02
『おや、あんたはいかなかったのかい?』
「!」
背後からかけられた声に緊張が走る。
いつの間にか頭一つ、狭い路地裏から私は外へ出てしまっていた。おかげで視界は随分と開けていたけれど、それは同じように他の目にもとまるということ。結果として今近づいてくる女性に、私は見つかってしまったのだ。
しかし何よりも聞こえてきたそれ。紡がれる音の羅列にどうにかなりそうだった。
日本語じゃない‥でも英語とも違う。一言二言の発音では言い切ることは難しいが、多分ドイツ語やフランス語でもない気がする。
混乱する頭にとるべき態度が見つからない。
冷静にならなければと思えば思うほど、「どうしよう」と闇雲に求める五文字が濃くなるばかり。
そんな状態で役に立つような打開案が浮かぶはずもなく、せめてもの抵抗、唯一出来ることとして、目だけは逸らすまいと踏ん張ったが、それすらも加速する動揺や、わからない怖さに長くは続きそうになかった。
そうしている間にも女性はどこか物珍しげな様子で距離を詰め、こちらを観察するようにぐっと顔を寄せてきた。同時に私の肩がぎくりと強ばる。
くるくるの赤毛にスカーフを被った彼女は悪い人には見えないけれど、どんなに人相がよく見えたって私と彼女の間にある違いは歴然で、今この時は恐怖を煽る材料にしかなり得ないと全身が訴える。
逃げろ逃げろと足が、体が、普段とは逆に脳にむかって懸命に伝えようとしているかのように震え出す。
けれどもやっぱりうまくいかなくて、半歩どころか後退りさえ満足にできない有り様だ。自分の身体なのに色んなところがバラバラになったみたいに纏まらない。
落ち着け、と何度も何度も乾いた喉の奥で唱えるが、繰り返したその意味も驚くほど簡単にこぼれおちていった。
穴でもあいているのかと問いたくなるくらい、頭の中に何も残らない。
どうにかしようと考えているはずなのに、それが全部抜けていく。
どこをどう塞げばいいのかわからない。
目の前の不確かなものに、自分への侵入を許すのが恐い。
『‥随分肌を出しているね。そんなに怯えて、もしやラダから逃げてきたのかい?』
尻あがりの口調だ‥。何かを問われている?でも、私は返す言葉を持っていない。仮に私の知っている言葉を使っても彼女には通じないだろうし、それどころか私が彼女と「同じではない」ということに間違いなく勘付かれてしまう。今でさえ怪訝そうな顔でこちらを窺っている様子なのに、この顔がもっと恐ろしいものになってしまったら‥。
少し窪んだ女性の双眸が想像する恐怖を煽り、ますますの混乱を押し付ける。
背中に滲み始めた汗に体温を奪われてしまいそうで、無意識に左右の腕が互いを抱えていた。
表情と音の持つニュアンスを僅かでも読み取れれば‥、そう思って必死に向かい合うものの、焦りや不安に焦点がぐらぐらして思うようにいかない。そしてそんな視界に入る看板や標識らしきもの、使われている文字。遠くから微かに聞こえる別の誰かの呼び声に、楽しげに応える笑い声。
嘘だと言って欲しかった。
こんな追い打ちはいらなかったのに。悪い夢にも程がある。
パーンパーンと昼間の空に打ち上がる細い白が、場違いなほど清々しい。
もう一度瞬きをしたら、元のホームが見えないだろうか?
教室でいつもの時間を迎えて、よく笑う友人に会えない?
いくら話しかけても返事をしない私に、目の前の女性の顔が徐々に険しさを帯び始める。
ああ、だめだ。このままではだめ。はやく‥行かなくちゃ、逃げなくちゃ。
少しずつ復旧を始めた思考が、今度は焦燥に抗いながらぐるぐると回りはじめたとき、
『カーラ!カーラちょっと!』
突然高らかにあげられた一声にブツリと何かが解放されて、気が付けば集まりはじめた視線から逃れるように、私の足は勢いよく土を蹴っていた。