01
「…なに」
口をついてでたのは短い、けれど純粋な疑問だった。
「さっき」などという経過はない。正に今の今までいたのだ、使いなれた最寄り駅の一番線ホームに。 乗車予定の上り電車は停車する直前だった。なのにどうだろう、瞬きをしたほんの一瞬、再び開いた視界に移ったのは予想していた当たり前のものとは違っていた。幻でもみているような気分だ。それとも立ったまま眠りにでもおちただろうか?そんな覚えはないけれど、そう疑ってしまう程度の変化がそこには確かに存在していたのだ。
足元へと視線を落とし、右へ左へと頭を振る。どうみても駅ではない。線路とホームの段差もなければ、前と後ろには民家らしき建物の壁。足の下は土と砂利。見たままを言うならばどこか田舎の路地裏のような‥そう、小さいころに近道と称して面白がった他所様の敷地の一角。そんな隙間を思い出させる道だった。
何度か瞬いてそうっと片足をあげ、怖々と下ろすと、そこにはちゃんと「一歩」の感触がある。
そのまま一歩、また一歩と明るい方に足を進めれば、少し広めの通りに出た。ちらほらとだが人もいるようだ。
そっと‥慎重に、路地からは身を出さず観察する。夢でもみているのか、はたまた現実なのか、まだ判断は難しい。並ぶ街並み、見える文字、僅かな人の特徴や服装、それら全てが私には見慣れないものだったのだ。
ふと差した影に上を向くと、近い空に少し小振りの飛行船が横切るところだった。
何かの祝い事だろうか?白い花弁のようなものが微かな風に乗って降ってくる。それを見上げる老人の顔はにこやかで、少し離れたところからは手をたたく音も聞こえた。小さくあがった声は喜色を孕んでいるように感じられるが何を言っているのかはわからない。
音量の問題ではなく、だ。
好奇心などというものは湧かなかった。
夢か現実かの判断もつかない状況のままに、ただただ立ち尽くすしかできない。
ここは「どこ」というよりも、「なに」と最初に出た言葉のほうが私にとって正解だ。
一瞬にして変貌を遂げた場に、嫌味なくらい心地良い風が吹く。
まっ先に戻ってきた感覚は、僅かな寒気と、ほかの何物でもない恐怖だった。
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緑の木々の合間から鳴り止まぬ喝采と人々の祝福が見える中、その中央に位置するバルコニーを眺めながら窓際でグラスを傾ける男の姿があった。
年の頃は二十そこそこ、光を受けずとも煌く銀糸は無造作に背にかかり、両脇に流された前髪からは赤茶色の瞳が覗く。品のある口元はどこか嘲笑の色を浮かべながらくつりと漏らすと、外に向ける目線を戻すことなく、たったいま入ってきたばかりの青年へ面白そうに声をかけた。
「やぁアルベルト、我侭王子の懐柔には成功したかい?」
「口を慎め、次期国王となる方だ」
アルベルトと呼ばれた青年は生真面目に眉を顰め、投げかけられた問いに答えることなく一喝した。しかし諌められた当人は悪びれることもなく、むしろ尚愉快とでも言わんばかりにケタケタと天井を仰ぐと、並々と残っていたグラスの中身を傍らの観葉植物に降らせながら次を紡いだ。
「ではそれまでに乳臭さを消してやるんだな」
「シリウスッ!」
笑みの形を崩さない彼にもう一人の青年が声を荒げるも、その態度が改まるということはない。そんな相手に苦虫を潰した様な表情を隠しきれずにいた青年ー‥アルベルトは、今度は大きく嘆息する。
「そんな物言いをしているとお前の真意を測れる者などいなくなるぞ」
低く透った声は外からの歓声よりもその部屋に重く響くものの、送られた本人は表情を変えることなく再び賑わう広場へと目を遣ると、今度は少し自嘲気味に笑った。
「そんなものは望んでない」
静かに返された言葉の中には先程までの彼はおらず、ただ声にのる儚さだけがじんわりと滲んでいた。
アルベルトはそれ以上何を言うこともなく、シリウスとよんだ前に立つ青年の後姿を見つめ菫色の双眸を細めた。わかっているのだ。彼がこうしてわざと皮肉を口にするわけも。そうして自身を治めていることも。
やりきれない思いを吐き出すことも出来ず、二人は暫しの間沈黙を共にした。