08
口元しか見えない彼から紡がれたのは、紛れもない日本語。
その音を耳で噛み砕いた瞬間、例えようのない安堵が瞬く間に全身にひろがって、自分の震えに気付いたのは生温い水分が頬を伝ったあと。
糸が切れたようにぼろぼろと涙を零す私を、彼はただ黙って見ていた。
初日にあったおばさんのように怪訝な顔をするわけでもなく、かといって私を案じるような素振りもない。
本当にただ黙って待っていてくれた。まるで私の現状をわかってでもいるかのように静かに。
やがて嗚咽を混じらせてもその姿勢を崩すことなく、そこに‥居てくれた。
暫くして顔を上げられるようになった頃には、それなりの時間が経っていたのだろう。先程はまだ斜めに見上げていた太陽が今や頭の真上。開かれた木立の上から暖かな熱を注いでいる。
まだ冷静にという訳にはいかないが、発せられた日本語に安堵して泣き、何も言わない彼に甘えて待たせてしまったことに、恥ずかしさと申し訳なさとが今更ながら湧き出して、恐る恐る顔を上げた。
「あの‥ごめんなさい」
「いいよ。泣けないよりずっと健全だ。羨ましいくらいさ」
羨ましい‥?
今この場で返ってくる言葉としては少し不思議で、つい首を傾げてしまう。
「少しはすっきりしたかい?」
口角を持ち上げて尋ねる相手に「はい」と返すと、その口の端は「そう」と満足げにまた上がる。
相変わらず口元しかみえない彼の笑みはなんとも読めないものではあったが、嫌な感じはしなかった。
あのこはいつの間にか彼の肩に乗っていて、つぶらな瞳でこちらを見つめている。
「チョビが君の名前を知りたいって」
「ちょび‥そのこはチョビって言うんですね‥」
チョビと言われたあのこを指先でつつきながらそう言う彼に、気持ちよさげに頭をそらすチョビ。彼に懐いていることが一目でわかる。そして微かにきこえた囀りは彼らのものであったのだろう、両者の周りをパタパタと羽ばたく二羽が、まるで「まぜて」と言っているようでなんだか微笑ましい。
全身真っ黒で、顔さえ覆い隠すピエロのような二股の三角帽子。
一見すると遠巻きになってしまいそうな出で立ちなのに‥、どこか優しい空気を感じるのは何故だろう。
「僕はリー」
「私は‥希望、澤希望です」
「ノゾミ?」
「はい」
こっちに迷い込んで初めて笑えた気がした。
もしかしたらひどく歪だったかもしれないが、それでも笑ったつもりにはなれたのだ。
そしてそうできたことが嬉しくて、また一つさっきとは違った涙が溢れる。
そんな私を今度はまじまじと観察するように、少しだけ帽子の端を持ち上げて彼は感慨深げに呟いた。
「小汚い域を超えているねぇ」
『キュイ』と続くチョビに、同意されたような気がして何とも複雑な気持ちになる。
小汚い域‥。しかも、超えてる……。
確かに反論出来ない。私の格好はあの朝からずっとこれだし、勿論お風呂どころかシャワーすら浴びていない。小さなあのこに教えてもらった水場は少しずつ湧き出るそれで、とても水浴びができるようなものではなかったから、持っていたハンカチを湿らせて所々拭う程度しかできなかった。制服も大分ダメージを受けているし‥。
これはあれだ‥、ガード下で袋に埋もれていても違和感がないレベルだ‥。
そう思い至って急に恥ずかしくなる。さっきまでそんな余裕なんてどこにもなかったくせに。
「まぁいいや、一先ずウチに招待するよ。君が何かを話したいと思うなら、さっぱりした後でね」
いつの間にか近距離で差し出された手にびくりと身を反らしてしまった。
しかし彼はそんな私の態度に気分を害した様子もなく、慌てる様を見て小さく笑う。
そっと撫でられた頭に、正面から見上げると、垣間見えた瞳が緩く弧を描いている気がした。
羽ばたいていた一羽が私の頭に降りて旋毛をつんつんと啄む。
「早く立てって言ってる」
柔らかな声音が、木漏れ日のように心地好い。
足元の数えはそれ以上進むことなく。転がった枝先はこの日、役割を終えた。