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名もなき花

作者: 白藤宵霞

この作品は、あくまでも『源氏物語』の「創作」です。物語の都合上、実際には起こりえない描写も多々ありますが、あらかじめご了承下さい。ちなみに、イメージとしては大和和紀さんの『あさきゆめみし』の影響を多大に受けております。

 いづれのおほん時にか

 女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに

 いとやむごとなききはにはあらぬが

 すぐれて時めき給ふありけり

                  (源氏物語第一巻 桐壺)

***

 みー……みぃー……。

 頬を濡らすあたたかな感触に、少女ははっと目を覚ました。


「ね、こ……?」


 そっと呼びかけた声に答えるように、「ねこ」が頬をすり寄せる。

 柔らかな毛並みが、とてもくすぐったい。


「みー」


 甘えた声とぬくもりが、遠ざかっていく。

 薄暗い闇に視線を落とした少女は、ぱたぱたと走り去っていく白い影を見た。

 と、それはこちらを振り返り、また小さく鳴く。


「みぃー」


 それはまるで、こっちにおいでと誘っているように思えた。


「ねこ」は光るような真白の猫だ。

 あまりにも安直すぎる呼び名をつけたのは、他ならぬこの少女である。

 数日前のこと、宮中から与えられた室の片隅――几帳の影に、ねこはいた。

 基本的に、猫は綱をつけて飼う小動物である。この帝のおわす宮中や上流階級の人々に愛され、愛玩動物として飼われていた。

 本来は経典をねずみから守るために、奈良時代、大陸より渡ってきたと言うが……その愛らしさに魅せられた人は多いようだ。


 だが、ねこには綱がなかった。

 ただ金の鈴だけが、首元で小さな音を立てていた。

 

 前足に血がついていたから、やんちゃな他の猫にいじめられたのかもしれない。

 それとも、鳥か犬に追いかけられたのだろうか?

 そんな「もしも」を想像し、少女は真っ青になった。

 恐る恐る柔らかな身体を抱きしめて、泣きたい気持ちになったものだ。


 もしかしたら、その姿に自分を重ねたのかもしれない。

 それは、一種の同情にも近い感情だったのだろうか。


「ねこ、何処へ行くの?」


 ねこが散歩に誘うのは珍しい。

 人見知りして、いつも少女以外には姿さえ見せようとしないのに。


「みぃー」


 それは果たして返事なのだろうか。

 ひとつ鳴いて、その白い身体は戸の向こうへと吸い込まれていく。


「……仕方ないわ」


 淡い桜色の単を羽織り、少女は溜息をついた。


***

 碁盤を連想させる都の北方に、大内裏(だいだいり)がある。

 大内裏とは省や司など、様々な役所が集う場所。

 その中央より僅かに東に寄った位置にあるのが内裏(だいり)。帝が生活する清涼殿と呼ばれる寝殿の他、その妃たちが住まう七殿五舎を総称したものである。


 少女の父は、大納言の地位を戴く貴族であった。

 臣下の身分は上から太政大臣、左大臣、右大臣、大臣――その下が大納言である。

 階級は中流に分類され、貴族と言えど身分はそう高くは無い。それでも、父は死ぬ直前まで娘が後宮に入ることを望んでいた。


 その意志を、母が受け継いだ。

 そして、少女は帝の一番身分の低い妃――桐壺更衣(きりつぼのこうい)となった。


 だが、まだ彼女は帝を拝顔したことがない。

 儀式などには稀に更衣たちも出席するけれど、目立たぬ端っこの席からでは灯台の明かりに反射する煌びやかな装束や、大勢の女たちに邪魔されてその姿は見えない。

 だが、それで良いのだと……仕方がないのだと、少女は諦めていた。


 帝には、右大臣を父に持つ美しい女御(にょうご)がいる。

 他にも、彼女には多少劣るものの、近くに侍るのは高貴な方々ばかりだ。

 自分とは、天と地ほどに違う。その名残香を聞くだけでも、きっと畏れ多いに違いない。

 立派で、威厳があって、雅で、高貴で……あまりにも自分と違いすぎて、正直怖くもある。

 このままが良い。ただ顔も知らぬまま、名ばかりの妃のままが一番楽で幸せだ。

 せめてお勤めだけは精一杯やらせて頂こう。それが、名ばかりの妃に出来る唯一のことだった。


 そのことは、誰にも言えない。

 娘の入内を望んだ亡き父にも、慣れぬ宮中での生活にと儀式の際の衣や香など、他の女御や更衣に見劣りしないようにと気遣ってくれる母にも申し訳がなかった。


 身分の低い更衣を気遣う人など、宮中にはいない。

 いつも除けもの扱いされてきた少女には、室の片隅で震えるねこが自分と重なって仕方なかった。

 だが、そんな少女にもねこは優しかった。


 だからこそ、こんなときですら、そのぬくもりを手放せずにいたのかもしれない。


***

 淡い花びらが、しずしずと舞い降りる。

 ぼんやりと光を放つ春宵の闇。雲から漏れいずる月光は、まるで高価な金粉をまぶしたようだった。

 吹き抜ける生ぬるい風に、髪が攫われる。

 視界を邪魔するそれを掻きあげ、押さえ、何とか前を見る。


 ちりぃ……ん……ちりりぃん……。


 白い毛並みが、前を行く。

 煙のようなその残影をただ少女は追いかけた。


(怖い……けれど、なんて綺麗なのかしら……)


 明かりの足りない闇も、獣の声さえ聞こえない静けさも、いつ鉢合わせするかも分からない人影も。

 湧き上がる僅かな好奇心を打ち消すものは、たくさんある。

 けれど、仄かな闇夜に浮かぶ巨木の美しさに少女は目を見張った。


 零れる月影。仄かに漂う闇の気配。

 枝の先端までずっしりと咲いた淡い色彩。

 見るものを圧倒し、在りつづける桜の巨木はただ美しかった。


 ――まるで、桜の王さまだ。


 悠然と佇む、春の王。

 その根元でねこは白い姿を消した。


 ……いや、違う。


 少女の歩みが、止まる。

 進むことも後退ることも出来ず、まるで太い根っこが足に生えてしまったみたいに。

 

 そこには、真新しい春の装束に身を包んだ貴人が佇んでいた。


「……あなたの、猫か?」


 歩み寄る白く小さなぬくもりを抱いて、彼は少女に目を向けた。

 若く瑞々しい、青年の声が首を傾げる。と、二人の間を駆け抜ける強い風に少女は思わず目を閉じた。

 髪が弄ばれ、桜の花びらが散り……そして聞こえる雅やかな香。

 

「……ぁ」


 自分以外の強い香に、更衣は眩暈を覚えた。

 目を閉じた僅かな間に青年との距離がぐっと縮んでいる。


「ゃ……」


 崩れそうな肢体を青年の片袖が受け止める。その力強さに、彼女は未知なる恐怖を覚えた。

 足下が覚束ない。悲鳴を上げる気力さえなく、なのに気を失うことも出来なかった。


(どうしよう……怖い……っ)


 目まぐるしく脳内で言葉が飛び交う、そのとき。


「みぃー」


 ねこが、鳴いた。

 くぃくぃと彼女の単を掬い、濡れた瞳が心配そうに見上げる。

 どうしたの? 大丈夫?

 問いかけるそれに、青年も気付いた。


「……やはり、あなたの猫なのだな」


 支えていた腕から解放され、唖然とする彼女の両腕にねこが渡される。


「お返ししよう」


 そう言って、青年は柔らかに微笑んだ。


「おまえも、あまり心配をかけさせるなよ。主人はどうも、ひとりで出歩かせるには危なっかしいようだからね」

「みぃー」


 見上げるねこの額を突いて笑う姿は、子供のようだと思った。

 先程まで抱いていた恐怖が、触れるぬくもりにゆっくりと溶けてゆく。


「では、わたしはこれで……」

「あっ、あの!!」


 だから、だろうか。返される背中を、とっさに引き止める。

 自分の声帯から零れた音に、彼女自身が驚いた。


「あ、あの……」


 ねこを腕に抱いたまま言葉を迷わす少女に、視線が合わさる。

 静かで優しいその色合いに、鼓動が乱された。何故、自分が彼を引きとめたのかすら分からない彼女は、それでもただ一言、言葉を紡ごうとして……


「――あなたは、桜の皇子さまですか……?」


 そして、次の瞬間には後悔で顔を真っ赤に染めた。


「……桜、の? わたしが?」

「ご、ごめんなさい。何でも、ありません……」


 だが、誤魔化しても遅すぎた。

 あまりにも恥ずかしくて、呼び止めなければ良かったと後悔する。

 満足に視線も合わせられず、柔らかな毛並みに顔を埋める。

 霧を含んだ涼やかさが熱い頬を撫でた。


「――桜、か」


 青年の声が、静かに夜風に溶けて耳朶を撫でる。


「それは良い。……そうであったなら、きっと楽だったのだがな」


 その寂しげな声色に、少女ははっと顔を上げるけれど、そこには優しい微笑みが浮かんでいるだけであった。

 それでも、月の影が射した面差しは先程の呟きの名残が見て取れた。

 堪えきれず、言葉をかけようとする。

 だが、その小さな桜色の唇を塞いだのは彼の柔らかな指の感触だった。


「――部屋まで、送ろう。女人ひとりでは、いくら宮中とは言え、危ないからね」

「……は、はぃ。……ありがとう、ございます」


(何も聞くな、と言うことなのかしら……)


 初めて逢ったばかりの人間に、気を許す人など稀である……そう、分かってはいるのだけれど。

 その優しい表情すらも、自分を拒絶するのかと思うと胸がちくりと痛んだ――ひどく、哀しかった。

 しゅん、と肩を落とした少女に、青年は彼女が気づかないほど小さな微苦笑を闇に零した。桜色に包まれた、ねこだけがその様子を不思議そうに見上げている。


「あなたの局は、何処に?」

「――桐壺、です……」


 差し出された手に手を預けながら、少女は消え入るような声で囁いた。


「……それは、随分と遠くまで連れてこられたものだな」


 まだ、宮中に慣れていない少女には、その距離感は良く分からなかった。

 夢中で追いかけてきたけれど、ねこを小突いて苦笑する青年の様子から、思ったよりも遠くまで来てしまったのだと思った。

 今更ながら、よく何事もなく来れたものだ。今になって、少し、足が震えた。


「夜風が祟るな……さぁ、行こう」

「宜しく、お願いしま、す……」


 それに応えるように握り返した、彼の掌はひどくあたたかくて。

 胸に詰まるような哀しさと怖さから逃れるように、そのぬくもりに縋りついた。


***

 桜の下での逢瀬から、十日。

 いつものように褥に身を横たえた更衣は、眠れない夜を過ごしていた。

 何度も寝返りを打ち、けれどやがてそれさえも諦めて、視線をぼんやりと落とす。近くに侍る女房たちの寝息が、耳朶をさわりと撫でた。

 普段は気にもならないそんな雑音さえ、訪れることのない眠気のせいでやけに耳につく。そして彼女の眠りを妨げる。

 終わらない矛盾に、このまま夜を過ごすのか……そう、息をついたときだった。


 みぃー……。


 闇の向こうで、ねこが鳴いた。


「ねこ……?」


 その姿を求めて目を凝らせば、白い尾だけが、彼女の声に応えるように揺れて消える。

 また、夜の散歩だろうか。あの日のように遠くまで出るつもりはないが、ねこが何処に出掛けるのかは気になった。

 見送りだけでもしてあげようかしら。淡い闇に響いた甘い声色に、そんなことを考えながら少女は褥から這い出た。

 外には出ないのだから、単もいらないだろう。

 他の女房や乳母たちを起こさぬように、そっと部屋を抜け出し、白い残影を追いかけた。


 人見知りのねこは、彼女たちの気配が薄い場所を踊るように進んでいく。

 それを倣うように彼女もまた、息を殺して庇を抜けた。まるで自分も猫になったような開放感と躍動感が、彼女の静かな足取りを鼓舞した。


 みぃー……。


 か細い鳴き声が、きらきらと銀の粉をまとって跳ねる。

 カリカリカリ……妻戸を引っ掻く音に、少女はしーっと指を立てた。


「今、開けてあげるわ」

「みゃー」


 愛らしい声が頷くと同時に、妻戸がカタンと小さな音を立てて開いた。

 銀色の月影が、ねこの白い毛並みと少女の白い寝巻きの色を艶やかに照らし出す。そして。


「――ぁ」


 駆け出す姿を見送った彼女の吐息が、止まる。

 月が密やかに暴いた姿は、もうひとつあった。


 艶やかな黒の狩衣。懐かしい香の匂い。

 春宵に溶け合う袖先が、対照的な白い毛並みを愛おしげに撫でた。

 ゴロゴロと喉を鳴らしたねこは、もう用は済んだとばかりにさっさと駆け出してしまう。


「……あなたの猫は、優秀だな。取次ぎも出来るとは」


 青年の声にすっかり逃げる頃合いを逃した少女は、恐る恐る……と言った足取りで彼へ歩み寄った。高欄(こうらん)越しに対峙する。


「どう、して……こちらに……」

「そんなに、緊張しないで欲しい」


 少女の声色の硬さに、青年の方が苦笑を零した。


「……これを。風邪をひかれては堪らない」


 被いていた薄い肌触りの単が、ふわりと春の香を孕んで少女に捧げられる。

 柔らかな感触が小さな身体を包み込んだ。


「ありがとう、ございます……」


 涼やかな甘い香りに、少女は顔を仄かに染めながら相好を崩した。

 青年の瞳が細められる。彼女を見守るそれは、あの日と同じ色をしていた。

 何処までも優しくて、柔らかで、そして……柔らかな指が教えた、あの微かな距離感を湛えて。

 その色彩に共鳴を覚えるのは、何故だろう。


「……姫?」


 零れるような少女の白い掌が、その輪郭に添えられる。

 扇も、御簾も隔たずに注がれる眼差しに、青年が瞠目した。少女の唇が、吐息を零す。

 

「……あなたも、ひとりぼっちなのですか?」


 問いかけながら、彼女はあの日を思い出す。

 初めて出逢ったとき、少女に応える瞳は何処か哀しい色をしていた。


「――あなたも、と言うことは……姫も孤独なのか?」

「そうですね。……わたしにはきっと、ねこしかいませんわ」


 意外にも零れる笑みは柔らかかった。

 その代わり、それを見つめる青年の方が辛そうな表情をする。

 そんな顔をしないで欲しい。そう願う一方で、心の片隅にでも自分の身を案じてくれる存在がいることを嬉しく思う。

 だからこそ、卑屈にならずに彼女は微笑むことが出来た。


「だって、ここでのわたしは、とても小さな存在なのですもの」


 後ろ盾も不十分な、身分の低い桐壺更衣。

 帝の妃とは名ばかりで、その姿を拝見することも、自分の存在を知ってもらう手立てすらも持ち得ない。

 宮中の片隅でひっそりとしか咲くことの出来ない、名もなき花。

 手折られることもなく、知られることもなく、やがては儚く消えていく。


 それが、今の自分。


「……わたしとて、姫と変わりない。名ばかりの、ちっぽけな存在だ」


 頬に添えられた掌にぬくもりを重ね、青年は振り絞るように呟いた。

 それは、同情とは違う感情に彩られていた。


「そんなことは、ありませんわ」


 だから、少女も同情を返すことはない。

 励ますように、ただ想いを伝える。


「こうして、わたしのことを案じて下さいます……それだけで、わたしにはとても大きな存在ですもの」

「姫…」


 彼女の言葉に、青年は瞳を伏せる。

 添えられたままの掌に、指先が絡んだ。

 その熱さに、少女の肩がびくりと上下する。彼が面を上げた。


「それなら……名を、教えてはくれないか?」


 そして、真摯な視線が彼女を再び捕らえる。


「あなたを探し当てる、手立てが、欲しい」


 懇願するような響きに、更衣の心が震えた。

 その気持ちに応えたい。優しく、熱い声で名を呼んでもらいたい。

 ひとりではないのだと、この身に刻みつけて欲しい――幼い少女の中に隠されていた欲が、声帯を伝って溢れそうになる。

 けれど、皮肉にもこの宮中で身に凍みた惨めさが、彼女に諦めを教える。

 桜色の唇を噛んで、更衣はわざと明るい声で青年に応えた。


「――お伝えできる名など、わたしにはありませんわ。ここにいるのは、名もない、ただの娘ですもの」


 その明るさが、一層自身の立場を自覚させる。

 たとえ、花開くことは出来なくとも、彼女は帝の妃だった。その立場から逃げることは、出来ない。彼の問いに答えることは出来なかった……どれほど、自身がそれを望んでいたとしても。

 これ以上返事をしたら、泣いてしまいそうだった。放して、と声で伝える代わりに、少女は余った方の手で彼の右肩を押した。


「……そう、か。無理強いをして、すまなかった」


 その拒絶を責めるわけでもなく、青年は哀しげに微笑んだ。

 少女の胸が、きゅ……っと締め付けられる。


「それでは、わたしは退散するとしよう。……これ以上、嫌われないうちに」


 そして、青年はそのまま踵を返そうとした。


「あ、あの、単を……!」

「それは、姫に差し上げますよ」


 大したことではないように、青年が笑む。

 だが、少女は強く頭を振った。


「いけません、このような大層な御品……」


 桜の文様を織り込んだ、羽衣のような艶やかな真白の単は、指先で触れるだけでもその高価さが知れた。少女が、手軽に貰い受けられるものではなかった。けれど。


「どうか、受け取って欲しい……ほんの少しでも、この想いを憐れと思っていてくれるのなら」

「でも……」

「行き場のない、わたしの抜け殻だけでも。せめて、傍に」


 それが、とても切実な響きを伴って。彼女の心をぎゅっと掴んだ。

 言葉を返す代わりに、少女は空蝉の衣に顔を埋め、やっと分かる程度にこくりと頷いた。

 そんな彼女の額に柔らかな感触が押し当てられる。その熱さに肩が竦んだ。


「きっと、探し出すよ。名前のない、小さな花だとしても……」

「っ、そ、そんな……!」


 しかし、彼女が顔を上げたときには、今度こそ、その姿は闇の向こうへと消えていった。

 悲鳴のような言の葉だけが行き場を失い、漂う。


「……みゃー」


 すると、見計らったように白い影が少女へと擦り寄った。


「……どうして、取次ぎなどしてしまったの?」


 無邪気に体躯を摺り寄せて甘えるねこを、少女は詰った。

 そうすることしか、出来なかった。込上げる感情に飲み込まれてしまいそうで。


「ねぇ、どうして……どう、して……」


 胸の奥に芽生えた切なさに混乱したまま、彼女はただ白い毛並みを抱いたまま震えた。

 その小さな身体から彼の残り香が聞こえて……それがまた、苦しかった。


***

 その後、どれだけねこに誘われようと、彼女が外に出ることはなかった。

 再び、青年と顔を合わせてしまったら、きっと自分の感情は抑えきれない。けれど、それは少女が望める未来ではなかった。

 それでも……あの空蝉の衣だけは、どんなときでも手放すことが出来なかった。


 そして、あの再会の夜から、七日、半月……そして一ヶ月が経とうとしていた。

 桜の花はすっかり落ちて、今は浅緑の若葉が目に眩しい。

 衣更えの季節に、桐壺はいつも以上に活気に満ちていた。

 

 仮にも更衣の位を賜る少女にとって、帝の衣装を用意するのは大事な勤めのひとつだった。しかし、部屋を埋め尽くす真新しい装束の鮮やかな色彩に、小さな唇からは甘い吐息が零れた。

 帝がお召しになるとあって、その出来栄えは素晴らしい。

 恐る恐る触れた指触りに、また溜息をつく。繊細な文様も、彼女をただただ感動させる。


(このような装束をお召しになる帝は、一体どのように素晴らしい方なのかしら……)


 ふと、少女は夢想する。

 しかし、その瞼の裏に浮かべることが出来るのは、遠い場所からやっと見えた影のような後姿だけだった。


(……考えても、仕方のないことだわ)


 他の妃たちのような、有力な後ろ楯もなく。

 こうして、遠い場所で声を潜めて嘆くことしか出来ない。この声は、決して届きはしない。

 そんなことは始めから分かっていた。


「だって、わたしは、名もない花にしかすぎないのですもの」


 ひっそりと花を咲かせても、誰にも知られずに枯れていくだけ。

 それでも、心の奥底で少女は切に(まれ)う。そんな自分を見つけてくれた、あの優しい人を。


(桜の、君……)


 その姿を思い描くと、胸にぽっと火が熾る。

 それは、密やかな花には不釣合いな色彩だった。


(馬鹿ね……多くを望んでなど、いけないわ)


 そう言い聞かせ、彼女は小さく(かぶり)を振った。

 乱れた髪の一房が、五衣(いつつぎぬ)の上に落ちる。だが、その微かな音に混じって、突如、女房の声が少女の耳に届いた。それまでの穏やかな静寂が、遠くの足音と共に破られる。


(どうしたのかしら……)


 帝の装束を慌てて戻し、彼女は小さな声を上げた。


「ねこ……ねこ、何処……?」


 白い姿を……自身の味方を探し、瞳を走らせる。

 けれど、ねこもこの騒動に怯えているのか、つい先程まであった気配はすっかり消えていた。鳴き声ですら彼女に応えてくれない。


(とにかく、隠れなくては……)


 見当たらないねこの姿に心細さはより迫るけれど、何よりも今は恐怖から逃げるように、慌てて重たい裾を引いた。

 だが、あまりにも心地良い天候に気を許し、廂の間近まで出て来ていたのが悪かった。美しい濃淡を重ねた装束に苦心する。

 その間にも、確実に足音は近づいていく。

 少女の鼓動が跳ね上がり、竦んだ身体が(うずくま)る……と、女房の甲高い悲鳴が響いた。


「お、お待ち下さいませっ……主上――っ!!」


(お、かみ……?)


 この場には何となく相応しくない者の名に、彼女の動きが止まった――それが、決定打となった。

 美しい綾絹の擦れる音が鳴り響く。そして。


「いた」

「!」


 短い声に、はっと息を呑む。

 すっかり隠れたと思っていたのに、驚いて手放してしまった薄い空蝉の単が、御簾の隙間から微かに零れていた。男の声はその所在を――しいては、少女の所在を指し示していた。


(に、逃げなくては……)


 恐怖で竦む四肢に無理に力を入れ、彼女は這うようにして室の中へ引き返そうとした。けれど、大股で近づいた足音がそれを許さない。

 御簾が大きく翻る。初夏の陽射しが、彼女の姿を露わにした。


「――っ!?」

「見つけた……夜桜の、姫」


 引き寄せられた腕の強さと熱さに、悲鳴が喉を凍らす。

 けれど、耳朶に触れた声色に彼女は別の意味で震えた。


「どぅ、し……て……」

「言ったはずだ、きっと探し出すと」


 困惑の面持ちで真っ直ぐと見上げる少女に、彼は口の端にそっと笑みを浮かべた。捉えて離さない瞳は何処か悪戯好きな猫のように光っていた。


「どうして、あなたが……」

「なに、月光の下の花も美しかったが、陽の光に照らされた姿も見たいと思ってね」


 その楽しむような口調と声は、紛れもなく夜桜の下で出逢った青年だった。


「逢いたかった、夜桜の君……いや、桐壺更衣。わたしの、妃」

「で、では、あなたが……っ」


 彼が帝であると理解した更衣は、急いで礼を取ろうとする。

 だが、腕の中でもがく彼女を青年は離そうとはしない。

 それどころか、涙目になっている少女の白い顎を指ですっと捕らえた。ふたりの眼差しが交じり合う。


「夜桜の姫」


 その眼差しから、目が逸らせない。

 畏れ多いことだと頭では分かっているのに……その強い瞳が、少女を射抜く。

 それだけで、彼女の四肢は弛緩する。青年の衣に縋りついたまま、ただその眼差しを見つめつづけることしか出来なかった。


「……名を、」

「ぇ」

「今度こそ、あなたの名を聞きたい」


 口の端に笑みを浮かべた青年は、少女がもう、自分を拒まないと知っているようだった。

 自信に満ちた表情に、あのときの哀しみはなかった。

 そして更衣もまた……抱きしめる掌の熱さに、寂しさとは違う感情が湧き上がる。

 未だ混乱を引き摺りながらも、それでも彼女は熱に浮かされたように桜色の唇を開いた。




「わ、わたし……わたしの、名は――」




 咲き染む花の香に、青年は満足げに微笑んだ。


***

 その後、ねこの姿を見る者はいなかった。あの、桐壺更衣でさえも。

 代わりに、ねこを失った彼女は、新たな生命をその身に宿した。




 光の君――真白に輝く皇子は、そう名づけられた。




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― 新着の感想 ―
[一言] こちらにも失礼します、花橘です。 私も古典文学が好きなので楽しく拝見させていただきました。源氏物語の、華やかで、それでいて細やかな美しさをそのまま表現されていてさすがだと思いました…! あり…
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