都、京都に到着致します。お降りのお客さまはお忘れ物無きようご支度をお願い申しあげます。」
「えっ、京都?」
老人は車内アナウンスに驚いた。
「あなた、荷台の上の荷物を取って下さいな。」
何がなんだかわからないまま、取り敢えず荷台から荷物を下ろし到着を席で待った。
妻の席の通路を挟んで反対側に一匹の猫が二人をじっと見ている。
「あっ、わしの杖がない。」
老人は辺りを見回して探した。
「えっ、杖ですか?いつ拾ったんですか?そんなもの。」
「何を言ってるんだ。わしがいつも使っている杖だよ。木製の杖で先がくるっと曲がっている…」
「嫌ですよ。あなたは杖を持ってなんかいせんでしたよ。可笑しな人ですね。それに老人でもないのに、自分のことを「わし」呼ばわりは変です。」
(どうなっているんだ?)
新幹線ひかり号が京都駅に到着し、老人は訳が分からぬまま他の客とともにプラットホームに降り立った。猫は老人の足を巧みにかわしながら付いていった。
(ん?足が痛くない…、一体全体どういうことだ?私は夢を見ているんだろうか?)
「今日は本当に暖かくてよい天気。良かったですね。」
「う、うん…」
二人は改札口を出てタクシーの乗り場に向かった。
「そういえば、何処に行くんだ?」
「何を言ってるんですか、予約している旅館ですよ。」
「…」
老人は返事をしなかった。
タクシーに乗っている間も老人は考えていた。
(何が起こるんだ…。妻の法要の後、確か銀座線に乗っていたはずだが…)
「わぁ、鴨川沿いの桜が綺麗ですわよ。」
「あ、あぁ…」
老人は混乱して半分上の空だった。タクシーは三条の先斗町入り口で止まった。
そこから先斗町筋を徒歩で下り、先斗町歌舞練場の並びにその宿はあった。
「お邪魔します。東京の芳村です。」
「これは、これは、遠いところ、ようおいでやす。」
対応に顔を見せた女将は着物が身体によく馴染んだ中年の女性であった。
中居の案内で部屋に通されると部屋は鴨川沿いで、向こう岸には満開の桜に祇園の街や東山が一望できた。妻は景色の良さに大喜びした。
「ねえ、ねえ、鴨川を見て!カップルが等間隔に座っているわ!」
妻はまるで少女のように目を輝かせた。
「あれは鴨川の名物です。夕方には四条から鴨川上流へとえらい続くんですわ。ほな、ごゆっくりなさって下さいね。」
そう言うと中居は下がっていった。
「京都の女の人は着物姿が粋ですね。」
「そうだな…」
老人はすっきりしたくて顔を洗いに洗面所に向かった。老人は洗面所で鏡を見て驚いた。
「若い…」
確かに老人ではある。しかしまだ定年当時の艶のある顔をしている。
そういえば妻の顔も亡くなる直前よりも少し若い気がする。
老人が部屋に戻ると妻は窓を開け放ち、縁に腰掛けて鴨川の景色を眺めていた。そしてその横では猫があくびをしている。
「私、本当に嬉しいの。たとえ夢の中であってもこうして一緒に旅に来ることができるなんて。」
「やはりそうか…、これは夢の中のことなんだ。しかし私は京都を全然知らないよ。」
「私は行ってみたい場所がたくさん。せっかく来たのだから楽しまなくちゃ。
二度とこんなことはないでしょうからね。」
そう言うと、妻はニッコリ笑った。
(妻が生き生きとしている。こんなに行動的だったろうか?)
《旅の道草》
老人と妻は旅館で一休みした後、まずは昼飯を食べようと銀閣寺のすぐ傍にあるうどん屋に行くことにした。この店はうどんの上に別盛りの具を自由に乗せて、最後につゆを掛けて食べるのである。ミョウガ、大根、京都ネギ、ホウレン草、三つ葉、胡麻が山のように来る。麺も柔らかいコシがあってとても美味かった。妻は初めて見るうどんに大はしゃぎで美味いを連呼した。
腹ごしらえが終わると、二人はすぐ傍にある学問の道をゆっくりと歩いた。桜が満開の道はとても華やいでいて、老人は心がウキウキてした。
そこから平安神宮、南禅寺、三十三間堂と南に下ってゆき、この日の最後は清水寺に行った。二年坂、三年坂をゆっくり歩いて清水寺に向かった。老人は真っ直ぐ歩きたかったが妻は右へ左へ蛇行しながら店々を楽しんだ。そのたび毎に腕を引っ張られて店々を覗くことになる。
(この調子では明日は一体いくつ回れることか。)
老人は呆れながらも嫌な気分ではなかった。
そしてやっとのことで清水寺へと到着したのだった。清水寺から一望する京都の街並みは、碁板目に沿って綺麗に家々が並んでいた。
《上弦の約束》
その夜な晩飯は、西陣の知恵光院というお寺の傍にある《鳥岩楼》(とりいわろう)という鳥の水炊きを食べさせる店に行った。
店に入るとその造りは、所謂京都の鰻の寝床になっており奥が深い。真ん中にある小さな庭を借景するように部屋が周りに一階、二階と配置された風情のある店であった。
各部屋は畳み敷きでその真ん中にはコンロと白いスープの入った家庭用のお鍋が用意されていた。濃厚な白濁の鳥スープで食べる〈かしわ〉(鶏肉)はこの上なく美味しく、またそのスープに塩と胡椒を振りかけて飲むだけでもまったりとして大変美味しかった。
中居の説明では、この店は西陣の親方衆は勿論、太秦の映画撮影所から近いため昔は長谷川和夫をはじめとする往年の映画俳優たちが毎日入れ替わり立ち替わり訪れていたようである。妻はよく食べた。挙げ句の果てには、このスープを持って帰りたいとまで言った。二人は風情ある晩飯を腹いっぱいに食べてもう動けなくなった。
「ふぅ、苦しい…」
「横になってゆっくりして下さい。」
中居の勧めで二人は窓ガラスを開け放ち、頭を庭に向けて寝転がった。古い屋根ごしに四角く区切られた夜空には大きな上弦の月が鎮座していた。
「わぁー、なんて大きな月!」
「本当だ。」
「本当に美味しかったですね。また連れてきて下さい。」
「そうだな、また来よう。」
老人は満足感と夜風の気持ちよさで、これが夢の中だということをすっかり忘れていた。
そして、そのまま睡魔に襲われて意識が無くなった。
その脇で猫は眠っていたが猫はふと目を開くと、窓から屋根づたいに瓦の上に登って行った。そして瓦屋根の天辺に到着すると、大きな上弦の月をバックに猫が身支度をするシルエットが浮かびあがり、そこを微かな風に桜の花が流れて去った。
翌朝、老人が目覚めると妻はもう身支度を整えて、やはり縁に腰掛けて鴨川を眺めていた。妻は何かの歌を口ずさんでいた。
(昨晩店の座敷で眠ってしまってからどうやって帰ったんだ?)
老人は昨晩のことを思い出そうと食事後の記憶を辿っていてあることに気がついた。
―また連れてきて下さい。
―そうたな、また来よう。
酒の勢いとはいえ、あの約束は夢が覚めた時には辛過ぎる。老人は後悔した。
《不完全な庭》
老人と妻は朝食を済ませると、龍安寺に向かうことにした。この日は妙に蒸し暑かった。
気がつくと自分たちも半袖のシャツを着ている。
龍安寺に到着すると待っていたのは蝉の声であった。二人は中に入り、枯れ山水の庭の前に出た。
そして庭の手前にある廊下に腰掛けて枯れ山水の庭を眺めた。老人は石だけで出来たこの庭に惹かれた。
「この庭には何個の石があるのか分かります?」
「えーと、1、2、3…、14個じゃないか。」
「ふふ、いえ、答えは15個。あの石の陰にもうひとつあるんですよ。」
「えっ、そうなんだ…」
二人は廊下を移動した。
「あっ、本当だ。」
「今度はこの位置から数えてみてください。」
「あぁ。1、2、3…、14個じゃないかぁ。」
「この枯れ山水の石の配置は何処から見ても14個にしか見えないようになってるんですって。」
「どうして?」
「昔は15は完全を表す数字だったんだって。例えば十五夜お月様なんかは満月でしょ。
だからこの庭は不完全という意味らしいの。」
「ふぅん、そんなことよく知ってるな。」
「ふふふ。学生の時、修学旅行でガイドさんから聞いたの。」
「なぁんだ、そうだったのか…」
ふと老人は妻の修学旅行の話しを聞いたことが無いことに気がついた。
(私は妻の若いの頃のことを何も知らない…)
その後、二人は北野天満宮に行き、そこからほど近い今宮神社に向かった。
今宮神社は京都の神社の中では大きい方ではない。
妻は参道を歩き、今宮神社の門手前で両側にあるお茶屋の片方に入った。
あぶり餅と書いてある。
店先で沢山の串に差した餅を素焼きにしている。 妻はそこで20串注文した。
「おい、おい、それは多すぎだろう。」
「いえ、大丈夫です。」
あぶり餅を焼く老婆は、素焼きの餅に黄粉にたっぷりの甘いタレをつけ皿に載せて手渡した。
(なんだ。確かに20本といっても餅が小さいじゃないか。二人ならあっという間だろう。)
「これこれ!ん~、美味しい!あなたはどうですか?」
「まあまあだ。団子のようだな。」
(こういう味が好きなのか、初めての味だ。)
この頃から老人は、自分が仕事以外のことを何も知らないことに気がついた。
料理番組も見なかったし、旅番組も見なかった。情報といえば新聞のニュースくらいであった。
しかし妻と一緒に旅をしていると旅はこんなに驚き、楽しいものなのだ。
今更ながらと思いながら、老人は少し恥ずかしかった。
《幻想人力車》
この後、二人は太秦の撮影所の中で見世物として行っている時代劇の撮影風景を見て、そこから嵐山の竹林を抜けて渡月橋へと足を運んだ。
道には陽炎が立ち、とても暑かったが、その道中も妻はよく驚き、よく笑い、よく喋った。
そして夕方から四条烏丸に戻ると辻という辻がひといきれの人混みであった。
祇園祭の宵山だった。辻々には鉾の山車が出て街中が綺羅やかである。しかし暑かった。
この時期の京都は風がない。老人は逆上せてしまった。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、少し休めば大丈夫だ。」
近くで妻がかき氷を買ってきた。
老人が道端の縁台に腰掛けかき氷を食べていると目の前を猫が横切った。するとその直後に二人の前に二台の人力車が現れた。しかし引き手の余りの異様さに老人は心臓が止まりそうであった。
なんと引き手は三十三間堂で見た神々達であった。1人は金剛力士。もう1人は毘沙門天。
そして人力車の先導役として風神、雷神がそれぞれの少し上で雲に乗っている。
しかし辻を行き交う人々はそれが当たり前かのように気にも止めないで通り過ぎてゆく。
「まぁ、なんて素敵なお迎えなんでしょう!さぁ、乗せていただきましょう!」
「あ、あぁ…」
二人はそれぞれの人力車に乗る。老人が恐る恐る座席に腰掛けると、脇に猫が飛び乗ってきた。
風神と雷神は大きく身体を反り返し一気に前足を踏み出しながら前方に気を吐いた。すると辻に沿って風神の風の道と雷神の稲妻の道が真っ直ぐに伸びていった。
「す、凄い!」
老人は言葉にならないほど驚いた。今はもう先ほどの身体の不調が嘘のように興奮している。
「二ャーオ。」
猫の鳴き声を合図に金剛力士と毘沙門天が人力車を押し出してゆく。そして二人の神々は走り出し、老人と妻を乗せた人力車は祇園祭で華やかな京都の街並みを失踪してゆく。
人力車は辻から烏丸通りを上り、烏丸御池の交差点を突っ切って更に上ってゆき、京都御所に突き当たって左に折れて行った。
《山の火》
そこは山の麓である。
暗い道端に人が大勢集まっていた。老人と妻はその中にいた。
「何が始まるんた?」
「まぁ、見てて下さい。とても素敵なことが始まりますよ。」
数分後、人は更に増えていた。暫くすると、何処からか声が聞こえてくる。
警察官達が道を開けようとしているのだ。更に二、三分後大きな掛け声が聞こえてきた。
声の方を向くと、松明を掲げた50人以上の男達がこちらに向かって走ってきた。道の両脇にいた人々は大きな喚声を上げながら目の前を走り過ぎてゆく男達を見送っている。松明が目の前を行く時は闇に松明の火が眩しく、また熱い。男達はそのまま山に向かって消えていった。
男達が去った後も人々は帰らないで山の方角を見つめている。10分後、山の中腹に小さな松明が点々と動いていた。
その火が固定され、徐々に大きくなってゆき大きな文字が浮かび上がった。
大の文字である。
(初めて見た。大文字焼きはなんて勇壮なんだ!)
これほど近く生で見る大文字は山の中腹で力強く燃えていた。老人は力が漲ってくるような気がした。
老人が妻の様子をチラッと見ると、妻は手を合わせ、零れる涙を拭いもせず、取り憑かれたように大文字の送り火に見入っていた。
しかし、その口が小さく動いた。
「明日は東京に帰りましょう…」
《紅葉のトンネル》
少し肌寒い朝だった。
今朝は妻はまだ布団の中で寝息を立てていた。
老人は今までじっくりと妻の寝顔を見たことはなかった。
老人は妻を起こさぬように部屋を出た。そして少し肌寒い鴨川の畔を散歩し始めた。その後ろ3mを猫がついて行く。
空気は澄んでいたが老人は気分が重かった。
―明日は、東京に帰りましょう。
一昨日の約束。
(これからも夢は見続けられるということか…)
老人は昨日までの二日間を考えていた。
確かに夢の中で起こっていることである。しかし本当に私の夢の中のことであろうか?
私の京都の記憶は豊かではない。知らないことばかりである、だとしたらこれは妻の夢なのだろうか?しかし妻は数年前に亡くなっている。これが俗にいうタイムスリップということか?
老人は1時間かけて鴨川上流まで往復した。ちょうど旅館の下まで戻ってきた時、窓から手を振る妻が見えた。顔を見ると何故かホッとする。
部屋に戻ると、どうして自分を連れて行ってくれなかったのかと妻が悔しがった。
妻は、その後も悔しいと美味いを交互に繰り返しながら、いつもと変わりなく朝食を食べている。しかし老人にとっては、ひょっとしたらこれが妻との最後の朝食になるかもしれないと思い、あまり食事が喉を通らなかった。
妻はこの旅の最後にどうしても行きたい場所があると言った。
その場所は京都市からは少し離れていた。
二人は四条河原町から阪急電車の特急に乗った。車内は珍しいボックス席になっている。
「右側の席に向かいあって座りましょう。」
「あぁ…」
老人は訳が分からぬまま妻の言うとおりにした。
老人が腰掛けると、やはりその脇には猫がいる。猫は気持ち良さそうに眠っていた。
この阪急京都線は四条河原町、四条烏丸、四条大宮、西大路五条と地下の駅に停車をし西京極あたりから地上に出てゆき桂川の橋を渡る。
「なんて綺麗なんだ!」
「ふふ、でしょう!?」
川幅の広い桂川の上流に勇大な山々が広がっており、絶景だった。
(これも京都なのか…やはりワシは何も知らない。)
電車は桂に停車し、次に停まるのは天王山の麓、長岡天神である。山々の峰は次第に近くなってくる。
二人は長岡天神で電車を降りてバスに乗り換えた。
バスは天王山に向かって走ってゆく。
山の麓から広がる広大な竹林を抜けて到着した所は少し人里離れた場所にあった。
光明寺。
下の鳥居からその長い石段を見上げると、それは見事な鬱蒼とした紅葉が繁っていた。
老人はこれほど真っ赤な紅葉のトンネルを見たことがない。
「どうですか?」
「見事なものだ。」
「さぁ、境内まで上りましょう。」
「うん。」
二人はこの瞬間を楽しみながらゆっくりと石段を上って行く。後から猫が一段一段飛び上がりながら石段を上って行く。
苔の生えた石段を上りながら空を見上げるが、空は見えない。
真っ赤に染まった紅葉の天井だった。空からの光が紅葉の葉を通し、白いシャツは薄赤く染まっている。
老人は自然と涙が頬を伝っていた。その横では妻も涙を流していた。
老人は知らない。この涙は紅葉が美しいからではない。二人はもう何も話さなかった。
静かに一段一段を大切に上って行った。
やがて光明寺の境内に出た。二人は靴を脱いで本堂の板張りの階段を上り、中に入って行った。
本堂の中は天井は高くひんやりとし、何十畳もの畳が敷き詰められてとても広かった。
全ての戸が開かれて境内の周りは紅葉に満ちていた。爽やかな風が流れてゆく。猫はゆっくりと畳を歩いてくる。
今広い本堂の中で二人きりの時間が流れていた。
「京都に連れて来てくれて有り難う。」
老人は妻を見ながら礼を言った。
「いえ、あなたが来たいと思ってくれなければ私も来ることは出来ませんでした。私こそ有り難う。」
「しかしこれは本当に夢なんだろうか?」
「夢ですよ。」
「お前の笑顔も仕草も傍にいる匂いもこんなにリアルなのに…」
妻はニコっと微笑んだ。
「この夢はいつまで続くんだろうか?」
「…」
「ずっと続けばいいのに…」
「…」
妻は老人を見ながら大粒の涙を零した。
「嬉しい…。でも…叶いません。」
「私はこのままでいい。もし今、私が死ねばいつまでも一緒にいられるじゃあないか。」
「あなたが夢を見てくれないと…私は旅ができませんわ!?」
「今度はいつ夢が見られるのかが分からない…。結局、夢が覚めたら私は独りぼっちだよ。」
老人の目から涙が零れた。
「大丈夫ですよ。あなたは独りぼっちじゃあありませんから。」
妻は涙で目を真っ赤にしながら微笑んだ。
「まだ時間はあるのかい?」
「いえ…。ここでお別れしなくてはなりません。」
「もう少しだけいてくれないか…私にとって旅はまだ終わってない…」
「はい。じゃあもう少しだけ…」
「二人でせっかく京都に来たというのに私は気の利いた会話が何もできなかった。
それに恥ずかしいことだが、何十年も一緒に暮らしながら、私はお前のことを何も知らなかったよ。」
「ふふ、そんなこといいんです。それに私、昔からお喋りな男の人はキライです。
老人は少しだけ照れくさかった。」
「私は幸せでしたよ。」
その言葉で老人は一気に涙が溢れてきて、次から次へと涙がとめどもなく流れた。
妻も涙を零しながら、必死に笑顔を作ろうとしていた。
その時、外から紅葉が風に流されて本堂の中に舞い込んできた。老人は一瞬気を奪われた。
そして視線を戻すと、妻の姿が紅葉が舞う中で薄くなっていた。
「あっ、待って…」
消えていこうとする妻の笑顔の口元が微かに動いた。しかし本堂内に吹き込んでくる風の音に言葉は聞こえない。
「えっ、なに?」
老人は身を乗り出して消えてゆく妻の手を掴もうと手を伸ばしたが、空を切った。
今度は身体を抱き締めようとしたがやはり老人の両腕は空を切った。
妻は笑顔のまま紅葉の舞う中で消えていった。
猫はじっとその様子を見つめていた。
本堂の中には老人と猫だけになった。
老人はその場から動かず肩を揺らして泣いた。
暫くして老人は失意のまま肩を落としながら本堂を後にした。
その後ろを猫はついて行く。知らず知らずの内に陽は傾いて夕方になっている。辺りの紅葉はすっかり落ちて木々は枝だけになっている。そこを木枯らしが吹いてひゅーひゅーと哀しげな音を鳴らしていた。
石の階段は枯れた落葉が風に動いて、まるで生きる絨毯のようになっていた。
「広子…」
老人は妻の名を呼んで石段の途中で瞼を強く閉じた。
「二ャーオ。」
その時猫の泣き声がして、老人の意識が遠退いていった。
《明日の家》
「間もなく目黒、目黒。目黒に到着致します。」
老人は目を覚ました。
渋谷で座った時にはガラガラだった車内も若者たちでいっぱいであった。
「夢か…」
目黒に到着し老人は沢山の乗客とともに電車を降りた。猫は老人がプラットホームに降りてゆくのを荷台の上から見届けると大きなあくびを一つして姿を消した。
老人は駅を出ると権之助坂の下り坂を歩き始めた。暗い道を杖を突きながらゆっくり歩いてゆく。
(所詮夢だったんだ。現実の世界に戻れば独りぼっちなんだ…)
しかし老人は決して下を向かなかった。ただ前だけを見て歩いてゆく。
目黒不動尊の先の角を曲がると自宅が見えた。自宅の窓からはカーテン越しに光が洩れていた。
老人は不審に想いながら玄関前に立ちノブを引いた。すると居間の方から声が聞こえてきた。
「あっ、帰ってきた!」
続いて居間から子供が飛び出てきた。
「おじいちゃん、お帰りなさい!」
孫の武志である。武志は顔をくしゃくしゃにしながら老人に抱きついてきた。
「武坊!どうしたんだ!?」
すると居間から息子とその嫁が玄関まで出て来た。
「父さん、すまない。急きょ学校の行事が中止になって、なんとか間に合わせようとしたんだけど一昨日の爆弾低気圧で新幹線が遅れてしまって間に合わなかった。」
「そうだったのか。」
「おじいちゃん、ゴールデンウィークからおじいちゃんと一緒だよ!」
「えっ?」
「こら!武志、内緒だろ。いや、こいつ(嫁=真知子)がお父さんと一緒に住もう、とずっと言っててさ、会社にも転勤願いを出していたのさ。そしたらちょうど先週に会社から内示が出たんだよ。」
「真知子さん、いいのかね?役にはたたん無口な老いぼれだよ。」
「私、お義母さんが亡くなるまで何度もお義父さんのお話しを聞いていました。お義母さんはお義父をとっても愛していらっしいましたよ。だから私そんなお義父さんといつか一緒に暮らしたかったんです。
それに…」
「ん?」
「それに、私、お喋りな男の人は嫌いです。」
少女の夢
《甘えられない心》
4月4日午後3時、何処かの小さな駅に二両編成の電車が停まっている。この駅は小さな駅舎に小さなプラットホームがあるだけであった。駅の周りは見渡す限り田んぼで、遠くに山々が連なっているのが見える。
駅前にはお店は何もなく一本道が山に向かってどこまでも続いていた。
田んぼから一匹の猫がプラットホームに上がり、停車している電車に乗り込んだ。
その猫は一気に荷台の上に登ると少しだけ歩いて座った。
車内にはまだ誰も乗っていない。開いているドアや窓から爽やかな風が流れてゆく。暫らくすると、田んぼの一本道をバスが駅に向かって走ってきた。そして駅舎の前に停まり、水色のワンピースを着た少女が1人降りてきた。
少女は駅舎で切符を買ってプラットホームに出た。少女が歩くとワンピースのスカートが風に柔らかくなびいてとても清らかに映る。少女はプラットホームの上で瞼を閉じ大きく深呼吸をすると電車に乗り込んだ。
少女の名前は宮原可奈。
10才である。
明るい性格の女の子であった。
荷台にいた猫は手招きをした。すると可奈は吸い寄せられるように猫の下に位置するボックス座席に座った。
可奈はこれから母親の見舞いに行くところであった。本当なら母親は昨日退院して帰って来るはずだったのだが一昨日夜具合が悪くなってしまい帰って来ることが出来なくなった。
元々可奈の母親は病弱で、千曲山診療所での入院生活で3年の月日が過ぎていた。
それでも入院当初は何度かの入院と退院を繰り返していたが、次第に入院の期間が長くなり、この1年半は一度も家に帰っていない。可奈は大きな街で生まれたが、父親が5年前に事故で亡くなったのを期に母親の実家のあるこの地に引っ越してきた。
可奈は小学一年生から1週間に一度、祖母の家から千曲山療養所通いを続けていた。
千曲山療養所は可奈の家からは、バスと電車を乗り継ぎ千曲山をぐるっと回り約1時間半くらいは掛かるのだった。
可奈の祖母はもうかなりの高齢で可奈は自分のことは自分でやる癖を身につけていた。そんな訳で可奈は少し大人びた性格の持ち主だった。
子供ながらに母親に心配を掛けまいとし、我が儘を一切言わなかったのである。
そんな可奈を見て周りの大人たちはよくやっているね、とか頑張ってるね、とか言って褒めるのであった。
それが余計に可奈を明るくいい子にしてしまっていた。可奈の母親はそんな可奈の気持ちを察し、甘えさせてあげられないことを申し訳ないと感じていた。
電車は5分も経たない内に車掌の笛の合図とともにドアが閉まった。
「次は戸の鞍、戸の鞍。」
電車は発車した。
可奈は電車の進行方向右側のボックス席に座っている。ふと気がつくと可奈の目の前の座席に猫が座っている。
可奈は猫と目が合った。
そして、その目に引き込まれるように可奈の重くなり目の前が真っ暗になった。
「二ャーオ。」
猫の鳴き声が聞こえたと思った瞬間、可奈は意識を失った。
《たわいもない会話》
「可奈、可奈…」
(お母さんの声だ…空耳かぁ…)
「可奈、可奈…」
(えっ?)
可奈は目を開けた。
すると隣には母親が座っている。
「なんで?」
母親は可奈を見ながら微笑んでいた。
「療養所じゃあないの?病気は治ったの?」
「ううん、でも今日は気分が良くてね。ちょっと遠出の散歩しながら、戸の鞍の駅で可奈を待っていたの、一緒に療養所まで帰ろうと思ってね。そしたら可奈が眠っているのを見つけたから驚かそうと思ったのよ。」
「あっ、私、戸の鞍の駅は寝過ごしちゃったんだ。」
「ふふ、可奈よく眠っていたわよ。」
「なぁんだ!」
可奈は改めて母親を見た。
「お母さぁん!」
可奈は急に嬉しさが込み上げてきて、母親の右腕に抱きついた。
「お母さんの匂いだ…」
「先生がね、今日1日可奈とゆっくり遊んでいいって。」
「本当に!?」
母親は可奈の頭を優しく撫でた。そして可奈はこの3年間の想いをぶつけるように母親の腕を更にきつく抱いた。きっとこんなに甘えている可奈を学校の友達や先生が見たらきっと驚くに違いない。
「可奈は偉いさんね。いつも頑張っているもんね。いつもお家のこと有り難う。」
「ううん、お母さんがいつ帰ってきてもいいように準備してる。それより、お母さん!」
「なぁに?」
「クラスのケン坊がね、この間先生に凄く怒られたんだよ!」
「あらっ、どうして?」
「だって美由紀ちゃんのね…ククク。」
「どうしたの?」
「クククッ…」
「ねぇ、どうしたのよ。」
「だってぇ~、可笑しいんだもん!」
可奈は堰を切ったように話し始めた。
母と娘のたわいもない日常会話と笑い声が車内に響き渡った。
二人の向かいの席に猫が一匹座って身繕いをしている。
《流星列車》
知らない内に周りは真っ暗になっており、窓の外の暗闇を沢山の光りが後ろに流れていたが、気がつくといつの間にか天井にも床下にも満天の星が瞬いている。
今電車の形は消滅しボックス席だけが飛んでいた。可奈と母親はたった二人で夜空の中を飛んでいるのである。いや、目の前にいる猫も一緒である。猫はシートの上を歩きながら周りを見ている。
「凄い!私初めて!」
「お母さんだって初めて。ちょっと、怖いわ…」
「お母さん、大人のくせに可笑しい!」
「大人の方が怖いと感じることが多いのよ。」
「ふぅん、そうなんだぁ。」
「可奈は強いね!」
「皆そう言うわ。皆…」
(違う。この子はいつも気を張って頑張っている…)
その時、電車の汽笛が空に響き渡った。
その音がカラスたちを引き寄せた。無数のカラスが可奈たちの周りを飛んでゆく。可奈はその内の一羽のカラスと目が合った。
「もっと、もっと、もっと速く!もっと遠くに連れて行って!」
今母と娘はたった二人でカラスたちと一緒に星々の間を飛んでいた。
聞こえてくるのは微かな風の音と電車が規則正しく枕木を叩く音だけであった。
《ケーキの島》
「きゃあ!」
二人を乗せた電車を包む暗闇がいきなり二つに裂け、眩しい光りが差し込んできた。
「何にも見えないよ!」
「目を閉じて。鳥目になっちゃうから。」
母親は可奈をきつく抱き締めて瞼を自分の手の平で覆った。その瞬間、母親は可奈の幼い頭髪の匂いを、可奈は母親のブラウスの柔らかく、暖かい匂いをお互いに嗅いだ。
可奈は母親のブラウスを握りしめている。
眩しさは徐々に消えて、明るい視界が広がった。同時に甘い薫りが鼻の中を刺激した。
可奈は思わず母親の身体を離した。
「ケーキよ!ケーキの匂いだわ!」
可奈が窓を開けると電車はお菓子で出来た街の中を走っていた。
そして電車は大通りの真ん中にゆっくりと停車した。
「ケーキの島~、ケーキの島~。」
アナウンスが車内に響いた。
「お母さん見て見て!凄いね!お菓子だらけ!家も、ビルも時計台もポストもベンチもみ~んなお菓子だぁ!」
「可奈、降りてみようか?」
「本当に!?」
「うん。」
二人が電車を降りて道路に立つと、外はもっと甘い匂いが立ち込めていた。
道路はスポンジのようにわずかに沈み込む。
可奈は面白がってジャンプした。そのままスキップをしながら建物に近づいてゆく。
「可奈!走ったら駄目よ!」
「平気よ!これなら転んだって怪我しないもん!」
可奈は先ず自分の鼻を建物に近づけた。
「う~ん!なんて素敵な匂いなの!」
続いて人差し指で建物の壁を押してみた。すると白い生クリームでコーティングされたスポンジケーキの壁は凹み、可奈の人差し指には生クリームが付いた。
舐めてみると、それはそれは甘いクリーム。
「きゃあ!甘ぁい!!」
今甘いクリームが可奈の頭の中を支配し、可奈はキョロキョロした。更に家をよく見るとその窓ガラスは色とりどりの透明な飴細工、家の屋根はピンクのストロベリーチョコレート、扉はうっすら焦げ目の付いたクッキーで出来ていた。
可奈の目の前には美味しそうな家が広がっていた。
そのその時クッキーのドアが開き、中からタキシードに白い髭を生やした老人が出てきた。
「ようこそケーキの島に。ご覧の通り、この街は全て甘~いケーキとお菓子の材料で出来ております。好きなだけちぎってお食べ下さい。もしよかったらずっと住んでいただけませんか?」
「本当!?住みたいわ!毎日ケーキを食べられるんでしょ!」
「勿論ですとも!」
「でも…こんなに綺麗な街を食べてしまうのは勿体ないわ。」
「いえ、食べていただかないと困るのです。」
「困る?」
「はい、街や家を作るケーキ職人たちの仕事が無くなってしまうのです。
新しい街を創るには今の街が無くならないと創れないのです。しかもケーキ職人たちは創るのが仕事で食べたり壊したりすることが出来ないのです。」
「でも、私1人ではこの街全部は食べられないわ。」
「ほほほ、大丈夫でございますよ!朝、昼、晩、それに午後3時になるとこの街の住人たちが全員出てきて一斉に食べるんです。」
「本当に?」
「はい、本当ですとも。皆さん喜んでお腹いっぱい食べおられますよ。」
「なぁ~んだ!だったら大丈夫!」
「はい、1人でも多いほうが助かるんです。」
「助かる?」
「あっ、もう3時です!」
街で一番大きな、お菓子でできた時計台の針が3時を差した。
「ボーン、ボーン、ボーン。」
すると可奈と母親が立っている地面が揺れだした。その揺れは段々大きくなってゆき、道の遠くから大勢の人が走って来るのが見えた。
「きゃあ!」
可奈はその人たちを見て驚いた。
走っているのは全員百貫デブばかり。
デブたちは道路や家や車や街の時計台に貼りつくと、一斉にむしゃむしゃ食べ始めたのだ。
大きな目で母親の顔を見る可奈に母親は微笑みを返した。
可奈は安心して皆と一緒に壁や窓枠などをちぎって食べ始めた。
可奈の口の周りはあっという間にクリームだらけになった。
可奈は小学校に入ってから殆んどケーキを食べていなかった。
何故ならケーキというのは大抵子供が強請って親に買ってもらうものなのだ。
「こんなケーキの街、学校の誰も食べたことなんかないはずよ!」
可奈は学校の皆に自慢したい気持ちになった。
あちこち手当たり次第食べたが全然無くならない。
もっと頑張らなくてはと可奈は思ったが、ふと気がつくとデブたちは嬉しそうな顔をしていない。皆苦しそうな顔をしながら食べているのだ。可奈は隣で食べている男のデブに話し掛けた。
「どうしてそんな苦しそうに食べるの?こんなに美味しいのに!」
「もぐ…確かに美味しいよ。とても美味しい…。でも…とても苦しいんだ…もぐもぐ…。
僕たちは…朝、昼、晩…毎日…うぷっ、ケーキしか…食べてないんだ…」
「えっ、なに言ってるの?たまにはご飯や味噌汁を食べたらいいじゃない?」
「うぷっ、なにを…言っているんだい!ここには…ケーキしかない…、うぷっ、皆ケーキを…食べなきゃあいけないんだよ…。」
「お母さん!」
母親は可奈を見て微笑んだ。
「そうね。電車に戻りましょう。」
「そうですかぁ。あなたなら喜んでここの住人になって頂けると思いましたが…。かしこまりました。残念ですが仕方ありません。」
タキシードを着た髭の男は微笑みながらお辞儀をした。
デブたちが群がって家やビルを食べている間を縫って二人は電車へと戻ってゆく。
周りを見るとあの色とりどりだった綺麗な街は食い散らかされ次第に形が無くなりつつあった。
電車が見える所まで来たとき電車の汽笛が聞こえてきた。可奈と母親は急いで電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、電車が発車した。電車は街の真ん中を走りながら、どんどん高度を上げてゆく。
すると街の全体が見えてきた。その街は大きなデコレーションケーキの形をして空に浮いていたのである。
《天上露天風呂》
「可奈、次は何処へ行きたい?」
可奈は考えた。海に行きたいけど日差しも強くお母さんは疲れてしまいそうである。
ならばお母さんの病気にも良くて一緒に居られる場所…
「じゃあ、温泉!」
「えっ?」
「お母さんと一緒にお風呂に入りたい!」
目の前で眠っていた猫が目を覚まし大きくあくびを1つ。
すると車内に硫黄の匂いが漂い始め、窓の外には白い煙が立ち込めていた。
「なんにも見えないよぉ!」
次第に電車はスピードを緩めていく。
すると微かに駅舎が見え始め電車はその駅舎の前で停車した。
「山の谷温泉~、山の谷温泉~。」
車内の何処に座っていたのか湯治目当ての老人たちがぞろぞろと電車の出口に向かい始めている。
「お母さん、温泉だって!」
「私たちも降りましょう。」
「うん。」
二人が電車から降りると辺りは湯気でモヤっていた。改札口をくぐって駅舎の外に出ると大勢の温泉宿の客引きたちが宿の名前の入った小さな旗を持って立っている。
「もうお宿はお決まりですか?」
頭が禿げ、ちょっと小太りで肌が艶々した法被の男が二人に近づいてきた。
「いえ、まだですわ。」
母親が応えた。
それじゃあ、私どもの宿にお泊まり下さい。
うちの湯は万病に利き病弱な方を元気にしますぞ。
「お母さん、ここにしようよ!」
「そうね。じゃあ、お願いします。」
「有り難うございます!では私どもの宿にご案内致します。」
そう言うと宿の男は駅の脇にある石段を降りてゆく。
「足元にお気をつけて。」
下りにも関わらず数歩石段を降りるだけで宿の男は汗だくになった。
「ふう、ふう…」
まだ可奈と母親は全然疲れていない。
可奈は母親に耳打ちした。
「この人上る時にはどうなっちゃうんだろう…」
「ふふ、そうねぇ。」
石段は谷の暗闇の底に向かって何処までも続いていた。
もう15分以上湯気が立ち込める石段を下っている。
「一体どこまで下りればいいんだろう?」
20分くらいして、可奈と母親がふと気がつくと、二人は大きな宿の前に立っていた。
それは木造で作られた豪華絢爛な宿であった。
可奈は口を開けながら宿を見上げた。
「お母さん、高いねぇ~。屋根が見えないよ。」
「そうねぇ…」
「さあ、さあ、お入り下さい。」
可奈と母親は案内されるままに宿の中に入っていった。中は更に煌びやかで、廊下を進み幾つかの角を曲がってエレベーターホールにたどり着いた。
「ここからは別の者がご案内致します。」
エレベーターが開いて二人は驚いた。
エレベーターから顔を出したのはなんと法被を着たタヌキであった。
「ポン!いらっしゃい!さあ、さあ、お乗り下さい!」
タヌキの案内人は太鼓腹を叩くのが癖であった。
可奈と母親はエレベーターに乗り込むとドアが閉まり上層階に向かって上り始めた。
「ポン!私どもの風呂は天上露天風呂でして雲の上にございます。」
「雲の上?」
「ポン!さようでございます。人も動物たちも仲良く天上露天風呂を楽しんで頂いておりますよ。」
「ど、動物が?」
「さようでございます。皆さんそれは仲良く入っておりますよ。きっとお客さんにも気に入って頂けるはずです、ポン!」
エレベーターはどんどん空の上に昇ってゆき、やがて雲の上に出たところで止まった。
「ポン!さぁ、天上露天風呂に到着いたしました!」
エレベーターのドアが開いて、可奈と母親は外に出た。そこは雲の中にある空中露天風呂。まさに天上の楽園のようであった。
しかも湯に浸かっているのは本当に人間だけではない。猿や猪や狸や狐までもが湯船に浸かっていた。
可奈と母親は脱衣場で衣類を脱ぎ天上露天風呂の中に身体を沈めた。
「お母さん、気持ちいい?」
「とても気持ちいいわ。身体から疲れが取れるよう。」
「よかったぁ。」
可奈が露天風呂の縁を見ると猫が座っていた。可奈は猫のいる縁に移動した。
その場所からは雲の合間に地上の景色が一望できた。可奈が真下を見ると知ってる景色だった。
「お母さん、こっち!こっち!ほら、あれ千曲山じゃない!お家はあそこ、療養所は向こう。」
「まぁ。」
山の麓に可奈の住む街が小さく固まって見える。母親が入院する千曲山診療所はこの千曲山を挟んで反対側にあるのだった。
千曲山から少し離れた場所に電車の線路が山をぐるりと周りながら走っていた。
「直線ならあんなに近くにあるのにぃ!」
可奈は千曲山が本当に恨めしく思った。
可奈と母親が眼下の景色を眺めていると近くに猿の親子が近づいてきて話し掛けた。
「私たちはあの千曲山に住んでいるんですよ。」
「えっ、そうなんですか!?とてもいい所ですね。」
「えぇ、とてもいいところなんですよ。狸も、狐も、猪も、みんな優しいんですよ。この前なんか、うちの娘が熱が出てね、そしたら近所の狐さんがお薬を…」
母親と猿が楽しそうに話していると、次第に狐や狸や猪の母親たちが集まってきた。母親は皆と楽しそうに笑いながら話している。
可奈は元気な母親を見て嬉しかったが、何故か少しだけ嫉妬した。
母親が取られてしまった気がしたのである。
可奈は母親に近づき身体にベタベタつきまとった。
「あらあら、どうしたの?可奈は甘えん坊さんになっちゃったわね。」
「だってぇ~」
母親はにっこり微笑んだ。
その時アナウンスが入った。
「千曲山診療所行き電車は間もなく出発致します。ご乗車のお客さまはお急ぎ下さい。」
「可奈、行きましょう!」
「え~っ、泊まっていこうよぉ~」
「ううん、私たちは行かなくてはいけないのよ。さぁ、準備をしましょう!」
「うん…」
可奈と母親は周りにいた動物たちに挨拶をした。
「皆さん、楽しかったです。さようなら、ご機嫌よう。」
またいつか会いましょう!
そう言って皆が二人に手を振ってくれた。
可奈と母親は服に着替えると来た道を急いで駅に戻った。改札機をくぐり抜けプラットフォームに出ると電車のドアの所に猫が待っていた。
二人が乗るとすぐに電車のドアが閉まり出発した。
「はぁ、はぁ、面白かったね。」
「はぁ…、そうね。二人で谷に降りて雲の上まで行ったのね。」
母親は少し蒼白い顔をして苦しそうだった。
「お母さん、大丈夫?」
「えぇ…、ちょっと苦しいだけ…。」
《大きくなったら》
ボックス席に着いて暫くの間、母親は息が苦しそうにしていたが、徐々に治まってゆき顔にも血の気が戻ってきた。
「お母さん、大丈夫?もう療養所に戻ろうか?」
「いえ、もう大丈夫よ。急いじゃったのがいけなかったのね。せっかく万病に利く温泉に入ったのにね。」
「やっぱり温泉で泊まったほうが良かったんじゃない?」
母親はニコッと微笑んだ。しかし母親には分かっていた。泊まればあの旅館で寝ることになる。眠ってしまうことは今見ているこの夢が終わってしまうことを意味するのである。
「私も子供の頃は身体は丈夫だったのになぁ。」
「お母さんが私くらいの時って、どんな子供だったの?」
「そうねぇ、身体は健康で足も速かったんだけど、とても小さくてね、性格は人見知りで人とお話しするのが苦手な引っ込み思案の女の子だったのよ。」
「へぇ~、お母さんは小さくないよ。」
「ふふふ、そうね。」
可奈と母親はボックス席で向かい合わせに座っていた。母親の隣には猫が座っている。
「可奈は大きくなったらどんな女の人になるのかしらね。」
「私はずっとずっとお母さんと一緒にいるわ。」
「あら、結婚は?」
「しないよ。私が大人になったら、お母さんの面倒は私が見るからね。」
「頼もしいわ。」
母親はちょっと哀しそうな笑顔を見せた。
可奈はその母親の微妙な反応に引っ掛かりを覚えた。しかも母親の目が潤んだ気がしたのだ。
「さぁ…次は何処へ行く?」
窓の外は夕焼けで空も大地も真っ赤に染まっていた。
《母の体温》
「もしできるならもう一度お母さんのお腹の中に入ってみたいわ。」
「えーっ!お腹に?」
母親はちょっと困った顔を見せながらも笑っていた。そして母親は隣にいる猫を見た。
「猫?」
可奈がそう思った瞬間、可奈は何か温かな液体の中に飛び込んでいた。自分は裸である。可奈は自分のおへそから管が出ていることに気がついた。おまけに液体の中にいるのに全然苦しくないのだ。
(お母さん!何処?)
液体の中では、どん、どん、と大きな音が規則正しく鳴り響いていた。液体の中で話すことができない可奈はちょっとパニックを起こして足をバタつかせた。
(可奈、蹴らないで。)
声ではない声が聞こえた。その声にエコーがかかり可奈の身体中に響いてくる。
(お母さん、何処にいるの?)
(ふふふ、いいえ、可奈がお母さんのお腹の中にいるのよ。)
(えー、本当に?それじゃあこの大きな音は何?)
(大きな音はお母さんの心臓の音、びっくりした?)
(うん…)
(今可奈のおへそとお母さんのおへそは管で繋がっているのよ。あなたはその管から呼吸と栄養を採っているの。)
(凄い!可奈、お母さんと繋がっているのね!)
(昔、可奈がお腹にいた時も元気にお母さんのお腹を蹴っていたのよ。)
(温かいよぉ、お母さんのお腹の中。ふわふわしているよ。)
(そう、あの頃はね可奈がお腹の中で大きくなってゆくのが楽しみだったわ。)
母親の嬉しい気持ちが液体の中全体に広がって可奈はとても気持ちが良くて幸せな気分であった。
(毎日ね、どんな赤ん坊なのかを想像したの。あなたが生まれて大きくなったらどんな子供になるのか想像したわ。それで一緒に遊園地や洋服買いに行くことを考えていた…)
急に規則正しかった鼓動が乱れ始めた。
それとともに液体の中に悲しい気持ちが溢れてきた。可奈はその気持ちを身体中で感じとった。
(お母さん?)
(…可奈)
(お母さん!お母さん!どうしたの?)
(…可奈)
(お母さん!どうしたの?)
鼓動は徐々に小さくなり始めた。
(お母さんね…もう行かなくては…ならないみたい…)
(えっ、何処へ行くの!?可奈も一緒に…)
(…可奈…よく聞いて。…お母さんは…可奈ともう一緒に生きることができないの…)
(やだ!!)
鼓動がゆっくり小さくなってきた。
(今日は…とても…楽しかったわ。可奈…が…本当に…しっかりしてて…安心…したわ…。い、一緒に…生きられ…なくてごめん…ね…)
(嫌だ!嫌だ!嫌だ!)
(お母さん…の子に…産まれてくれて…あり…がとう…)
(ダメぇ~!可奈を置いて行かないで~!!)
ついに鼓動が聞こえなくなった。
(お母さん?お母さん!?お母さん、起きて!)
音も光りもない世界。その世界の中で可奈は独りぼっちになった。涙が後から後からとめどもなく溢れて、それが液体と交ざっていく気がした。
可奈は苦しかった。この孤独感から逃げ出したくて、必死に手足をバタバタさせた。
「二ャーオ。」
遠く暗闇の向こうから猫の鳴き声が聞こえてきてそれとともに可奈の意識が遠くなっていった。
《みんながいる》
「間もなく千曲山口、千曲山口。」
車内にアナウンスが響いた。
(あっ、眠ってしまったわ…)
可奈はうっすら汗を掻いていた。
(夢だったんだ…)
窓の外の景色いつもの通りであった。それを見て可奈は安心した。
電車はスピードを緩め千曲山口の駅に滑り込んでいった。
ドアが開いて可奈は電車を降りた。後に続いて猫もプラットホームに降りた。
辺りは木々が緑色に映えて空気が澄んでいた。
可奈は大きく深呼吸をした。そして改札に向かって歩いていった。
この駅からバスに乗って山の中にある千曲山療養所まで30分の道のりであった。
可奈が改札口をくぐり抜け駅舎の外に出るとバスはまだ来ていないようであった。
ふと気が付いて脇に目をやると角に車が1台停まっていた。
するとその車の運転席のドアが開いた。
「可奈ちゃん!こっち!こっち!」
新米先生!
車から出てきたのは千曲山療養所の黒ひげ先生の助手の新米祥である。
学生迄は東京に住んでいたが、一人旅をしている時にこの地に来て黒ひげ先生と出会い、助手になることを決めて移り住んだ。
本当の呼び名は(あらまい)だが、皆が字の如く(しんまい)先生と呼んでいた。ただ1人、可奈の母親を除いては。
黒ひげ先生は見た目もどっしりして無口で威厳があり、新米先生は優しく患者に接していた。
患者は皆、二人を見ていいコンビだと言っている。
その優しい新米先生が、今はちょっと怖い顔をして可奈の名を呼んでいる。
可奈は胸騒ぎがした。
可奈は車まで走っていった。
「早く乗って!」
促されるままに助手席に座るとすぐに車は発車した。
「1時間前にお家に電話したら、可奈ちゃんはもう出たと聞いて駅で待っていたんだよ。」
「…」
新米先生の緊張した話し方に可奈は胸の鼓動がドキドキして言葉が出てこなかった。可奈を乗せた車は右へ左へくねりながら木々が鬱蒼と繁る山道を登っていく。車だと15分の道のりであったが長く感じられた。その間可奈も新米先生も無言のままであった。
車が千曲山療養所の玄関前に到着するや否や、可奈は車を飛び出した。
まっすぐ玄関を入り母親の病室に急いだ。
部屋にはベッドが4つあり、母親はいつも窓際のベッドにいた。
可奈の記憶の中では、部屋に入ると窓からの光りを受けて「いらっしゃい。」と微笑む母親の姿があった。
それを願って可奈は部屋に飛び込んだ。しかし目線の先には母親の姿はない。
可奈はキョロキョロした。その時後ろから可奈を呼ぶ声がした。
「可奈ちゃん、お母さんはそこには居ないよ。」
声の主は黒ひげ先生であった。黒ひげ先生はいつものようにゆっくり話した。
「こっちへおいで。」
黒ひげ先生は廊下を歩いてゆく。その後を可奈がついてゆきながら、心臓がギュっと千切れそうになった。
黒ひげ先生は一番奥にある部屋に入っていったが、可奈は足が竦んで立ち止まってしまった。
「さぁ、お入り。」
黒ひげ先生が入り口の外に立っている可奈に優しく語り掛けた。
「神さま…」
可奈が恐る恐る入ってゆくとベッドの上に真っ白なシーツを纏って母親が横たわっていた。
可奈はその場にしゃがみ込んでしまった。
可奈の視線は宙を彷徨った。可奈は黒ひげ先生に抱き抱えられてベッドの傍にある椅子に腰掛けたが、まるで身体中から骨が無くなってしまったように脱力感が襲っていた。
夕方になって祖母が近所の人に連れられてやってきた。祖母は母親の姿を見て涙を流した。
近所の人たちは可奈を見て一様に、可哀そうに、元気を出しなさいね、と言う。
しかしこの時可奈は気丈に振る舞っていた。
それを見て皆が更に、偉いわ、しっかりしてるわ、と言った。
その夜、可奈は1人でじっと母親の遺体に付き添っていた。
祖母は悲しんでいたものの疲れたのだろう、別の部屋で眠っていた。
窓から月明かりが差し込んで母親を覆った白いシーツがひときわ白く感じられた。
ふと顔を上げて部屋の入口を見ると、猫がじっと可奈を見つめていた。
可奈は何も考えず猫の傍に寄って行くと、猫は廊下を歩き出した。
可奈が猫についてゆくと、猫は玄関から外に出た。
玄関の前は少し広い広場になっていて、その周りを山の木々や草むらが囲んでいる。
猫は玄関前に一段あるコンクリートの縁に座った。可奈もならって猫の隣に腰掛けた。
月明かりが可奈と猫を照らしている。
周りから虫の音が聞こえる中、可奈と猫はじっとしていた。
可奈の心は生気が失せ枯れていた。
暫くすると周りの木々や茂みがカサカサと音が聞こえてきた。
(何かしら…)
可奈は音がする方を見つめた。
「あっ!」
真正面の草むらの陰から姿を現したのは、法被を着たタヌキであった。
続いて右側の大きな木からカラスが現れた。
つづいて草むらの至る所から、狐や猿や猪の親子、白い髭のタキシードを着た老人、デブの男たち…見たことがある人や動物たちが月明かりに照らされながら姿を現し、可奈の周りに集まってきた。
皆一言も喋らない。
法被を着たタヌキが可奈の隣に座った。
猫はじっと可奈の顔を見ている。いやそこにいる全ての生き物たちが可奈に優しい眼差しを送っている。
可奈の凍りついた気持ちが徐々に溶けてゆき、大粒の涙がこぼれてきた。
タヌキが優しく可奈の背中を擦る。
すると可奈の涙は後から後からとめどなく零れてゆき、顔を覆ってむせび泣いた。
黒ひげ先生は自分の部屋で仕事をしていたが、何処からか微かに聞こえる声に窓の外を覗いた。
「あっ!」
黒ひげ先生には玄関のコンクリートに座る可奈の周りに、ほんの一瞬だけ動物や人が集まっているように見えた。
10年後―
春の暖かい一日。
千曲山口の駅プラットホームの上で一匹の猫が眠っている。辺りにはひばりの鳴き声が聞こえていた。
遠くから二両編成の電車が速度を落としながら千曲山口の駅に近づいてくる。
猫は目を覚まし電車を見た。電車は速度を極限まで落とし駅に入ってゆっくり停車した。ドアが開いても降りてくるお客はいない。
ドアが閉まろとした矢先、中から慌てて降りてきた女性客が1人。
プラットホームに降りた女性客は大きく深呼吸をした。そして自分のことを見ている猫を見つけると近づいて行った。女性客は猫の前でしゃがんだ。すると猫が女性に向かって鳴いた。
「二ャーオ。」
女性は微笑みながら言った。
「ただいま。うん、私は元気よ。」
おわり
「荷台に棲む猫」夢三部作です。
描きながら気がついたのは、僕がこのシリーズで描きたがったもの、それは《人は不条理に突然起こる死や別れを受け入れなくてはならず、失ってから記憶装置なるものがあるために苦しんだり、後悔したりをする動物なのだということ。しかしその先にあるものは、誰もが再び立ち上がり明日に向かって一歩足を踏み出すはず》ということです。きっと私自身が信じたいのです。
多分これからの携帯小説を使って描くものの中にはこの内容は入っていると思います。
最後まで読んでくれて有り難う。
きっと読みにくい箇所が多々あったかと思います。
ごめんなさい。